三好討伐③ 讃岐平定と梟雄の憂鬱

9月下旬になると、讃岐では香川・香西連合軍の戦力が減少し、明らかに劣勢となった。


その理由は、両者の戦力は国力差から寺倉軍が優勢だったのに加えて、軍制の違いが諸に出たためだ。香川家や香西家はほとんどが農民兵であり、米の収穫の農繁期に入り、これ以上農民を戦に徴用できなくなったのだ。


それに対して、寺倉軍は昔から銭雇いしてきた常備兵に加えて、名うての傭兵集団だった根来衆も配下に加わり、農繁期とは無関係に戦える専業兵士で構成されている。そのため、10月に入ると香川・香西連合軍との兵力差が拡大し、戦いは一方的になった。


10月3日、勝賀城が開城して香西家が降伏し、6日には香川家の居城の天霧城が落城した。讃岐は安富政顕を代官にして治めさせる方針のため、当然ながら安富家に敵対的な両家の領地は没収する。


だが、東讃岐で勢力の大きい香西家の残党の抵抗を失くすため、当主の香西元載は切腹させたが、後を継いだ16歳の香西佳清は小豆島に流すことにした。律令制では備前ながら実際には讃岐統治下にある小豆島だが、3千石程度では反乱も起こせないだろう。


一方、西讃岐守護代の香川家当主・香川之景は、史実では毛利家や織田家、長宗我部家と主君を次々に乗り換えた男だ。生かしておけば三好家や一条松平家に内応し、将来に禍根を残しかねないため、之景と弟の香川景全ら一族の男子には腹を切らせた。


こうして寺倉軍が堺を発ってから僅か2ヶ月。三好家の影響力が強かった讃岐もあっという間に落ち、讃岐国12万石の平定が成った。


一方、三好家は阿波一国と東土佐2郡の20万石余に閉塞したことになる。全盛期には200万石を優に超え、三好長慶が「日本の副王」と呼ばれるほどの栄華を誇った三好家が、長慶の死から僅か4年半でここまで凋落したのだ。本当に戦国の世は恐ろしいと言わざるを得ない。


ところで、讃岐は降雨や川が少ないため昔から渇水に悩まされてきた。そのため数多くの溜池が掘られたが、中でも空海の改修で知られる日本最大の溜池が万農池、後の満濃池だ。だが、12世紀に決壊してから改修されず、今では池跡に村や田畑ができている。


史実で万農池が復旧するのは江戸時代前期だが、俺は安富政顕に命じて農閑期の今冬から改修を始めるつもりだ。無報酬の賦役ではなく、日当の銭と昼飯を提供すれば讃岐の人心掌握にもなり、一石二鳥となるはずだ。


それと前世で讃岐と言えば、コシの強い"讃岐うどん"を思い浮かべるが、まだ存在しない。史実では二毛作で小麦栽培が盛んとなり、特産の醤油と塩、煮干しが揃って讃岐うどんが生まれるのは江戸時代中期だ。だが、寺倉領では伊勢で作っている醤油で汁なしの"伊勢うどん"が食べられており、讃岐うどんも早く普及させたいところだ。




◇◇◇




10月中旬、讃岐を平定して休む間もなく、俺は金子元宅の援軍要請に応えるため西へと兵を進めた。相手は東伊予に侵攻した一条松平家だ。決して侮れる相手ではない。


軍の指揮は引き続いて安富政顕や真田兄弟に任せ、案内役に金子元宅が従軍している。東西に細長い東伊予は城の多くが海を臨み、艦砲射撃の射程内にある。配下にした塩飽水軍に水先案内をさせて燧灘に南蛮船を送って寺倉軍の力を存分に見せつけ、一条松平を東伊予から叩き出すつもりだ。


一方、讃岐が平定されたのを見て阿波に撤退した三好軍には、大倉久秀や藤堂虎高に加えて、本多忠勝や小笠原長時、島清興といった将星が率いる3万が追撃し、両軍は東讃岐と阿波の国境の曽江谷川の北で激突した。


もちろん精鋭揃いの寺倉軍が負けるはずもなく、三好軍は敗走した。だが、俺は阿波に追撃させず、兵を一旦退かせた。讃岐から阿波への侵攻ルートは山越えのため大軍の進軍は向かない上に、東西に長い阿波を一方向から攻めるのは効率が悪いからだ。


