四国平定② 中予制圧
土佐国・岡豊城。
2月20日、総勢1万余の一条松平軍は岡豊城に入城し、本丸の大広間には一条松平家の重臣たちが集まっていた。
一条松平家は日向の伊東家から援軍を借りて伊予を平定しようと目論んでいたが、伊東家の援軍が到着する前に寺倉家が中土佐を攻めた陽動により、その企みは脆くも頓挫した。
岡豊城を素通りして西土佐に向かおうとしていた真田4兄弟率いる4千の兵は、一条松平軍が中伊予から援軍に向かったのを知ると、すぐに香宗城に引き上げた。
岡豊城に到着した松永弾正少弼久秀は、寺倉軍の退却を知ってすぐにその意図を察するに至る。
「此度の寺倉の侵攻は我らに伊予を奪われないために寺倉が策した陽動にございます。今頃は湯築城は寺倉の本隊に落とされ、中伊予は制圧されておりましょう」
「「な、何だと!」」
軍議の冒頭、松永久秀の爆弾発言に重臣たちが吃驚すると、土居近江守宗珊が口を開いた。
「弾正少弼殿。つまり、我らは寺倉左馬頭の掌の上でまんまと転がされていたという訳か」
「左様にございます、近江守殿。ですが今後、寺倉が南予に兵を進めて来れば、岡豊城から兵を送らねばなりますまい。そうなると、……」
「再び中土佐を攻められる、か。……鼬ごっこだな」
土居宗珊が自嘲気味に久秀の言葉を繋ぐと、石川数正が進言する。
「さすれば、寺倉とは圧倒的な兵力差がございます故、南予と中土佐の両方を守ろうと兵力を分散すれば、両方とも敗れるのは必定かと存じまする」
「"二兎を追う者は一兎をも得ず"と言う。下手に兵を分散させるは愚の骨頂か」
「ならば、南予の宇和郡と喜多郡は合わせて12万石。それに対して中土佐の長岡郡、土佐郡、吾川郡は3郡で僅か3万石ほど。どちらを守るべきかは言うまでもなかろう」
「彦右衛門尉殿。それに南予と西土佐だけならば敵の侵攻経路も限られ、我らも守りやすくなろう。とは言え、寺倉には南蛮船がある故、海からの上陸もあり得るがな」
内藤正成の呟きに、鳥居元忠が南予と中土佐の石高を比較して応じると、石川数正が防衛上の利点を告げる。
「では、せっかく奪った中土佐をむざむざ寺倉に譲るのは慙愧に耐えぬが、岡豊城から撤退し、南予と西土佐の守りに専念するということで、皆の衆も宜しいな?」
「「……うむ」」
土居宗珊が裁定を下すと、重臣たちは断腸の思いで首肯した。一条松平家は中土佐からの撤退を決断したのだった。
◇◇◇
伊予国・湯築城。
伊予守護の河野家が降伏すると、河野家に属していた国人衆も続々と臣従し、温泉郡、久米郡、伊予郡、和気郡、風早郡、野間郡の中伊予北部と東伊予の越智郡が平定され、これで中伊予で残るのは南部の浮穴郡だけとなった。
浮穴郡は土佐との国境に近い広大な山間部だが、勢力を持つ山方衆の中でも大野家は久万高原を治める最も有力な国人で、河野家の重臣でありながら主家から半ば独立するほどの勢威を誇っていると言うが、どうやらその大野家で内訌が惹起したらしい。
すると2月22日、湯築城の俺の元に思わぬ来訪者があった。
「大野紀伊守利直と申しまする」
「大野九郎兵衛直周と申しまする」
平伏している2人の内、70代と思しき白髪の老人は大野家の先々代当主の大野利直で、明らかに10代の少年の大野直周は利直の孫ではなく、何と末っ子の七男らしい。
聞くところによれば、五男は早逝したものの、利直は友直、直澄、隆直、直昌、直之、直周と男子に恵まれ、25年前に嫡男の大野友直に家督を譲って隠居したが、16年前に友直が早逝したため、文武に優れた四男の大野直昌に家督を継がせたのだそうだ。
一方、家督を継げなかった次男の直澄は大野領内の立花城の城主となったが、三男の隆直は家を出て能島村上家の家老となり、六男の直之も宇都宮家に仕えて喜多郡の菅田城を領したと言い、まだ若い七男の直周だけは直昌を補佐していたらしい。
