宇喜多直家の敗死

1月に三村家を滅ぼし、備中を手中に収めた浦上家は、すぐさま備後に調略を仕掛けていた。宇喜多直家は北備後で守護代を務める恵蘇郡の山内隆通と、三谿郡の有力国人である和智元郷に接触する。


山内家は大内、尼子、毛利という大大名の下でも独立を保ってきた備後国最大の実力者である。近年は半ば従属していた毛利家の凋落を見て、山内隆通は宇喜多直家の誘いに応諾した。


和智家は6年前に毛利隆元が急死した際、毛利元就は隆元を宴で歓待した和智元郷の父・誠春に毒殺の嫌疑を向けたが、元郷が元就に血判の起請文を提出したため、元就は元郷の無実を認めた。


だが、昨年になって突然、隆元を弑逆した罪で誠春が誅殺されたのだ。隆元の死後5年も経って罰したのは詭弁と言わざるを得ない。これは毛利元就が老齢の我が身と若年の孫・輝元の将来を憂いた焦りから仕組んだ謀略であった。


安芸の国人から成り上がった毛利家にとって、国人衆を従属させて盤石な支配体制を築くことは最大の課題であった。そこで、元就は鎌倉時代からの御家人の家柄を誇る和智家を見せしめに粛清する強硬手段に出たのだ。


こうした経緯により和智元郷は毛利家に深い怨恨を抱いていたが、強大な毛利家の前に結局は泣き寝入りせざるを得なかった。そこへ宇喜多直家が調略の手を伸ばすと、和智元郷は喜んで応じた。


さらに和智家庶流の上原元将も浦上家に降った。元将は毛利元就の三女を娶った一門衆であったが、本家の和智家が粛清されたことに不信感を募らせていた。史実でも羽柴秀吉の備中高松城攻めの際に織田家に寝返っている。


そこへ備後の目付役だった小早川隆景の討死が伝わると、国人衆は動揺は計り知れないものとなる。実子のいない隆景の跡を毛利元就の五男の毛利元清が継いだものの、毛利家に滅ぼされた宮家支流の有地隆信や深津郡の古志吉信ら、南備後の有力国人が続々に浦上家に降った。


これにより、妹が元就の側室に嫁いだ三次郡の三吉隆亮や、西伯耆の尾高城で討死した杉原盛重の跡を継いだ安那郡の杉原元盛の激しい抵抗を受けながらも、3月中旬には備後は浦上家に制圧された。




◇◇◇




備前国・天神山城。


浦上家は備後の制圧により備前・美作・備中・備後の4ヶ国80万石近い勢力となり、安芸・周防・長門・石見の4ヶ国60万石の毛利家に代わって"山陽の覇者"となった。


浦上家当主・浦上宗景は至って温厚な性格の持ち主で、戦国大名として武勇に特筆すべき才はない。兄・政宗を討って当主になったのも家臣らに扇動された結果だった。凡才ならば優れた家臣を用い、他家の力さえ利用する。それが戦国時代を生き抜くための宗景の信念だった。


優れた家臣の筆頭は宇喜多直家である。直家は昨秋、伊賀久隆を脅して蒲生家を備前に誘い込もうと企んで失敗し、宗景に勝手な振舞いを謝罪した。あわよくば主家の混乱に乗じようという直家の魂胆を見抜いていたが、宗景は敢えて不問とする。


直家は失態を挽回すべく獅子奮迅の働きで備中の三村家を滅ぼし、さらには僅か2ヶ月足らずで備後の制圧に成功した。これにより浦上家の支配領域は備後と備中、東備前の50万石となったが、西備前と美作の大部分の25万石を治める直家の地位はさらに強まることとなる。


もはや大名と言っても過言ではない宇喜多家とは半従属の主従関係だが、思慮深い宗景は直家がいずれ下剋上を企てるのを予期していた。同時に、たとえ浦上家が"山陽の覇者"になったとしても、これからの日ノ本は"六雄"の治世となると察していたのだ。


そして田植えも間近の3月下旬、宗景の元に蒲生家が備前侵攻の準備を進めているとの報せが舞い込む。


"六雄"に抵抗すれば滅びる運命にあると悟った宗景は、独断で蒲生家への臣従を決断すると、密かに蒲生忠秀に書状を送った。浦上家には宇喜多直家以外にも公然と不服の態度を示す血気盛んな家臣が多くいたからだ。