俺は紀州征伐のように軍を幾つかに分け、東伊予制圧が終わるはずの11月に北と西から一斉に阿波に侵攻する作戦を立てた。



◇◇◇



伊予国・高峠城。


高峠城は200年近くもの間、東伊予守護代の伊予石川家の本拠としてきた山城である。一条松平家が侵攻を始めたのを察知するや否や、石川家の実権を握る金子元成は御代島の加藤家、郷山の藤田家、宇高の高橋家、角子・生子山の越智松木家といった宇摩郡と新居郡の国人衆を糾合し、高峠城に集結させた。


10月上旬、数で劣る石川軍は高峠城に籠城して奮戦するも落城の危機に瀕するが、それでも金子元成は降伏せず、一条松平軍に一矢報いようと城から打って出る。しかし、多勢に無勢、石川一族は讃岐に逃れた金子元宅、ただ一人を除いて全員討死したのである。


一方、一条松平家はこの戦いで多くの兵を失う大きな痛手を被りながらも、宇摩郡と新居郡の東伊予を手中に収めたが、ここで急報が舞い込んだ。


「寺倉の軍勢が向かっておるとな」


毛利元就が亡き今、中国地方の"三大謀将"は宇喜多直家だけとなったが、畿内にもかつて"梟雄"と呼ばれた謀将がいた。今や一条松平家の軍師を務める松永弾正少弼久秀であり、その松永久秀が物憂げに呟いた。


「安富は讃岐を制して勢いづいておる。数は寺倉の援軍もあり、少なくとも2万は超える模様。対する我らは1万2千。倍近い数ですな」


「兵を2つに分けても2万か。阿波には3万が向かっておるらしい。合わせて5万。ほとほと恐ろしいの」


「さすがは200万石を超える大大名といったところか」


一条松平家が四国に覇を唱えるためには寺倉家は破らなければならない壁である。東伊予に攻め込むと決めた時点で、既に淡路を制圧していた寺倉軍が四国に上陸することは予想されたが、寺倉軍は三好家の本拠の阿波を攻めるだろうと考え、その間に伊予を制圧しようというのが一条松平家の目論見だった。


だが、蓋を開けてみれば意外にも寺倉軍は讃岐に上陸し、阿波と東伊予の2方面に兵を分けた。石川家から奪った高峠城の一室に集まった鳥居元忠、内藤正成、鈴木重秀といった錚々たる面子は、皆一様に険しい表情を浮かべていた。


(讃岐の寺倉と阿波の三好だけでなく、毛利の支援を受ける中予の河野とは敵対関係で、正に四面楚歌だ。東予を獲るのは容易かったが、とんだ毒饅頭だったわい)


久秀は内心で溜息を吐くしかなかった。


「どうやら金子の嫡男を旗頭に奉じているようですぞ。拙いですな」


(幾度となく降伏勧告はしたが、戦の前に寺倉に逃がしたのであれば、金子十郎(元成)が受け入れずに無謀な野戦を挑んだのも納得が行くわ)


「備後守(金子元宅)の遺体だけが見つからなんだのが不可解だったが、そういう訳か」


「石川一族がすべて討死したとなれば、石川の血を引く備後守が東予守護代を継いでも可笑しくないか?」


「だが、東予を奪うために我らは大きな犠牲を払ったのだぞ。今さら宇摩郡と新居郡を捨てるなど言語道断だ」


(守護代など所詮は足利幕府の名残に過ぎぬ。だが、臣従した宇摩郡と新居郡の国人にとってはそうではない。ましてや240万石を誇る"天下人"たる寺倉が守護代の血族を奉じて攻め入ったとなれば、元より東予の兵力は大したことはないが……)


「ですが、東予の国人衆の心情は大きく揺らぐであろう。もはや国人衆は当てにできませぬ。我らだけで戦うしかありませぬぞ」


久秀の言葉に再び沈んだ空間を溜息が支配する。


(金子十郎が鬼気迫る戦いぶりで我らを苦しめたせいで、兵の損耗は大きい。寺倉の援護を得た安富にはさすがに分が悪かろう)


「この高峠城は東予随一の山城故、籠城すればある程度は持ち堪えましょうぞ。今の内に城壁を修築し、兵糧を掻き集めて備えるべきかと存じまする」


「「左様ですな」」


久秀の提案に安堵にも似た声が響いた。


(さて、どうすべきかの)

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