しかし直昌は、直澄と直之の二人とすこぶる仲が悪かった。野心家の直澄は次男の自分が当主になるべきと考え、史実でも数年後に直昌の謀殺を図って失敗している。
直之も生粋の謀将らしく、宇都宮豊綱の家老として確固たる地位を築いていたが、一昨年末に宇都宮家が盟友の一条松平に裏切られて降伏すると、菅田城を追われた直之は直昌ではなく、立花城の直澄を頼ったそうだ。
そこで、直之は犬猿の仲である当主の直昌を弑して大野家を乗っ取ろうと画策し、直澄と共謀したらしい。直之は一条松平に内応して密かに3百の兵を借り受けると、『和解したいので茶会に招きたい』と直昌を騙し、立花城に誘い出した。
そして昨日、まんまと罠に嵌った直昌は3百の兵に囲まれ、抵抗もできずに直之と直澄に命を奪われたそうだ。本拠の大除城には直周が在番していたが、急いで逃げ帰った直昌の近習から直昌が謀殺されたと知らされると、直周は隠居した父・利直に慌てて報告した。
大除城には百の兵しか詰めておらず、今から兵を召集しても直之と直澄の軍勢が到着するまでには間に合わず、籠城しても落城は必至だと判断した利直は寺倉家を頼ることにした、ということのようだ。
「寺倉左馬頭様。大野家はこの直周に継がせ、寺倉家に臣従いたします故、どうか大除城を乗っ取った直之と直澄を成敗していただきたくお願い申しまする」
俺に親不孝な息子2人の討伐を頼まなければならない大野利直は辛いだろうが、御家存続のためには已むを得ないのだろう。
「良かろう。だが、大野家の所領は大幅に削ることになるが、良いな?」
「はっ、御家が存続するのであれば甘んじて受け入れる所存でございます」
利直は悲痛な面持ちで粛々と告げた。
◇◇◇
2月24日、寺倉軍3千は三坂峠を越えて久万高原に入り、大除城を包囲した。すると、さすがに籠城は無理だと考えたのか、大除城から出てきた大野直之と大野直澄は降伏臣従を申し出てきた。
「ふん、厚顔無恥にも程があるわ。寺倉家が実の兄弟を謀殺するような不埒者を迎え入れるはずがなかろう。おい、此奴らを捕らえろ! 謀反人は磔と決まっておるわ!」
だが、面従腹背の明らかな2人を許せば、将来に禍根を残すのは目に見えている。俺は怒気を込めた声で突っ撥ねると浮穴郡を制圧し、中伊予17万石を平定した。
その後3月を迎え、植田順蔵から一条松平軍が岡豊城に守備兵を残さず、中土佐から完全撤退したとの報告が入った。
確かに戦力分散を避けるのは軍事的には正しい戦略だが、苦労して手に入れた中土佐を戦わずして放棄するのは、領地拡大が最優先の戦国大名としては苦渋の決断に違いない。
一条松平は実質的な当主である土居宗珊の実権が大きいが、松平党と松永久秀の勢力も増大している。南伊予と西土佐を死守しようと構える一条松平に、これ以上の小細工は通用しないと見るべきだろう。
どちらかの勢力に調略を仕掛けたところで、一条家一門の忠臣である土居宗珊は無論のこと、松平党も三河から落ち延びて松平家を再興したのだ。主君の一条家康を裏切るはずもない。策としてあり得るのは松永久秀くらいだが、あの男を調略するのは危なすぎる。
だが、畿内の覇者であり、四国のほぼ3国を手中に治めた寺倉家に対して、一条松平が国力で大きく劣るのもまた事実だ。条件次第では降伏するかもしれないが、いずれにしても力で屈服させないと交渉のテーブルには乗ってこないだろう。
むしろ一条松平に援軍を送ろうとしている伊東義益を調略するのはアリかもしれない。義益は知勇兼備で領民にも愛される名将だ。父の義祐も伊東家の最盛期を築き上げた傑物だ。日向を九州に侵攻する際の足掛かりにできるのであれば、手を結ぶに値するだろう。
たとえば伊東家が島津や大友と戦う際に支援する条件で半従属的な同盟を結べば、島津の伸張を妨害できるはずだ。伊東義益の動向を探ってみることにしよう。
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