4月1日、蒲生家から諾了の返事を受けた宗景が、大広間に集めた家臣に蒲生家への臣従を通達すると案の定、猛反発を受けた。家臣の助力によって成り上がったのを理解している宗景は、真摯に批判を受け止めて家臣の説得を試みた。


それでも80万石近い勢力がありながら蒲生家に降るのを良しとしない家臣は多かった。これを好機と見たのが宇喜多直家である。宗景に反抗する勢力を糾合した直家は亀山城に兵を集め、美作、西備前から宗景に圧力を掛けた。


さらに直家は宗景の兄・政宗の孫で母方の小寺家で庇護されていた3歳の久松丸を誘拐すると、浦上宗家再興の旗印に担いで諸将を煽ったのである。宗景は宗家を滅ぼした張本人であり、立派な大義名分だった。


一方、宗景も股肱の臣である明石行雄や延原景能、美作国人衆との取次役の岡本氏秀、宿老の大田原実時、青山城主の日笠頼房らの重臣に加えて、蒲生家に支援を頼むと天神山城に兵を集めた。


かくして4月中旬、浦上家の内乱がついに勃発することとなった。




◇◇◇




既に田植えの農繁期に入ったため、農民兵を多く集められない宇喜多勢1千に対して、蒲生家から援軍を受けた浦上勢5千は兵力で大きく上回り、緒戦から優勢な戦況が続いた。


宇喜多直家は浦上勢に調略を仕掛けるものの、寝返る者は皆無だった。逆に、蒲生家に情報を横流ししていた伊賀家久によって窮地に追い込まれることになる。


4月15日の夜、伊賀家久からの情報で直家の本陣を突き止めた浦上宗景は、1千の兵で迂回して西から夜襲を仕掛けた。直家も夜間の警戒を怠ってはいなかったが、背後の西側は無警戒で劣勢は避けられない。


宇喜多勢が西側への応戦に精一杯となると、闇夜を縫って東から走る4千の兵に気付かない。気づいた時には既に手遅れであり、東西から挟撃を受けた宇喜多勢は潰走する。浦上勢はそのまま追撃し、亀山城を包囲した。




◇◇◇




備前国・亀山城。


「兄上、昨夜の夜襲は蒲生の軍師・黒田官兵衛の策にございましょう。我らに与した武闘派の浦上家臣も見限って寝返るでしょう。もはや我らの負けにございまする」


4月16日の昼前、沈痛な表情をした弟・宇喜多忠家が重い空気を破った。


「七郎兵衛。遠江守様(浦上宗景)も二度も裏切った儂を許さぬであろう。儂を信用しない蒲生もおる故な」


宇喜多直家が自嘲の笑みを浮かべて返答をすると、再び沈黙が満ちる。


「兄上。以前に浦上家の意向を無視した振舞いは身を滅ぼすと忠言したはずですぞ。伊賀守殿を弑したのも失敗でしたな。伊賀一族の姿が見えませぬ。おそらく蒲生に内応していたのでしょう」


今は鎖帷子を身に付けていない忠家が叱咤するような口調で告げる。


「うむ。伊賀家の力を削ぎ、浦上と蒲生を争わせようと謀ったのは些か性急すぎたな。此度も田植えでお互い少ない兵ならば儂の戦術で勝てると踏んだが、蒲生の援軍を失念したのは痛恨の失策であったわ」


直家は潔く敗北を認めた。下剋上を企んだ自分が六角を下剋上で滅ぼした蒲生家に敗れることに、もはや諦観した直家に悔恨はなかった。


「遠江守様からの書状にございます。兄上は許す訳には行かぬが、宇喜多家の存続は認め、我らに与した浦上家臣も頭を下げて忠誠を誓えば復帰を許すとのこと。誠に寛大な主君ですな。蒲生への臣従を拒んだ家臣も二度と反旗を翻そうとはしますまい。我が宇喜多家も浦上家に忠勤に励むのが最善の途となりましょう」


「うむ。童の頃は父上と共に放浪し、艱難辛苦を味わった人生であったが、もはや思い残すことはない。七郎兵衛、宇喜多家を頼んだぞ」


清々しい表情で直家が忠家に後事を託すと、2人の双眸からは涙が零れた。


直家が自刃した後、宇喜多家は東美作の吉野郡1.5万石に改易されたが、弟・忠家を当主として浦上家臣として存続を許される。


こうして、蒲生家に臣従した浦上家は美作と北備中、北備後の大名の地位を維持した。蒲生家は浦上家から瀬戸内海に面する備前と南備中、南備後を召し上げ、毛利家の安芸と国境を接し、毛利家との決戦に警戒を強めることとなった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る