三好討伐④ 周桑制圧

伊予国・剣山城。


西国最高峰の石鎚山の麓から新居浜平野を眼下に収める剣山城は、40年ほど前の享禄年間に妙之谷川の東の尾根沿いに築かれた連郭式山城であり、南北500mの規模を誇る東伊予屈指の堅城である。


剣山城の城主は周敷郡を治める黒川肥前守通尭であるが、通尭は元の名を長宗我部元春と言い、中土佐の国人・長宗我部兼序(元秀)の子であった。だが、嫡男で異母兄の長宗我部国親との不和から土佐を出奔した元春は伊予に落ち延びる。


そして、元春は伊予で頼った国人の黒川通矩に気に入られ、通矩の妹婿となって黒川通尭と改名すると、通尭は優れた武勇を発揮し、通矩と共に周辺の国人を臣従あるいは滅ぼしていった。


その後、通矩から黒川家の家督を継いだ通尭は、東伊予守護代の石川家と対抗するまでに黒川家を伸長させ、周敷郡の旗頭として確固たる地位を築き上げると、60歳となった今もなお矍鑠としていた。


通尭は25年前に次男・通俊を浮穴郡の戎能家との戦いで失くしている。史実では6年後に嫡男の通長も桑村郡の壬生川家との戦いで失い、河野家一門の正岡家から養子を迎えて、黒川家は伊予守護の河野家の傘下に入ることとなるが、嫡男が健在である現時点では独立を堅持していた。


しかし、長年の宿敵だった石川家が一条松平家に僅かひと月余りで滅ぼされ、宇摩郡と新居郡が制圧された。四国に覇を唱えんとする一条松平家が、次に新居郡に隣接する周敷郡を狙う可能性は大いにあった。いや、むしろ河野家の支配下にない周敷郡は恰好の標的であった。


10月中旬、黒川家中では一条松平家に与すべしという声が日増しに強まっていた。しかし、そこへ一報が舞い込む。讃岐を平定した寺倉軍が東伊予に攻め入ってきたのだ。


寺倉家と言えば"六雄"の筆頭で、畿内を制した事実上の"天下人"である。通尭も9月に寺倉家が四国に上陸したのは知っていたが、余りにも早すぎる讃岐平定に呻き声にも似た嘆息を漏らす他なく、家中は一条松平家と寺倉家のどちらに与するかで二分した。


松平党を家臣に迎えてから連戦連勝で、僅か2年足らずで没落途上から一躍雄飛した一条松平家は、今や西四国の雄とも言うべき存在である。さらに摂家に繋がる土佐国司の家格も申し分なく、古き権威を重んじる譜代家臣は当然のように一条松平家を支持した。


対する寺倉家は200万石を軽く超える圧倒的な勢威を誇るが、元は弱小国人で成り上がり者に過ぎない。しかし、乱世では家格よりも武力がすべてであり、"天下人"たる寺倉家を推す声が多いのも事実だった。


かくして黒川家中の議論は平行線を辿り、このままでは家中が分裂しかねないと通尭は頭を抱えるところだったが、寺倉軍が東から攻め入るとなれば一条松平家は防戦必至であり、西の周敷郡を攻めている余裕などあるはずもない。


通尭はこれ幸いとばかり、寺倉家と一条松平家の戦の趨勢が明らかになるまで日和見に徹し、勝ち馬に乗ろうと決めるのだが、現実はそう甘くはなかった。


◇◇◇


10月22日の朝、剣山城の本丸の一室に慌ただしい足音が響いた。


「危急の報せにございまする!」


「如何した?」


卒爾として冷たい風が吹き抜けたように感じて、通尭の声音が一段と下がる。


「昨日、鷺ノ森城が落城いたしました」


「な、何だと?!」


通尭は喫驚せざるを得ない。河野家臣の壬生川家が城主を務める鷺ノ森城は、西隣の桑村郡の大曲川の河口に築かれた河野家の東の要衝である。黒川家も桑村郡を狙って何度か攻めたが、1千にも満たない黒川軍では海と水堀に守られた平城は落とせず、通尭も歯噛みさせられた城だった。


その堅城が『敵が攻め寄せた』という報せを経ずに『突如として落ちた』と聞いて、通尭が耳を疑ったのも当然である。


「如何なる仕儀で鷺ノ森城が落ちたのだ? 詳しく申せ」


大頭館主で筆頭家老の玉井備前守が冷静な声を響かせる。


「はっ。昨日の昼過ぎ、燧灘沖に突如として巨大な船3隻が現れ、巨大な鉄砲が続けざまに轟音を響かせました。どうやら鷺ノ森城主の壬生川摂津守は腰を抜かし、その船が寺倉水軍の南蛮船だと知ると、すぐさま降伏を決めたようにございまする」


