但馬・丹波平定② 赤井討伐作戦

丹波国・八上城。


厳冬となったこの冬は、丹波では4月になっても寒の戻りが続き、それこそ雪の降る日もあったほどである。しかし、5月に入ると、ようやく春らしい暖かさが訪れていた。


元は波多野家の居城だった中丹波の八上城には、この城を攻略した後もそのまま篠山の地で越冬した浅井軍2万が駐留していた。


そして今、八上城の大広間の上座に座る浅井加賀守長政の前には、軍師の沼田上野之助祐光や浅井三将ら浅井家重臣に加えて、浅井家に臣従したばかりの諸将が一堂に会していた。これから雌雄を決する赤井家との戦を控えて、長政は赤井家討伐のための軍議を開いていたのだ。


呼び寄せられた諸将は、東丹波の八木城主・内藤備前守貞勝、丹後一色家を継いだ一色式部少輔藤長、その重臣の稲富玄蕃頭直秀、北但馬を山名家から奪ったばかりの垣屋越前守続成、そして、尼子旧臣の山中鹿之助幸盛、鉢屋衆を率いる鉢屋弥之三郎兼房といった錚々たる面々である。


「弥之三郎。赤井は未だ動かぬか?」


「はっ。どうやら此方の動きを窺っているようにございまする」


「加賀守様。むしろ我らを誘っているのやもしれませぬぞ」


鉢屋弥之三郎が長政の問いに答えると、沼田祐光が赤井の思惑を推し測る。


丹波国は山地と盆地が複雑に絡んだ地形をしている。いくら心強い尼子旧臣や鉢屋衆を得たとは言え、長年掛けて丹波に地歩を築いてきた赤井家には地形を熟知する地の利がある。さらには"丹波の赤鬼"と呼ばれる赤井直正がいるのだ。容易く打ち滅ぼすのが困難なのは明らかであった。


「迂闊に打って出ては来ませぬか」


真一文字に口を結び、思案に耽る垣屋続成は赤井家との戦に人一倍気合いを入れていた。それもそのはずである。続成は山名家を傀儡とする形で積年の恨みを果たし、北但馬の支配権を浅井家に認められたことから、確かに浅井家に大きな恩義を感じていた。


しかし、その恩義以上に赤井家に奪われた朝来郡と養父郡を奪還し、南但馬も手に入れようという欲望が、闘志を燃やす動機となっていた。ただし、生野銀山だけは浅井家の直轄地だと釘を刺されてはいたが。


「そう言えば、関白様の妹君は赤井悪右衛門に嫁いでおりましたな。一度、関白様に赤井に降伏を促すよう取り次ぎをお願いしてみてはいかがでございますか?」


元幕臣で京の情勢にも精通している一色藤長が発言したとおり、関白・近衛前久の妹である渓江院は赤井直正の継室として嫁いでいた。


藤長の提案に「おお!」と賛同する声が上がるが、浅井長政は静かに首を横に振った。


「無論、関白様には既にお願いした。関白様が近衛家の縁戚を大切に思っておられるのは重々承知の上で、『天下の安寧のためには、妹君が嫁いでいる赤井家を避けては通れませぬ』とな。『赤井家が"六雄"に降らぬのであれば、討ち果たすのも已む無し』と伝えると、関白様は苦々しい表情を浮かべておられた」


実は史実では、近衛前久はこの年に上洛を果たした足利義昭から「永禄の変」の兄・義輝の横死には前久が関与していると追及された結果、朝廷から追放されている。


だが、この世界では「永禄の変」の直後に足利義昭になる前の覚慶は謎の変死を遂げているため、前久は関白を解任されることはない。そんな史実の出来事を知るはずもない関白・近衛前久は正親町天皇の意思に従い、"六雄"による日ノ本平定への全面協力を約束していた。


もし近衛家の縁戚であることを理由に、前久が赤井家を攻め滅ぼすことに反対すれば、それこそ"六雄"との関係悪化を憂慮する正親町天皇により、前久は関白を解任されかねなかったのである。


