六雄の苦戦と安芸陥落
近江国・統麟城。
7月に入り、俺は統麟城へ居を移した。既に梅雨は明け、季節は盛夏になっているが、この季節の北近江は琵琶湖を吹き抜ける風が心地よく、1年で最も過ごしやすい気候と言える。
「「きゃっ、きゃっ!」」
松原の砂浜で水遊びする4人の子供たちを市とのんびり眺めたり、時には一緒に遊んだりしながら俺はゆったり寛いでいた。さしずめ命の洗濯といったところだ。
四国を平定した今、次は日本平定の最後の難関となる九州征伐だが、南九州への侵攻はしばらく先となる。
できれば秋の農繁期を狙って電光石火の早業で侵攻したいところだが、常備兵には負傷した者も多いため休養が必要だし、兵糧も確保しなければならないため、出陣は収穫後の冬となる見込みだ。それまでしばしの休息を楽しむとしよう。
◇◇◇
「正吉郎様、失礼いたします」
「ああ、構わぬ」
7月下旬、廊下からの植田順蔵の声に返事をすると、順蔵と服部半蔵、三雲政持の3人が音も立てずに部屋に入ってきた。2ヶ月に1回ほど行っている定期報告だ。
「大友の伸張が著しいか」
まずは半蔵から山陽・山陰の動向について報告があった。
「左様にございます。長門で毛利を撃ち破ってから飛ぶ鳥を落とす勢いで兵を進めておりまする」
大友軍は長門の勝山城を落とし、農繁期でしばし休んだ後の5月下旬に、小早川隆景の敵討ちに燃える吉川元春の毛利軍と、宇部で決戦に及んだそうだ。その結果、長門の国人衆を調略した大友軍4万余は1万の毛利軍に勝利し、負傷した吉川元春は安芸に逃れた。
毛利軍を破って勢いづいた大友は長門を制圧し、6月には周防に侵攻すると、わずか一月足らずで周防も呆気なく手中に収めた。
周防では「大内輝弘の乱」が鎮圧された後、反乱に与した大内家恩顧の国人衆は毛利から過酷な責めを受けた。毛利家中で厳しい立場となった周防の国人は挙って大友に寝返り、毛利に与した者達は根切りにされていったそうだ。正に"盛者必衰の理を表す"だな。
「大友は厄介な事この上ないな。蒲生家からすれば浦上が臣従したばかりだ。新しい領地の掌握が先決で、兵を動かす余裕などなかろう。浅井家も田植えが終わるのを待つと、どうしても後手を踏んでしまうな」
浅井は1月に月山富田城を落とし、出雲をほぼ手中に収めて尼子家再興が成就した後、田植えが終わる5月まで敦賀に一旦帰還した。そして6月中旬までに西出雲に残る毛利勢を制圧し、今頃は石見侵攻の準備を進めているだろう。
石見には石見銀山がある。この時代の世界中の銀の3分の1は日本で産出され、その半分は石見銀山からの銀だと言われるほどだ。当然ながら新九郎も狙っているはずだ。
一方、大友軍は6月下旬に安芸に侵攻した。無論、石見銀山も欲しかっただろうが、浅井の石見侵攻が予想されるため、今は浅井と無用な敵対関係となるのは避けたようだ。浅井や蒲生と事を構えるのは毛利を滅ぼした後だという戦略なのだろう。
したがって、大友宗麟の目は毛利の本拠地である安芸へ向くこととなり、この機を逃さず毛利を一気呵成に滅ぼすことに狙いを定めた。だが、安芸では周防のように国人衆への調略は実を結ぶことは一切無かったようだ。
安芸の国人衆は毛利家の影響を色濃く受けている。高田郡の五龍城には毛利元就の長女・五龍局を娶った宍戸隆家を筆頭として、安北郡の三入高松城には吉川元春の妻の甥である熊谷元直など、主な国人衆は毛利家と縁戚関係にあるため忠誠心が高く、大友家の誘いに見向きもしなかったようだ。
だが、毛利元就や小早川隆景を失った毛利家には往年の力は無く、大友軍の怒涛の勢いの侵攻の前に徐々に追い詰められる。山県郡では火野山を城塞化した西の守りの要である日野山城を吉川元春が守っていたが、7月中旬に落城に至った。
