四国平定① 河野家滅亡

1月下旬になると案の定、一条松平家は中土佐の岡豊城に守備兵1千を残した以外、ほぼ全軍とも言える5千の兵で河野家を攻めるべく中伊予に進軍を開始した。


無論、河野家にとっても一条松平家は最も警戒すべき敵であるため、その動向は逐一探っており、一条松平軍の侵攻を察知した河野軍もほぼ全軍の4千の兵で、土佐と接する浮穴郡の久万高原で一条松平軍を待ち受けた。


だが、一条松平家の松永久秀も猪武者ではない。軍勢を2手に分け、第1軍が南東の土佐・吾川郡から仁淀川沿いに浮穴郡に侵攻して河野軍を引きつけると、時間差を置いて第2軍が裏を掻いて南の喜多郡から大津街道を北進して伊予郡に侵攻したのだ。


伊予郡のすぐ北の温泉郡には河野家の居城の湯築城がある。第1軍との戦いを優位に進めていた河野軍も、第2軍の侵攻を知ると慌てて湯築城に退却し、一条松平軍に包囲された湯築城は籠城を強いられることになる。


2月に入りすぐ、出陣のタイミングを見計らっていた俺は、香宗城を奪回した真田4兄弟率いる4千の兵に中土佐を攻めさせた。だが、4千で堅城の岡豊城を落とすのは骨が折れるため、岡豊城を素通りして西へ粛々と進軍させたのだ。


岡豊城の守備兵は1千だが、打って出てこれば反転して野戦で殲滅し、岡豊城を奪えばいいし、打って出てこなければ守りの薄い西土佐に侵攻するだけだ。


すると、目論みどおり2日後には湯築城を囲む一条松平軍に寺倉軍侵攻の一報が伝わり、一条松平軍は湯築城攻めを中断すると脱兎のごとく中伊予から撤退し、中土佐へ援軍に向かい始めた。


そして2月8日。密かに南蛮船で阿波から東伊予・桑村郡の鷺ノ森城に兵を輸送させた俺は、満を持して1万の軍勢を率いて讃岐街道を西進して中伊予に侵攻した。



◇◇◇



伊予国・湯築城。


――カッコーン


真冬の冷気を帯びた寒風が橙色の真樺を揺らし、透き通った池の水面に映る。近くから響いてくる鹿威しの綺麗な音色が、去来していた煩累な感情を吹き飛ばした。


戦さ場とは命を奪いあう血に塗れた厳酷な空間だ。血生臭い戦場に長くいると気が荒んで滅入ってしまう。何度戦勝を重ねようとも、決して気が晴れることはない。


湯築城の本丸の庭園には戦乱の世とは思えない静謐な空気が流れていた。池の脇の四阿でゆったりと清浄な空気を味わうかのように、湯上りで火照った身体で寛ぐ俺に背後から声が掛かる。明智光秀だ。


「正吉郎様。伊予国は良き地にございますな」


2月14日、俺は伊予河野家を屈服させた。意外なことに河野家の当主は河野通宣ではなく、河野牛福丸(後の河野通直)と言った。だが、まだ数え6歳と幼少のため、現状では河野家の実権は専ら後見役の河野通吉が握っていた。


伊予守護の河野家は一門同士の家督争いや有力国人の反乱が相次ぐと、村上家などの国人勢力に依存する形となり、強固な支配体制を築けなかった。守護大名から戦国大名に脱皮できなかった典型的な事例だ。


河野家は先代の河野通宣が25年間も当主を務めていたが、一昨年末に毛利の援軍を得て一条松平家と戦った「鳥坂峠の戦い」で敗れて心労が重なったのか、通宣は昨年47歳で病に倒れた。そして、実子のいない通宣は家督を養嗣子の牛福丸に譲って隠居したそうだ。


牛福丸の生母の天遊永寿は毛利元就の孫娘で、始めは河野家の重臣である来島村上家当主の村上通康に嫁ぎ、牛福丸を生んだ。つまり牛福丸の実父は村上通康なのだが、一昨年に村上通康が亡くなると永寿は河野通宣の後室として再嫁し、牛福丸は通宣の養子となった。


