毛利の失墜① 月山富田城の陥落

10月の「大内輝弘の乱」は終結するも、毛利家を取り巻く状況は依然として厳しいままであり、吉川元春は「大内輝弘の乱」を鎮圧した後も山口の町に滞留したまま、正月を迎えていた。


元春は吉田郡山城の毛利就辰に宛てた手紙で、勝山城での小早川隆景との援軍派遣について意見が対立した経緯を伝え、就辰からの今後の指示を待っていた。つまりは当主の指示がなければ、自分から勝山城に戻るつもりはないという意思表示であった。


その毛利就辰は劣勢が続く山陽・山陰の動向を見てから判断するため、吉川元春には山陽・山陰のどちらにも向かえる山口でそのまま待機するように指示を送る。無論、その背景には"両川"のどちらか一方に肩入れするのが躊躇われたという就辰の心理も働いていた。


しかし、勝山城から離脱した1万の吉川軍を遊ばせたまま、徒に戦力が分散した状態で冬を迎えたのは、勝山城で対峙する大友軍に対して悪手であり、結果的に見れば就辰の優柔不断とも言うべき痛恨の判断ミスであった。




◇◇◇




出雲国・月山富田城。


宍道湖北岸に築いた末次城を出雲制圧の拠点とした尼子再興軍1万は、月山富田城の周囲の支城を次々と落としながら幾つもの向城を築き、月山富田城の包囲網を形成して豪雪の冬を迎えていた。


一方、落とされた支城の城兵はワザと本城の月山富田城へと逃がされた。元は尼子家の本城だった月山富田城は山陰地方有数の堅城であり、当初は8百の守備兵しかいなかったが、積雪を迎える前には3千近い城兵を擁することとなる。


なぜ尼子再興軍が支城の城兵を月山富田城へ逃がし、わざわざ籠城側の守備が厚くなるような真似をしたのかと言えば、決して毛利の城兵に情けを掛けた訳ではない。むしろ真逆であり、軍師の沼田上野之助祐光が考えた策略であった。


守備兵が1千だろうと3千だろうと、堅城の月山富田城を力攻めで攻略するには、味方の被害が大きくなるのが予想される。だが、月山富田城の当初の守備兵は8百であり、兵糧は8百人が半年ほど籠城できる量しか備蓄されていない。


しかし、支城から逃げた城兵を収容したため、月山富田城の城兵は今や3.5倍に増えた。当然ながら兵糧も3.5倍の速さで消耗することとなる。つまり沼田祐光は兵糧攻めの策を弄したのである。


周囲の支城を落とされ、反対に幾つもの向城を築かれた月山富田城は、尼子再興軍によって補給路を断たれ、豪雪の中で完全に孤立した状況に陥った。それに加えて、西出雲や石見の国人衆は長門の勝山城に参陣しており、豪雪の中を援軍が来る見込みは薄かった。


「兵糧は1月末を待たずに底を突く。天野中務少輔、如何する?」


月山富田城城主は毛利元就の六男の毛利少輔十郎元秋であった。元秋は防長経略で戦功を挙げた周防の国人・椙杜隆康に跡継ぎが無かったため、元就の命によって椙杜家の養子となって椙杜元秋と名乗った。


だが、浅井軍と尼子再興軍の侵攻に伴い、月山富田城の城将を命じられた元秋は椙杜家との養子縁組を解消し、毛利元秋と復姓している。この正月で18歳になったばかりの元秋は、当然ながら困惑と動揺を露わにしていた。


しかし、元秋の補佐役を務める天野中務少輔隆重が、幸運なことに出陣することなく月山富田城に留まっている。隆重には、毛利家の筆頭宿老で毛利家の「御四人」に数えられた福原貞俊の妹が嫁いでおり、毛利就辰からも絶大な信頼を受ける武将であった。


「少輔十郎様。山口からは遠い上にこの大雪では、吉川少輔次郎様も後詰を送ろうにも難儀されるかと存じまする」


勝山城で籠城する小早川隆景の援軍は不可能であり、「大内輝弘の乱」を鎮圧して手の空いた吉川元春に救援を要請するも山口から出雲の距離は遠く、豪雪の中の進軍には時間が掛かることと予想された。


