但馬・丹波平定③ 赤井家の佞臣

丹波国・黒井城。


5月上旬、浅井家が赤井家討伐の作戦会議を開いていた頃、対する"丹波の赤鬼"こと赤井直正は居城の黒井城で浅井家の動きに眉を顰めていた。


「よもや近衛家が浅井に味方するとはな」


直正は憂鬱な様子を隠さず、溜息を漏らす。直正は正室だった波多野元秀の娘と死別した後、直正の父・赤井時家が5年程前に近衛家に伺候した際に、元関白・近衛稙家の娘の渓江院を見染めて継室に娶っていた。


渓江院は高貴な身分でありながら驕ることもなく、むしろ控え目ながら気丈な性格で直正を支え、そんな渓江院を直正は心から慈しみ、心の支えとも言うべき存在となっていた。2人は形影一如な夫婦と丹波でも評判であった。


したがって、浅井家の侵攻を前にして、義兄の前久から妻と離縁するように求められた時には、当然ながら直正は驚いた。それは直正自身も幾度となく京に招かれたほど、義兄弟の近衛前久と赤井直正は非常に仲が良かったからである。


公家の頂点である関白の座にありながら、前久は決して冷酷無比な男ではない。「永禄の変」の際も従兄弟の足利義輝が襲撃される直前に、義輝に京から逃げるように文を送ったことからも明らかであった。


今回も前久は直正の身を案じ、日ノ本の安寧のため"六雄"に降るように何度も文を送り、最後には自ら黒井城に足を運び、潔く降伏すれば丹波の3郡を安堵するよう浅井家に便宜を図るとも約束して、直正の説得に努めている。


しかし、赤井家のとある事情が、降伏に傾きかけていた直正の心を無情にも打ち砕き、直正は最愛の妻と離縁せざるを得なくなってしまう。


その事情とは「山名四天王」だった太田垣輝延と八木豊信が発端だった。昨年末の赤井家の但馬侵攻の際、「山名四天王」の一角として南但馬の朝来郡と養父郡を領していた2人は、ほとんど戦わずして赤井家に降伏臣従し、本領を安堵されていた。


しかし、近衛前久の約束した丹波の3郡には当然ながら南但馬の2人の所領は含まれていない。したがって、赤井家が戦わずして浅井家に降伏すれば、南但馬は浅井家に召し上げられることになる。


そればかりか、下手をすれば主家の山名家から下剋上により北但馬を乗っ取った垣屋続成の手に渡り、「山名四天王」の中で対立関係にあった垣屋続成に但馬国主の座を許すことにもなりかねない。


そうなれば、降伏臣従という屈辱を甘受してまで南但馬の所領を守り抜いた2人にとって、その所領を失うことと同義である浅井家への降伏など、到底受け入れられるはずもなかった。


そこで、太田垣輝延と八木豊信は自らの保身のため、浅井家への降伏を阻止しようと密かに画策したのであった。




◇◇◇





時は4月中旬に遡る。


垣屋続成が北但馬を乗っ取ったのを知った太田垣輝延と八木豊信は、赤井直正の心中が降伏に傾いているのを察知した。このままでは自分たちの所領が失われると考えた2人は、夜間密かに主君である赤井忠家に直談判に及んだ。


赤井家は実質的に赤井直正が取り仕切っているが、赤井家の当主は直正ではなく、甥の赤井忠家である。赤井家は11年前、直正の兄である先代当主・赤井家清が33歳で亡くなったため、嫡男の忠家がわずか9歳で家督を継ぐこととなった。


それ以降、忠家の祖父・赤井時家が後見役となると、軍事面では叔父である直正が補佐し、若い忠家を盛り立てて赤井家の全盛期を築いてきたのである。


その忠家も今では20歳の立派な武将に成長し、むしろ戦においては父・家清にも似た勇猛な才能も発揮していた。しかし、忠家はやや猜疑心の強い優柔不断な性格が白璧微瑕であり、その短所が赤井家を窮地へと追いやることになる。


