毛利の失墜⑥ 勅使と降伏

「どうやら此度の戦は勝てそうじゃの」


「いえ、戦は最後まで油断は出来ませぬ。ですが、まさか禅閤様がこのような血生臭い戦場にお越しになるとは夢にも思いませなんだ」


浅井長政はそう言って、恵空の真意を探ろうと話を振る。


「ほほほ、血生臭いと申されるが、10年以上前であったか。拙僧は娘婿の十河讃岐守(一存)殿に加勢すべく、四国へ渡ったこともあり申すぞ。齢60を過ぎた老体じゃが、この程度の山道など大したことはござらぬよ」


63歳の今もなお矍鑠とした恵空は朗らかに笑い声を上げる。


かつては公家の頂点に立った経歴を持ちながら、高貴な公家のような尊大な態度は全く見られず、長政も親しみを感じるほどだ。


(一見は好々爺だが、交渉を有利に運ぶための芝居であろう。油断は出来ぬ。だが、娘婿を助けるために四国へ出向くとは、どうやら武家を軽んじない御方のようだな)


恵空は若い頃から経済的な困窮に悩まされてきた。それこそ関白の地位に就きながら拝賀すらできなかったほどであり、関白を辞任してからは西国の各地を渡り歩いた後、10年ほど前に出家して粗末な庵に暮らしていた。


(禅閤様は確か石山本願寺の顕如を猶子とされて金銭の援助を受けていたと聞く。おそらく本願寺の縁で毛利とも交友があったのだろう。そこへ毛利が朝廷に和睦の斡旋を頼み、禅閤様が勅使に選ばれたと考えれば納得が行くな)


心中でそう推測した長政は、静かな声音で本題へと移る。


「それで、禅閤様が勅使として参られたのは如何なる御用件にございますかな?」


長政の問い掛けに、恵空は沈痛な面持ちで告げる。


「うむ、此度は加賀守殿に頼みがあって参ったのだ。実はな、毛利家は亡き陸奥守殿以来、朝廷の忠臣でな。毛利家の忠義無くしては朝廷の威光は疾うに失墜していたであろう。主上はそんな忠臣を見殺しにはできぬと思し召しなのじゃ」


恵空の言うとおり正親町天皇は弘治3年(1557年)に即位したが、経済的困窮により2年間も即位の礼を行うことができなかった。そこへ2千貫文(約2億円)もの献金を行い、即位の礼を実現させたのが毛利陸奥守元就、その人である。


その後も毛利家は石見銀山を禁裏御料とし、今も毎年多大な援助を献呈し続けていた。そんな毛利家を滅ぼすのはあまりにも忍びないというのが、正親町天皇の意向であった。


(やはり思ったとおりか。だが、今ここで戦を止めれば、"六雄"による泰平の世の実現を先延ばしにすることになる。帝は本当にそれでも構わぬと望んでおられるのか?)


この対応如何によっては"六雄"と朝廷の関係が悪化する可能性があり、曖昧模糊にはできない重大な局面である。長政は唾を飲み込むと、眼光鋭く問い質す。


「では禅閤様にお訊ね申すが、帝は毛利との戦を止め、和睦せよとの仰せにございまするか?」


(ほう、若いのになかなかの胆力じゃ。さすがは"六雄"じゃな)


長政の渾身の威圧を受けた恵空は背筋に冷や汗を流しながらも、内心は噯にも出さず飄々とした態度で首をゆるりと左右に振る。


「いや、そうではない。加賀守殿を始めとする"六雄"が天下泰平のために戦っておるのを止めるつもりなど毛頭ござらぬよ。それは主上も認めておられるどころか、むしろ"六雄"の働きを褒め称えておられるほどじゃ。天下の安寧と静謐を誰よりも願っておるのは主上であらせられる故な」


「左様でしたか。我ら"六雄"の働きを帝にお褒めいただき、恐悦至極に存じまする」


「うむ。浅井家が毛利家と戦うことは已むを得ぬと主上も仰せじゃが、毛利家が滅ぶのを憂いておられるのもまた事実。そこで加賀守殿に頼みなのじゃ。毛利家の長年の忠義に報いるため、加賀守殿には寛大な仕置を計らってもらいたいと、主上の御所望なのじゃ」