淡路島が寺倉水軍の艦砲射撃により制圧されたのを聞き及んでいた壬生川通国は、海沿いに築かれた鷺ノ森城が南蛮船の砲撃の餌食になるのを恐れ、寺倉家から降伏勧告の使者が来る前に、自ら降伏の使者となって小船で出向き、臣従を申し出たのであった。


「ふっ、戦わずして降るとは腰抜けめ。我らを苦しめた鷺ノ森城がこうも容易く落ちるとはのぅ。寺倉家の南蛮船とは一体、如何ほどのものなのだ?」


南蛮船を碌に知らない通尭は、疑いの眼差しで4人の家老衆を見据える。


「某も見たことはございませぬが、安宅船とは比べ物にならぬほど桁外れの大きさだと聞いておりまする」


「安宅水軍の守る淡路島の城を10日ほどで崩壊したと聞き及びますれば、南蛮船の砲撃は凄まじいものと存じまする」


そう答えたのは中立派の家老の下見越後守と十河又五郎だったが、通尭がふと視線を落とすと、歴戦の2人の膝上の握り拳が僅かに震えていた。


(それほどまでに恐ろしい代物なのか)


通尭は内心で悔しい思いを抱きながらも、しばし黙考すると徐に口を開いた。


「……正直に申すが、先ほどは戦わずして降った壬生川を腰抜けだと謗ったが、皆の話を聞くと、儂には寺倉の軍勢に抗うのは御家を滅ぼす愚策だとしか思えぬ。それどころか、寺倉家は日和見に興じた者も容赦なく所領を没収するとも聞く。悠長に一条松平との戦の決着するまで待つなど、我らが優柔不断な態度を取れば、黒川家は間違いなく周敷郡を追われるであろう。それでも皆は寺倉家と戦う覚悟があるのか? 次右衛門、どうだ?」


「はっ、仰るとおりに存じます。ここに至っては某も寺倉家に与するが吉と存じまする」


寺倉派の玉井備前守に対して、同じ筆頭家老で一条松平派の安藤次右衛門は対立していたが、その次右衛門が翻意すると、下位の奉行や代官たちも次々と賛同の意思を示し、黒川家中は寺倉家への臣従で一致した。


すると、それを待っていたかのように、一刻後に寺倉家からの使者が剣山城を訪ねる。


「某は寺倉家家臣、朝倉九郎左衛門尉景紀と申しまする」


「黒川家当主、黒川肥前守通尭にござる。使者殿、よくぞ参られた」


通尭の予想外に柔らかい物腰に、景紀は戸惑った。


正吉郎が桑村郡と周敷郡を先に狙ったのは、東から安富政顕の率いる本隊を進軍させて一条松平家の注意を引きつけ、その隙に西の桑村郡と周敷郡を押さえて、東西から挟撃しようという策であった。


さらに名門・朝倉家一門の朝倉景紀を使者として、黒川家に誠意を示そうとしたのだが、果たしてそれは如実に結果となって表れる。


「一つお尋ねいたすが、使者殿はあの誉れ高き朝倉宗滴様の御身内でござるのか?」


「左様。亡き金吾様は某の養父にございまする」


「おお、左様でござったか。儂は知勇兼備の宗滴様を心の師と仰いでおるのだ。宗滴様の薫陶を受けられた使者殿とお会いできて、誠に嬉しく存じますぞ。できれば宗滴様の話を伺いたいものでござる」


「お安い御用にございますが、その前に大事な用件をお伝え申す。……黒川肥前守殿におかれては、周敷郡の安堵を条件として寺倉家に降伏臣従していただきたく存じまする。如何ですかな?」


「周敷郡を安堵していただけるならば何ら異存はござらぬ。黒川家は寺倉家に臣従いたしまする」


間髪を置かずに通尭が臣従を承諾すると、ここまで早く決断するとは思わなかった景紀は拍子抜けしてしまう。


海沿いの鷺ノ森城には南蛮船の空砲の轟音で恐怖心を植えつけ、降伏勧告に応じ易くさせる狙いだったが、此方から使者を送る前に当主自ら出向いて降伏してきた。しかし、剣山城は海から離れた山城で艦砲射撃は届かないため、黒川家を降伏させるには少し難儀するだろうと予想していたのだ。


「ご英断、かたじけなく存じまする」


こうして周敷郡と桑村郡の盟主だった黒川家と壬生川家が降伏したことにより、周辺の国人衆も一斉に降伏し、両郡3万2千石の制圧が成ったのである。

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