「市郎兵衛様。浅井家に降伏すれば、当主である市郎兵衛様は責任を負って腹を召さねばなりますまい」


「左様だな。だが、武門の当主の定めとして、御家のために命を捨てる覚悟はしておるぞ」


「ですが、そうなれば赤井家の家督は悪右衛門様が継ぐことになりましょう。もしやすると、悪右衛門様はご自分が当主にならんがために浅井に降伏しようと考えておられるのではございませぬか?」


赤井直正が赤井家当主の座を奪うために浅井家に降伏しようとしていると説く2人は、正に赤井家の獅子身中の虫であった。


「な、何だと?! これまで私を支えてくれた叔父上が、まさか左様な野心を抱くはずなどあるまい」


「左様ですかな? これまでは市郎兵衛様が幼少でございました故、悪右衛門様が実権を握ることが出来申した。ですが、20歳になられた市郎兵衛様が独り立ちされれば、悪右衛門様は市郎兵衛様に実権を快く譲られるでしょうか? 市郎兵衛様が邪魔だとお考えになられるやもしれませぬぞ?」


「それに、悪右衛門様は奥方とは大変仲睦まじく、関白様の命により離縁するのは避けたいはずにございましょう。離縁を避けるためには浅井に降伏するしかなく、さらに赤井家の当主になることもできるとなれば……」


2人は巧妙に真実に嘘を織り交ぜながら、忠家の唯一の短所である猜疑心を煽った。元々、武勇の才能に恵まれていた忠家はまんまと2人の口車に乗せられ、潜在意識の奥底に秘められていた丹波一の猛将の叔父・直正に対する対抗心を顕在化させていった。


「さらに大事なことを申せば、市郎兵衛様の父君は内藤との戦傷が元でお亡くなりになったと伺っております。ならば、仇である内藤が臣従した浅井に降伏すれば、父君の仇討ちも出来ず、父君に対する裏切りになりませぬか?」


さらには、忠家の父・家清が内藤家との戦による戦傷が原因で亡くなったため、忠家は内藤家が臣従した浅井家への敵愾心をも煽られたのであった。


「む、むむ、……確かにお主たちの言い分にも一理あるな。ひと晩じっくりと考えるとしよう」


「「お聞き届けいただき、かたじけなく存じまする」」


一夜明けた翌日、忠家は昨夜の密談により突如として考えを翻し、浅井家に対する徹底抗戦を直正に主張する。


「叔父上。浅井には父上の仇である内藤が臣従しております。その浅井に降伏すれば、同僚となる内藤を討つことも叶わなくなり、冥土で亡き父に会わせる顔がありませぬ。故に、私は浅井家に徹底抗戦すべきだと考え直しました」


「市郎兵衛。確かに兄上の無念を晴らせなくなるのは儂も考えた。だが、兄上の仇討ちに拘ったがために御家を滅ぼすことになっては本末転倒であろう。兄上だけでなく、御先祖様にも面目が立たなくなりかねぬのだぞ」


「これは深く考え抜いた上での結論にございまする」


直正は御家を存亡の危機を晒しかねない忠家の主張に反論するが、普段は直正の意見に素直に従う忠家が、今回ばかりは頑として譲らず、数日掛けて何度も話し合いをしても、主張を一切曲げようとはしなかった。


直正は赤井家の実権を握っているものの、あくまでも赤井家当主は忠家であり、直正は亡き兄の代わりとして忠家を補佐する立場にすぎない。当主の忠家が同意しなければ、浅井家に降伏することは不可能であった。


浅井家との対峙を前にして、家中が二分して内紛状態となるのを恐れた直正は、最後は当主である忠家の主張を尊重して降伏を断念し、開戦を決意せざるを得ない状況に追い込まれる。


それは4月下旬に近衛前久が黒井城を来訪する直前の出来事であり、この結果、近衛前久による赤井直正の説得工作は不首尾に終わることとなった。

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