5月の「宇部の戦い」で負傷した吉川元春は、嫡男・元長の助けによって辛うじて吉田郡山城に落ち伸びたが、吉田郡山城も間もなく大友軍3万の兵に包囲され、毛利家はいよいよ土俵際に立たされた。
「先日、毛利信濃守(就辰)は吉田郡山城を捨て、石見に逃げ延びたとの由にございまする」
毛利就辰は意外にも郡山全体が城郭化された吉田郡山城での籠城戦を選ばず、居城を捨てることを決断した。
「ほぅ、父祖伝来の居城で最後まで籠城すると思うたが、潔いな。……石見銀山か。浅井が兵を進めたか?」
「左様にございまする」
どうやら石見撤退は浅井が石見に侵攻したのが原因のようだ。もはや毛利に大友と浅井と同時に戦う力は無い。このまま安芸で抗戦すれば北から浅井が、さらに東から蒲生も侵攻してくる最悪の事態となり得る。
毛利が安芸から退けば、大友が"六雄"に屈するはずもないと踏んで、安芸で大友と蒲生が自ずと衝突するように仕向けたという訳だ。
高田郡の山間に位置する吉田郡山城はお世辞にも城下の発展性が高いとは言えない。必要とあらば本拠も捨てる。なるほど、毛利が中国の覇者となったのも肯ける強かさだな。
毛利が長期に渡って継戦できたのは、石見銀山を背景とした経済力によるものだ。今や土俵際に追い詰められているのだ。毛利は石見銀山から得られる資金を全て使ってでも、領内全域から傭兵を集めるつもりだろう。
石見はほとんどが山間部で石高は11万石だが、吉田郡山城に集結した1万の兵を損耗することなく、石見へ撤退したため、傭兵を加えた毛利軍は総勢2万にも達するらしい。
背水の陣で死に物狂いの毛利が相手だ。浅井も苦戦は避けられないだろう。蒲生も同じく、大友とは必ず大きな戦となるだろう。
「関東はどうだ?」
話題を関東に向けると、すかさず三雲政持が口を開く。
「はっ、織田家は三浦半島での敗戦による痛手が大きく、未だ北条の残党の動きを警戒し、玉縄城で反撃の機を窺っておりまする」
「三郎殿にしては消極的に見えるが、それほど三浦半島の退き口は厳しかったのであろうな」
しかし信長が敗れたまま黙っているはずもない。史実でも「金ヶ崎の退き口」の2ヶ月後には、「姉川の戦い」で浅井・朝倉連合軍を破って雪辱している。そろそろ兵の傷も癒えて動き始める頃合いだろう。
「それと、竹中家は藤田安房守(氏邦)が籠る鉢形城を再び攻め、6月に攻め落としました」
「そうか。遂に落としたか」
「梅雨時で火計はないと敵が油断したところをナパームで火攻めし、城兵を恐怖に陥れたとの由にございまする」
鉢形城は荒川と深沢川に挟まれた断崖上に築かれた天然の要害で、史実でも武田信玄が小田原攻めをした際も堅すぎる鉢形城は攻めなかったそうだ。半兵衛もかなり梃子摺っていたが、織田家から借り受けたナパームが功を奏したようだ。
「これで北武蔵を制圧できそうだな。上杉家は出羽攻めに難儀していたが、どうだ?」
「はい。少なくない被害を出しながらも大宝寺と小野寺を降伏させ、南出羽を平定したようにございまする」
出羽三山別当の大宝寺義増は20年前の「平城の乱」で居城を追われた小野寺景道を匿った縁から、小野寺家との交流は長く続いたようだ。大宝寺家では内紛が絶えなかったが、小野寺家の援護を得て命脈を保っていた。
上杉の侵攻に対しても両家は協力して善戦し、小野寺家随一の知将・八柏道為の活躍が大きかったようだが、それでも6月には上杉軍の圧倒的な戦力の前に膝を屈したようだ。
その後、上杉は北出羽に進軍しているようだが、戸沢家や安東家が北陸奥の南部家から後援を得ている以上、苦戦は必至だろう。
"六雄"の皆も各地で苦戦しているが、天下泰平まであと一歩なのだ。ここは踏ん張りどころだな。
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