大内輝弘の乱③ 夢幻の再興

周防で「大内輝弘の乱」が起きた頃、毛利軍本隊は長門の勝山城で既に1ヶ月以上も大友軍と対峙していたが、毛利家の状況は依然として芳しくなかった。いや、最悪の状況と言っても過言ではなかった。


山陽道では備前の浦上家が三村家を攻めていたが、幸いにも播磨の蒲生家の存在により何とか抑えられていた。しかしながら、山陰道では浅井家に対する守備が手薄となり、大友軍と示し合わせたかのように伯耆や出雲に攻め入った浅井軍に対応出来ずにいたのである。


東伯耆の河村郡の羽衣石城には有力国人の南条家がいた。南条家は佐々木源氏の塩冶氏庶流で東伯耆守護代を務めた家柄であるが、「応仁の乱」で伯耆守護の山名家が没落した後、伯耆に侵攻した出雲の尼子家に降る。


やがて毛利家の傘下で反尼子の一翼を担い、6年前に羽衣石城を奪回して旧領を回復していたが、9月中旬、浅井家の支援を受けた尼子旧臣の一気呵成の攻勢に抗しきれず、当主の南条宗勝は切腹を条件に浅井家に降伏するに至った。


続いて、八橋郡の八橋城がすぐに落城すると、9月下旬には西伯耆の会見郡の要衝で、毛利家の猛将・杉原盛重が守る尾高城も「尼子三傑」の山中幸盛によって撃ち破られ、伯耆国10万石は浅井家によって制圧された。


さらに伯耆侵攻と並行して、隠岐水軍を配下に収めたばかりの奈佐日本之介率いる浅井水軍の船団が、やはり「尼子三傑」の立原久綱率いる1千の兵を出雲に輸送し、久綱は島根半島の千酌湾に上陸すると、尼子家再興を宣う檄文を出雲各地の尼子家旧臣に送った。


依然として尼子家の影響を色濃く残している出雲では、久綱の檄に呼応して集まった旧臣は3千にも上った。9月中旬、久綱率いる尼子再興軍4千は日本海側の補給拠点として重要な役割を担う真山城を攻める。


城主の多賀元龍も寡兵で抗戦を試みるが、一戦にして敗れると城を捨てて退却した。僅か1日で真山城を落として勢いづいた尼子再興軍は、9月下旬には宍道湖北岸に末次城を築き、月山富田城奪還のための拠点とした。


そこへ伯耆から山中幸盛率いる軍勢5千が合流すると、総勢1万に迫る軍勢となった尼子再興軍は月山富田城を奪還すべく、月山富田城の周囲に幾つもの向城を築くのと並行して、大軍を以って毛利方の支城を次々と落としていった。




◇◇◇





長門国・勝山城。


10月8日、こうした劣勢の山陰道の状況が勝山城に釘づけされた"毛利の両川"こと、吉川元春と小早川隆景に報告された。


「うぅむ、拙いな。このままでは山陰道の要である月山富田城が落とされかねぬ」


「ですが、兄上。目の前の大友軍を放って援軍は送れませぬぞ」


毛利家もこの対応に苦慮し、隆景がそう告げた直後、さらに悪夢のような凶報が飛び込む。


「申し上げます。周防の山口に大内太郎左衛門尉率いる反乱軍6千が大内家再興を掲げて攻め入り、高嶺城が攻められておりまする!」


「「な、何だと!!」」


二人の喫驚が響き渡る。周防で「大内輝弘の乱」が起きたとの一報が届いたのは、高嶺城が攻められてから3日後のことだった。


「又四郎、大内太郎左衛門尉とは誰だ?」


「おそらくは70年ほど昔に謀反を企て、大友に落ち延びた大護院尊光(大内高弘)の子にございましょう」


「くっ、背後の周防で反乱を起こして攪乱するとは、まんまと大友宗麟にしてやられたか!」


東では浦上家が三村領に攻め入り、伯耆は浅井家に奪われ、出雲にも攻め入られている。四面楚歌の様相を呈する現状では、安芸にいる毛利就辰も高嶺城に援軍を送るのは現実的に不可能となっていた。


