関東大乱① 鉢形城の攻防

10月中旬、寺倉家が讃岐を平定して東伊予に侵攻を始めた頃、関東では竹中家と織田家が共闘して、同時に関東大連合の領内に攻め入った。


北武蔵では上杉家の傘下にあった国人衆が一斉に離反し、古河公方が呼び掛けた関東大連合に味方していた。そのため、竹中家は上杉家に援軍を送る約定が白紙になったのと引き換えに、援軍の対価だった北武蔵の割譲を受けることができなくなっていたのだ。


「美濃守様。領地とは本来、他人から譲られるものではなく、自ら戦って攻め獲るべきものにござる故、これが当たり前かと存じますぞ。結局は奥州で上杉家の援軍として戦うか、武蔵で織田家と共闘して戦うかというだけの違いにございまする」


舅の安藤守就が告げた文言に、竹中半兵衛は肯定の念で強く唸った。


「確かに左様だな、舅殿。それに将来のことを考えれば、むしろ自力で北武蔵を平定した方が竹中家の威光が高まり、我らが統治し易くなって好都合やもしれぬな」


「なるほど、左様にございまするな」


「とは言え、50万石近い広大な北武蔵を自力で平定する破目になったのは、いささか面倒ではあるがな」


竹中半兵衛は前向きに告げながらも、北武蔵の国人衆は奥州の敵と比べるとかなり手強く、内心ではやはり大きな痛手なのは否めなかった。




◇◇◇




武蔵国・鉢形城。


半兵衛は稲刈りを終えた農民兵を徴集し、全兵力の7割の2万5千もの大軍を以って北条氏康の五男・藤田新太郎氏邦が籠る鉢形城を包囲した。


100年近く前に築かれた鉢形城は、西から東に流れる荒川に南から深沢川が合流する断崖に立地し、屈曲して激しい水流を成す荒川の侵食により険しい谷を形成し、天嶮の要害と化した武蔵随一の堅城であった。


かつては関東管領・山内上杉家の当主・上杉顕定の居城であり、その後は「河越城の戦い」によって北条家が武蔵の支配権を確立すると、この地方の豪族であった藤田康邦が入城し、その後を娘婿の藤田氏邦が居城として整備していた。


史実では、豊臣秀吉による「小田原征伐」の一環として、鉢形城は前田利家や上杉景勝、真田昌幸、本多忠勝らによる3万5千の軍勢に包囲された。対する鉢形城の城兵はわずか3千で10倍を超える兵数差がありながらも善戦を繰り広げた。


結局は約1ヶ月の籠城戦の末に鉢形城は開城しているが、この戦いでは本多忠勝の軍勢が所持していた大砲が城門を打ち砕き、膠着状態を打破したのが大きな勝因であった。


しかし、生憎ながら竹中軍は大砲を所有していない。荒川は水流が激しいため、舟で上陸して断崖をよじ登る策は難しく、そうなれば西南の大手口から力攻めするしかないが、今後の関東大連合との戦いを考えれば徒に兵を失いたくないというのが半兵衛の考えだった。


そのため、半兵衛は毎夜のように夜襲を仕掛けて城兵を睡眠不足で疲労させる持久戦術を採ったものの、11月に入っても鉢形城の北条勢の士気は非常に高く、一向に現状を打破する光明を見出すことができなかった。


だが、鉢形城を落とせば北武蔵を押さえたも同然であるほど、鉢形城攻略の重要度は高いため諦める訳には行かない。ただ"今孔明"と呼ばれる半兵衛の知略を以ってしても、兵糧攻め以外に鉢形城を攻略する策が見当たらず、最悪は城兵を飢え殺しさせるしかないと長期戦を覚悟していた。


ところが11月10日、そうはさせじと藤田氏邦から救援要請を受けた古河公方の指示を受け、結城、小田、小山、宇都宮といった「関東八屋形」の諸大名が鉢形城に後詰めの兵2万を派遣したとの一報が、望月党を率いる望月頼盛から半兵衛の耳に届く。


兵数では上回るとは言え、士気の高い関東大連合の軍勢と正面から戦えば兵を損耗した挙句、鉢形城を落とすこともできなくなるという最悪の状況が予想できたため、半兵衛は鉢形城攻略の糸口を見出せないまま、上野に撤退する決断を余儀なくされることとなった。