これは牛福丸が毛利元就の曾孫となるため、毛利家との縁戚関係を作りたかった河野通宣が、連れ子の牛福丸を養嗣子とするために未亡人となった永寿を娶ったのだろう。


河野家は軍事的に毛利家の支援に支えられていたが、毛利家が四面楚歌の状況のため援軍を得られず、一条松平軍との籠城戦であと半月で落城するところまで消耗していた。ところが突然一条松平軍が撤退し、河野家も胸を撫で下ろしたに違いない。


だが、直後に入れ替わるように寺倉軍が侵攻すると、戦意の挫けた河野家にもはや抵抗する力は残っていなかった。程なくして先代当主の河野通宣と河野通吉が切腹する条件で河野家は降伏し、俺は幼い牛福丸や湯築城の城兵を助命した。


こうして大名家としての河野家は滅亡したが、史実でも河野家最後の当主となった河野通直は人徳の篤い人物だったと伝えられるので、俺は人質とした牛福丸を蔵秀丸や峰珠丸の学友にすることにした。いい遊び友達になるだろう。


その河野家が代々居城としてきた湯築城は200年以上前に築かれたやや小振りな平山城だ。河野家が本貫地である風早郡河野郷からこの地に移住したのは、湯築城の名から明らかなように目と鼻の先に日本最古とも言われる道後温泉があるからだろう。


2月下旬、戦続きで精神的に疲弊していた俺は道後温泉に朝夕浸かりながら、湯築城で束の間の休息を取っていた。


「ああ。確かに雪も降らず、近江よりも遥かに温暖で過ごしやすいな。それに道後温泉もある。とはいえこの城はかなり老朽化しておる故、道後温泉の湯も城内に引き入れ、四国の本拠として相応しい大きな城に改築しようと考えている。十兵衛、どうだ?」


「それは良きお考えかと存じます。城内で温泉に浸かれれば戦傷を負った将兵も喜びましょう」


史実では湯築城は20年後に破却され、2kmほど西の勝山に加藤嘉明が築城し、松平家の松の字を貰って松山城と命名してから、この地は松山と呼ばれるようになる。


だが、俺は道後温泉のあるこの湯築城の景色が気に入ったのだ。周辺の不要な城を破却して資材を活用すれば早く改築できるだろう。


「そう言えば、十兵衛。1月末に奥方に男子が生まれたと聞いたぞ。確か長男であったな。めでたいな」


俺は話題を変えて、光秀に祝福の言葉を送る。光秀が男子が生まれたのを知ったのはつい昨日のことで、俺も先ほど聞いたばかりだった。


「はっ、かたじけなく存じまする。陣中のため嫡男の誕生を見届けられず、残念にございますが」


これまで光秀の4人の子はいずれも女の子だった。しかし、武家では跡継ぎとなる男子が望まれるのが現実であり、42歳になって光秀がようやく授かった嫡男だ。さぞかし喜びも一入だろう。


「そうだな。その子の名前は決めたのか? 何という名だ?」


光秀の嫡男と言うと、史実の明智十五郎光慶だな。昨年3月に紀州征伐から近江に帰還した際にできた子だろう。


「いえ。正直申しますれば、また女子ではないかとあまり期待せずにおりました故、名は考えておりませなんだ」


「ははっ。確かに娘が4人も続くと、さもありなんか」


俺が笑い声を上げると、光秀が恐縮した顔を向けてくる。


「誠に僭越ながら、正吉郎様に名付け親になっていただけないでしょうか?」


「名付け親? 幼名とは言え、十兵衛の嫡男に命名しても構わぬのか?」


「はい。正吉郎様の運気を賜りたく何卒お願い申しまする」


「ふむ、そうか。……では、千代寿丸という名はどうだ? 明智家の大事な跡継ぎである故、健やかで長寿を願った名前だ」


俺が史実どおりに明智光慶の幼名を命名すると、光秀の顔が綻んだ。


「おぉ、千代寿丸、ですか。誠に良き名にて光栄に存じます。千代寿丸の顔を見るのが楽しみにございまする」


「ははっ、幸いにして四国は冬の間も雪が降らぬ。田植えの時期も常備兵を使って戦えば、梅雨までには決着を付けられよう」


「左様ですな。一日も早く一条松平を屈服させ、四国を平定したく存じまする」


「ふっ、せっかくの休息だと言うのに、戦のことばかり考えてしまうな」


俺が自嘲するように溜息を吐くと、光秀も苦笑いを浮かべながら頷くのだった。

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