「でろうな。だが、このままでは3千の城兵はもはや飢え死必至だ。それとも浅井に降伏せよと申すつもりか?」


隆重は毛利元就から月山富田城の城主を任じられたが、それを固辞して元秋に城主の座を譲ろうとしたほど毛利家への献身を示していた。その実直な性格も相まって、毛利家中でも随一の忠臣と呼べる存在であった。


「まさか。降伏するくらいならば飢え死する覚悟にございまする。ですが、1万を超える尼子再興軍の包囲に対して、毛利家からの救援が望めない状況でこれ以上籠城を続けても勝機はないと存じまする。そこで、尼子に降伏する旨の書状を送り、油断した尼子兵を城内に誘い込んで奇襲を仕掛ける、という策を弄してはいかがでしょうか?」


隆重は決して知将ではなかったが、豪雪の中を城外に打って出るよりは、敵を騙して城内で敵将を討つ方が勝つ可能性が高いと考えたのである。


「ふむ。敵を欺くのは私の好みではないが、この期に及んでは背に腹は代えられぬか。亡き父上ならば、児戯に等しいこの程度の謀は躊躇わぬであろうしな。良かろう、中務少輔の策に賭けるとしよう」


「はっ、かたじけなく存じまする」


だが、山中幸盛、立原久綱ら尼子遺臣を擁する尼子再興軍に加えて、浅井軍には大将として浅井長政の次弟で知勇兼備の将である浅井玄蕃頭政元と共に、軍師である沼田祐光が随行しており、その祐光は隆重の策謀をいとも容易く看破した。


「出雲国で最も重要な城である月山富田城が落ちれば、元尼子配下で日和見している国人衆も一斉に寝返る恐れも高く、さらに勢いづいた尼子再興軍の手が石見にまで及ぶのは、毛利の目にも明らかにございましょう。玄蕃頭殿。月山富田城の城主は毛利陸奥守の六男・少輔十郎にございます。はたして降伏などするでしょうか?」


「なるほど、上野之助殿。つまりは、罠だと申すのだな?」


大将を務める浅井政元が祐光の言葉に頷くと、天野隆重を良く知る立原久綱が口を開く。


「左様にござる。副将の天野中務少輔は大内家に仕えていた頃から断固として反尼子の姿勢を崩すことのなかった者にござる。彼奴ならば最後の一兵が死ぬまで戦い続けるはずにて、降伏するなど考えられませぬ」


さらには、書状には降伏の条件として毛利元秋の首を差し出すと書かれてあったが、鉢屋衆によって元秋は存命であり、首を差し出すつもりがないのが明確となった。


「ならば敵の策を逆手に取り、わざと策に掛かった振りをするまでにございまする」


祐光はそう言い残して、数十人の護衛の兵を連れて使者として月山富田城に入ると、すぐさま護衛兵の鉄砲に火を付け、いつでも発砲できる態勢を整えた。


奇襲は相手の油断があって初めて成功する可能性が生まれるものである。奇襲を敢行する機を窺っていた毛利兵も鉄砲を構える護衛兵を見て、既に奇襲は警戒されており、成功する可能性が皆無なのを悟る。


沼田祐光は降伏の書状の内容を自ら反故にする愚を犯すのではなく、天野隆重と対面すると、書面どおりの降伏条件を認めて交渉を行った。


これには、書状が奇襲するために敵将を誘き出す罠だったと白状する訳にも行かず、さすがに隆重も返答に窮した。


交渉の結果、書面どおり毛利元秋は自刃を命じられ、自分の策の失敗により元秋を死なせた自責の念から、天野隆重も後を追い腹を斬った。


1月20日。かくして月山富田城は吉川軍の援軍を待つことなく落城に至り、尼子再興軍の念願叶って出雲国の大部分が平定された。これにより日和見していた出雲と石見の国人衆の多くが尼子再興軍に寝返ることとなるのであった。

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