◇◇◇





一方、満を持して2万3千の大軍で小田原城を出陣した織田軍は、東相模を順調に制圧しつつあった。


相模川を渡ると高座郡を3日で平らげ、続いて鎌倉郡に侵攻すると、鎌倉を守る要衝である玉縄城も拍子抜けするほど呆気なく2日で落城した。


「尾張守様。確か玉縄城の城主は地黄八幡の黄備えで名高い北条左兵衛大夫(綱成)だったと聞き及んでおります。しかし、城内には大した数の城兵はおらず、武蔵から援軍が来る様子もないのは何かの策略やもしれませぬ」


玉縄城は北条家の残党にとっても重要な城のはずである。ところが、玉縄城を守っていたのは北条一門どころか、下位の家臣だったのだ。


「であるか」


信長の側で軍師役として従軍する木下小一郎長秀の用心深い進言に、同意した信長も眉を顰めざるを得ず、織田軍は用心して玉縄城にて数日間滞留し、敵の出方を窺う。


しかし、周辺で怪しい動きは見られず、信長は北条家の残党は南武蔵を守るので精一杯であり、兵力が足りないため下位の家臣に東相模の守備を命じたのだろうと判断を下す。


10月20日、玉縄城に3千の守備兵を残すと、信長は2万の軍勢で三浦郡の平定に取り掛かる。鎌倉郡の玉縄城を制圧した今、東相模に残るは三浦半島のみとなった。


三浦半島の東岸を南下し、衣笠城や浦賀城を始めとする諸城を攻め落とした織田軍は、残る新井城と三崎城の攻略のため三浦半島の南端に向けて進軍した。


新井城は三方を海に囲まれた断崖に築かれた天然の要害で、三崎城の北西に位置する油壺湾に面しており、50年ほど前、東相模の小大名であった三浦道寸が北条早雲の侵攻に対して3年もの間籠城戦を繰り広げたほどの堅城である。


油壺という地名は、新井城が陥落した際に三浦家の血で海が油の壺のように真っ黒に染まったことに由来するとおり、寡兵ながら頑強な抵抗を見せる新井城を落とすには正面から力攻めするしかなかった。


圧倒的な兵数を誇る織田軍もこれにはかなり手を焼くことになり、12月も中旬に入ったところでようやく新井城を落としたのである。


だが、12月11日の午後、落城した新井城で信長が重臣たちと戦勝の宴を催しているところに、異変が起こる。


「尾張守様。三崎に安房の軍勢が上陸し、三崎城を占領した模様にございまする!」


三浦半島の最南端に位置する三崎城は水軍を運用するための城であり、長らく北条家一門が城主を務めていた。


しかし、新井城を攻めている間に風魔党に三崎城を調べさせると、東相模の他の諸城と同じように下位の家臣の姿しか見当たらず、信長は北条家の残党が東相模を半ば放棄したと判断し、後回しにしていたのだ。


だが、それは間違いであった。織田軍が新井城に掛かり切りになっている間に、里見水軍が海から上陸して三崎城を奪い取ったのである。


「くっ、里見水軍か。よもや里見の上陸に備えるべく築かれた三崎城を、里見水軍が火事場泥棒に来るとはな」


「里見水軍など、陸に上がった河童と同じにござる。この鬼柴田が明日にでも三崎城を奪い返して見せましょうぞ。ワッハッハ」


やや不機嫌そうな信長に、酒が入って気が大きくなった柴田勝家が上機嫌で大言壮語した。しかし、豪放磊落な笑い声を挙げる勝家に冷や水を浴びせるかのように、木下小一郎が冷徹に言葉を発する。


「尾張守様。里見は北条とは長らく敵対関係にございましたが、今や関東大連合に与しておりまする。これは火事場泥棒などではなく、敵の巧妙な罠かと存じまする」


「ん、罠だと? 小一郎、どういう意味だ?」


「それは……」


"罠"という言葉に訝しんだ信長の問い掛けに、小一郎が答えようとしたその時、再び伝令兵が駆け込んでくる。


「一大事にございまする! 南武蔵に退いていた北条左兵衛大夫率いる1万数千が此方に向けて南下を始めたとの由にございまする!!」


それは正しく小一郎が危惧したとおりの最悪の事態を告げる凶報であった。

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