「左様でございましたか。して、関白様のご対応は如何でございましたか?」


「うむ。関白様直々の説得にも赤井悪右衛門は一切耳を傾けようとはしなかったらしい。関白様もかなり悩まれた末に、赤井との縁を断つ意思を固められた。既に妹君は離縁され、京に無事戻られておる」


4月下旬、近衛前久は自ら黒井城を訪ねると、義弟である赤井直正に浅井家への臣従を勧告した。周囲を"六雄"に囲まれた状況ではこれ以上の抵抗は無駄に命を捨てるだけだという関白の説得に対して、直正は戦わずして降るは武門の恥だとして、頑として受け入れようとはしなかった。


朝廷の意向を無視する直正の態度に怒りを覚えた前久は、それ以上の説得を諦める代わりに、直正に渓江院との離縁を強制的に命じた。さすがに愛妻家だった赤井直正も離縁には難色を示したが、前久から『拒めば朝敵にするぞ』と脅された直正は、最後は泣く泣く離縁して妻の身柄を京に送り返したのだった。


「左様でしたか。戦わずして降伏させるは無理のようにございますな」


「こうなっては是非もなしだな」


長政は嘆息して現状を憂いた。朝廷を仕切る関白・近衛前久に縁戚の赤井家との縁を断たせるのは、長政にとっても決して本意ではなく、赤井家に降伏臣従を説得してほしかっただけなのだ。


「ならば、赤井が打って出ざるを得ない状況にすれば宜しいかと存じまする」


そう発言する内藤貞勝も赤井家との戦いには並々ならぬ決意を以って臨んでいた。内藤家は赤井直正に敗れ、没落した経緯がある。赤井家に対して穏やかならざる感情を抱くのも、至極当然であった。


そもそも船井郡を本拠とする内藤家と、氷上郡・天田郡を領する赤井家とは長い間領地を巡って争ってきた険悪な関係である。赤井家の方も直正の兄・赤井家清が内藤家との戦で負った傷によって死んだため、内藤家に対して敵愾心を剥き出しにしていたのである。


「ああ、それが最も良い策であろう。赤井も折角攻め取った南但馬を失うのは本意ではなかろう。但馬の地形に明るい垣屋越前守が北から南但馬に攻め入り、一色式部少輔には丹後から攻めてもらう。我らはこの八上城から侵攻する」


「なるほど、3方面から攻め入れば、さすがの赤鬼も挟撃を避け、打って出ざるを得ないでしょうな」


垣屋続成は納得したように肯く。


赤井家の本拠は黒井城で、八上城からも比較的近い距離にあるが、赤井直正が改修を施した黒井城は難攻不落の山城として名高かった。


史実では、かの明智光秀も赤井直正との「第一次黒井城の戦い」では苦戦を強いられ、一時は死を覚悟したほどであった。そこで、光秀は黒井城に兵を向けるのではなく、周囲の支城を攻め落とし、徐々に追い詰める包囲戦術を採ったのである。


それでも史実の赤井直正は抵抗を続けたが、天正6年(1578年)に病死したのだ。直正という大黒柱を失った赤井家は、直後の「第二次黒井城の戦い」で国人衆の離反を抑え切れず、呆気ないほどに降伏した。それほどまでに赤井直正という存在は赤井家にとって大きかったのである。


しかし、史実で病死する10年前の赤井直正は、今40歳で円熟期を迎えている。全盛期ほどとは行かないまでも、積み上げた歴戦の経験により丹波での戦いにおいては無敵とも言える強さを誇っており、愚直に真正面から対峙しても苦戦は必至であった。


ならば3方面から赤井領に攻め入り、ジワジワと赤井家の城を落とし、領地を削っていく戦術が最も確実性が高く、効果的と考えるのは妥当な判断であった。


「生野銀山だけは浅井家の直轄地とするが、それ以外の領地に関しては切り取り次第とする。各々方、励んでくれ」


「「「ははっ」」」


5月の麗らかな陽気に包まれた八上城内に意気軒昂な声が高らかに響き渡った。

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