残る手は勝山城の毛利本隊が援軍に向かうしか手はないが、高嶺城の救援に向かえば勝山城はすぐに落とされ、長門を大友に奪われる可能性が高い。


そのため、高嶺城に援軍を送るか、それとも高嶺城の城兵を見殺しにするかで、"毛利の両川"である元春と隆景の主張が真っ向から対立する。


毛利本隊の総大将の元春は勝山城を明け渡して周防に一旦撤退し、大内輝弘の反乱軍を討伐した後にすぐに反転し、返す刀で大友軍を撃退すべきだと主張した。


それに対して、軍師を務める隆景は長らく北九州の戦線を維持してきた経緯もあってか、ここで勝山城から撤退すれば大友家をさらに勢いづかせてしまうと主張し、撤退に反対した。


その結果、結論が出ないまま徒に時間が経過し、孤立無援で籠城する高嶺城の城兵たちは死闘を余儀なくされる。この事態に、桐姫の夫で吉川家一門である市川経好は、高嶺城を見捨てる考えを断固として拒絶し、市川家だけで毛利本隊から離反する姿勢を見せた。


そして、元春と隆景のどちらも妥協しなかったため、10月23日、吉川元春は1万の兵を率いて勝山城を離脱し、全速力で高嶺城の救援に向かったのである。


しかし、仲違いした訳ではないが、これまで双方が妥協し合って毛利家を支えてきた2人が己の主張を最後まで押し通した結果、"毛利の両川"に亀裂が生じたことが、今後の毛利家に大きな禍根を残すことになる。




◇◇◇




周防国・築山館。


「太郎左衛門尉様。吉川少輔次郎率いる毛利の援軍1万が此方に向かっておりまする」


輝弘にそう報告する男は三雲成持という。5年前の「三雲城の戦い」で自刃した三雲定持の次男である。


落城直前に定持に逃がされた3兄弟は御家存続のために袂を分かち、嫡男の三雲賢持は関東管領の上杉家を頼って東に向かい、次男の成持は九州の名門・大友家に仕官し、三男の総持は松永家を経て、今では三雲政持と改名して寺倉家の将星となっていた。


「疾うに見捨てたと思うておったが、救けに来たか。だが、大内家再興のためには退く訳には行かぬ」


援軍到着によって反乱軍は一転して形勢不利となるが、大内輝弘は吉川軍と正面から戦う決意を固めるのだった。




◇◇◇




周防国・高嶺城。


「援軍だぁぁ!! 援軍が来たぞぉぉぉーー!!!」


それは待ちわびた朗報であった。吉川元春率いる1万の兵が駆けつけたのである。無論、その中には市川経好の姿もあった。


「桐ぃぃーー!」


桐姫は駆け寄ってくる夫の経好の姿を目にし、目尻に涙を浮かべて微笑むと安堵したのか、電池が切れたように気を失って倒れ込んだ。


鎧を纏った桐姫の柔肌は無数の傷を負い、包帯を巻かれた両腕には血が滲んでいる。そんな痛々しい愛妻の姿に経好もまた涙を流し、両腕に抱いて慰めていた。




◇◇◇




吉川元春率いる5千の兵が高嶺城に入城すると、残りの福原貞俊率いる別働隊5千は山口の南を封鎖するように布陣した。


対する反乱軍は20倍もの兵を以ってしても高嶺城一つ落とせなかったことに加え、毛利の援軍により劣勢となったことから、寝返った大内家の旧臣たちは山口から慌てて逃げ出し、輝弘の元に残ったのは豊後から率いてきた2千の大友兵だけであった。


2千の兵で1万の吉川軍と戦ったところで玉砕は明らかであり、海から豊後に撤退しようにも既に南は塞がれ、北は中国山地がそびえ立つため、必然的に退路は東に絞られた。


東の道は整備されていない狭い山道で、寡兵で逃げるには好都合ではあったが、生まれて初めて豊後を出た大内輝弘は周防の地理に明るくなく、撤退に予想外の時間を要してしまう。


さらには、狭い山道で世鬼衆の襲撃を受けて足止めを食らうと、千切峠で追撃してきた吉川元春の本隊と、東に迂回して北上した福原貞俊の別働隊に挟撃され、絶体絶命の窮地に陥る。捨て身の突撃に打って出るも、多勢に無勢で敗走した輝弘は岳山の峰に登った。


(ふ、ふはは。大内家再興は夢幻の如くなり、か。我が命も儚きものであった。だが、悔いはない。こうして毛利に一矢報いることができたのだ。最早後悔などあるはずもないわ)


岳山の山頂から大内家の本拠である周防国の景色を一望して瞼に焼き付けた後、輝弘はどこか満足げな表情を醸しつつ自刃に至った。こうして、儚くも「大内輝弘の乱」は終結したのだった。

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