四国平定③ 調略の使者

4月上旬、俺はわざと田植えで農繁期に入るのを待って、疲れの癒えた常備兵を3つの隊に分けて一条松平領への侵攻を開始した。


既に一条松平家が撤退してもぬけの殻となった岡豊城は、真田4兄弟の4千の軍勢が接収しており、そこへ阿波から譜代の重臣たちが率いる1万の軍勢が合流した。大倉久秀らには中土佐から海岸沿いに西土佐への侵攻を任せることにした。


一方、湯築城からは2つの隊に分けて南下する。黒川通尭を中心とする東中伊予の国人衆には戦功を挙げる機会として、6千の軍勢で浮穴郡から西土佐の山間部へ土佐街道を南下する役目を課した。


そして、俺は2万の本隊を率いて地蔵嶽城に向けて大津街道を一路南に進軍し、寺倉軍は総勢4万もの大軍による侵攻となった。


対する一条松平家はこの内、2つの主力部隊への対応を最優先として兵を充て、土居宗珊は俺の寺倉軍本隊を叩くべく6千の兵を以って地蔵嶽城に入城している。4万の寺倉軍に対して劣勢なのは火を見るより明らかだ。


喜多郡の大津の地は北の大津街道と南の宇和島街道を繋ぐ結節点で、すぐ西には八幡浜の湊もあり、南伊予の交通の要衝にある。肱川と久米川の合流点の地蔵ヶ岳に築かれた地蔵嶽城は、元は宇都宮家の本拠地だった平山城だが、決して難攻不落という訳ではない。


だが、一条松平の裏切りによって宇都宮家が滅びたことにより、一条松平家の最前線を守る重要な拠点となった地蔵嶽城は改修され、以前よりも堅城になっている。もしこの城を落とされれば本拠の中村城に危機が及びかねないため、一条松平家が地蔵嶽城を最重視するのは当然の判断だろう。




◇◇◇




4月中旬、高岡郡の蓮池城には鳥居元忠を始めとする松平党と松永久秀の4千が城に籠り、吉良城を押さえた大倉久秀率いる1万4千の第2軍と仁淀川を挟んで対峙しているようだ。


一方、土佐街道から山間部を攻め入る6千の第3軍は伊予の国人衆が中心の部隊だが、それに北畠軍が加わり、弟の北畠惟蹊が率いている。


だが、土佐街道沿いには籠城できるほど大きな城はないとは言え、険しい山々が聳え立ち、峠道も非常に険しく、地の利のある地元の国人衆でも苦労する難所の進軍には難儀しているようだ。


対する一条松平家は石高の低い山間いの地に無駄な戦力を割きたくなかったため、この部隊への対応を日向から援軍として駆け付けた伊東義益率いる伊東軍2千に任せた。


しかし、いくら狭い山間で大軍を展開できるような場所が少なく、敵が寄り合い所帯とは言え3倍もの軍勢を相手にするのは、名将の伊東義益でもさすがに荷が勝ち過ぎる。


その結果、土佐街道を南に折れ、地芳峠を越えて土佐に侵入した第3軍は、国境付近の梼原城に入った伊東軍と睨み合う形となった。


慎重な性格の惟蹊は兵の半分を6kmほど北の鷲ヶ森城に待機させ、前方の部隊が撃退されても後詰めを出せることから、決して焦ることなく梼原城を包囲して伊東軍が降伏するのを待っているようだ。


地蔵嶽城を包囲する第1軍の本陣で植田順蔵から状況報告を聞くと、俺は寺倉騎馬隊を率いて従軍している小笠原長時を呼び出した。


「左馬頭様、お呼びでしょうか?」


「うむ。小笠原信濃守には梼原城に籠る伊東左京大夫を調略してもらいたい。日向の伊東家は鎌倉の世から続く工藤氏支流の名門だ。生半可な家柄の者では見下され、左京大夫は交渉に応じぬであろう」


「なるほど、そこで信濃小笠原家の拙者の出番と言う訳ですな」


「そうだ。それと、北畠軍には同族の長野工藤家出身の者が従軍しておるはずだ。彼らを連れて、日向一国を安堵する条件で我らの味方に付くよう、左京大夫を説得してみてくれ。それでも応じぬようならば力攻めで城を落とすのも已むを得ぬ」