(なるほど、よく考えれば毛利が籠城したのは昨日だ。始めは毛利が朝廷に和議の斡旋を頼んだと思ったが、どうやらそういう訳でもなさそうだな)


恵空の誠実な色の視線に射貫かれた長政は少し思案した後、穏やかに言葉を紡いだ。


「では、帝は毛利信濃守殿を助命し、毛利家を存続させよとお望みにございまするか?」


「左様。主上は無用な血が流れるのを望んではおられぬ故な」


「某も無用な人死は避けるべきと考えており申す。ですが、後顧の憂いを断つためには敗れた武家が滅びるも世の常にございまする」


長政も好き好んで人の命を奪う訳ではない。だが、甘い裁定により将来に禍根を残しかねず、安定した統治を行うためには危険分子を排除する必要があるのだ。


「禅閤様。これは帝からの勅命にございまするか?」


「いや、勅命ではない。あくまで主上の願いじゃ。だが、たとえ加賀守殿が情けを掛けようとも、毛利家が応じぬのであれば已むを得ぬとの思し召しじゃ」


"六雄"に抗う勢力を根切りにしていくのか、それとも極力譲歩して平和的に進めるのか。そんな選択を迫る願いなのだと長政は直感する。


「帝のお望みとあらば従う他ありますまい。ですが、既に臣従した者たちの手前、毛利家を殊更優遇する訳にも参りませぬ。毛利家が忠誠を誓い、大友との戦いで戦功を挙げた暁には、せいぜい対馬国くらいは与えましょう。何卒ご容赦願いまする」


「うむ。島でも一国は一国じゃ。それで十分じゃ。では、後は毛利家の出方次第じゃな。それは拙僧に任せてもらえるかな?」


「禅閤様。毛利家にも赴かれるのですか?」


「左様。拙僧は勅使じゃ。和議をまとめるのが勅使の務め故な」


(たとえ毛利が降伏しても、対馬を任せるかは大友との戦での働き次第だ。せいぜい先鋒で扱き使って、毛利の兵力を削ぐしかあるまい)


本陣を去る恵空の後ろ姿を見送りながら、長政は思案するのだった。




◇◇◇




「禅閤様。私を助命する故、降伏臣従せよと申されまするか?」


九条恵空と会見した毛利信濃守就辰は瞠目していた。吉川元春を始めとする重臣たちも同様である。降伏の条件として当主は切腹するのが戦国の世の習いだからだ。


「これは忠臣の毛利家を救いたいとの主上の思し召しによるものじゃ。毛利家が浅井家に忠誠を誓い、大友との戦で存分な働きを示せば新たな領地を与えようと、浅井加賀守殿の了解も得ておる」


「帝のご温情、誠にかたじけなく存じまする。……毛利家は降伏し、浅井家に臣従いたしまする」


「「信濃守様!」」


重臣たちから悲鳴にも似た声が上がる一方で、恵空はにこやかな笑顔を浮かべる。


「おお、左様か。主上もお喜びになられよう。では、後は任せたぞよ」


恵空はそう言い残すと山吹城を退出していった。


「兄上、これは浅井の計略では? あまりに出来すぎておりまする」


「少輔四郎、禅閤様が謀略に加担するはずもなかろう」


小早川隆景の後を継いだ小早川元清が疑念を呈すると、吉川元春が元清を諭す。


「帝も毛利はもう終わりだと思われたのだ。悔しいのぅ。……だが断れば禅閤様だけでなく、帝の御慈悲を無にすることになる。降伏も已むを得まい」


「「う、ううっ……」」


就辰が絞り出すように弱音を吐くと、堰が決壊したように感情の波が主従を襲う。


毛利氏は相模国愛甲郡毛利荘を本貫とし、鎌倉幕府を開いた源頼朝の側近で初代政所別当である大江広元の四男・毛利季光を祖とする名門であるが、季光の孫の毛利時親が安芸国高田郡吉田荘に移り、毛利就辰はその15代当主であった。


「私は父祖代々の領地を守ることができなんだ。全ては私の力不足だ。しかしこれは好機でもある。浅井家が我を助命するのであれば、今後は新たな領地を得るべく大友との戦いに全力を注ごうぞ。皆の者、良いな!」


「「ははっ」」


こうして毛利家が降伏したことにより浅井家は石見国11万石を平定し、毛利家は大友家との戦いで獅子奮迅の働きを見せることになる。

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