「はっ、承知いたしました。必ずや伊東左京大夫を味方にして見せまする」


長時はそう言うと、颯爽と騎馬で梼原へと向かった。


それにしても伊東家の援軍は別としても一条松平の兵が1万とは多すぎやしないか? 西土佐と南伊予で17万石とすると動員兵数は4500人ほどだが、農繁期で兵を集めるのにも苦労したはずだ。順蔵に調べさせるとしよう。




◇◇◇




小笠原長時は梼原に布陣する寺倉軍に着陣すると、北畠惟蹊に正吉郎から授かった書状を手渡した。


「ふむ、さすがは兄上だな。相分かった。では、長野工藤家所縁の2人を呼ぶとしよう」


正吉郎の手紙を一読した惟蹊はそう言うと、北畠軍の将として兵を率いていた雲林院祐基と細野藤光の兄弟を呼び出した。


2人は長野稙藤の次男と三男で分家の雲林院家と細野家に養子に入っていたが、稙藤が長兄・藤定と一緒に毒殺され、北畠家から養子に入った長野具藤に長野家が乗っ取られると、寺倉家に内応したという経緯があった。


そして、長野具藤が寺倉軍に敗れて討死した後、長野家は藤定の実子である長野藤勝が継いだのだが、藤勝は病弱なため今回は従軍しておらず、藤勝に代わって叔父の2人が従軍していた。


「はっ、このような大役を仰せつかり、誠に光栄に存じまする」


「長野工藤家は日向伊東家とは同族にござれば、必ずや説き伏せてご覧に入れまする」


伊東義益の調略という重大任務を命じられた雲林院祐基と細野藤光は、武者震いしながらも笑顔で応じた。




◇◇◇




土佐国・梼原城。


小笠原流弓馬術礼法の伝承者である小笠原長時が華美な鎧兜や馬具を纏い、凛として馬上の姿を城門の前に現した。


無論、交渉の使者が赴くとの先触れを送った上で訪ねたのであるが、威風堂々とした長時は寺倉騎馬隊の将として圧倒的な存在感を醸しており、威圧された伊東軍の兵は下手な手出しをすることはなく、長時ら3名は丁重に本丸の会見の間に迎えられた。


「拙者は寺倉家家臣、小笠原信濃守長時と申しまする」


「某は北畠家家臣、雲林院出羽守祐基と申しまする」


「某は北畠家家臣、細野伊豆守藤光と申しまする」


長時たちが名乗ると、上座に座る若い男が口を開く。


「私は日向伊東家17代当主、伊東左京大夫義益と申す。伊東家は藤原南家流の工藤氏に連なる家だが、小笠原信濃守殿は尋常ならざる一廉の武将とお見受けいたす。清和源氏の流れを汲む信濃小笠原家に連なる方と存じますが、如何にござるかな?」


「左様。拙者は小笠原家17代当主にござる。とは言え、疾うの昔に武田家に領国の信濃を追われ、流浪となった我が身を寺倉左馬頭様に召し抱えていただき、今は寺倉家の将星として寺倉騎馬隊を率いる一介の将にすぎぬ」


「やはり貴殿は信濃小笠原家の当主にござったか」


正吉郎が予見したとおり長時が名門・小笠原家の当主と知って、伊東義益の反応が目に見えて良くなると、長時の斜め後ろに座る雲林院祐基が口を挟む。


「左京大夫殿。実は我ら2人は伊勢の長野工藤家の出自にございますれば、左京大夫殿と同じ伊豆工藤氏を先祖とし、同じ血を引く同族同士にござる」


「おお、長野工藤家の方々か。伊豆工藤氏の同族は奥州にもおると聞くが、確か長野工藤家は伊東家とは最も近縁の一族でござったな。お会いできて嬉しく存じますぞ」


「「はっ、我らも誠に嬉しく存じまする」」


「……さて、では挨拶はこれくらいにいたすとして、今日は如何なるご用件で参られたのですかな? まあ、言わずとも察しは付き申すが」


わざわざ名門・小笠原家の当主と同族の長野工藤家の者が使者として訪ねて来たのだ。義益でなくとも伊東家を味方に付けるため懐柔しようという目的なのは自明だった。


「左様。左京大夫殿がそれが分からぬような方であれば、我々がこうして此処に参る意味もござらぬ」


「ふふふ」


不敵な笑みを浮かべる長時に、義益も気を損ねることはなく、口角を上げて薄ら笑いで対峙したのだった。

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