長宗我部の落日② 岡豊城の戦い

5月上旬、三好軍が香宗城に進軍を開始した頃、一条松平軍も吾川郡を支配する吉良家の本拠・吉良城を攻め落とさんと、一条松平領の最東端に位置する蓮池城に入城した。


幼少の当主・一条家康に代わって一条松平軍の総大将を務めるのは、家康の後見役として実質的な当主の座に就く土居宗珊である。宗珊には油断や隙も一切見られず、一条松平家を四国の覇者とすべく、正に"守護神"と呼ぶに相応しい覇気を身に纏っていた。


高岡郡にある蓮池城は元は「土佐七雄」の一角の大平家の居城であったが、土佐一条家と長宗我部家、そして滅亡した本山家が長きに渡って争奪戦を繰り広げてきた要所である。


天文15年(1546年)に大平家を攻め滅ぼした一条家が蓮池城を奪い取るが、9年後には本山家が一条家から奪取する。しかし、本山家と長宗我部家の対立が激化すると、その隙を突いて一条家が再度奪い返したという経緯があった。


一方、蓮池城から仁淀川を挟んで対岸の5km東にある吉良城は、背後に吉良ヶ峰を控える天然の要害であり、南の吾南平野を治める長宗我部元親の次弟・吉良親貞の居城となっている。


5年前に吉良家に婿養子に入って家督を継いだ吉良親貞は、諜報や暗殺といった"汚れ仕事"を進んで行う一方、自ら先陣に立って槍を振るい、時には元親に代わって総大将を務めるなど、長宗我部家随一の猛将でもあった。


史実では8年後に36歳の若さで病によってこの世を去り、親貞が死ななければ長宗我部家の四国平定は5年早まったと評されるほどの親貞だが、史実とは異なり一条家が強大な現状では、28歳の親貞が蓮池城を奪う余地は皆無であった。


親貞は一条松平軍3千の前に悠然と立ちはだかった。しかし、一条松平軍には宗珊の他にも松永久秀や鈴木重秀、松平党といった勇将が数多くおり、親貞以外に軍を統率できる将が少ない吉良軍は次第に徐々に形勢が不利へと転じていく。


敗北を悟った親貞は一条松平軍の本陣へ乾坤一擲の突撃を敢行するものの、その策は事前に松永久秀に見破られていた。親貞は待ち受けていた鈴木重秀の率いる鈴木党の鉄砲の餌食と化し、馬上から崩れ落ちると痛みすら感じる暇もなく、間もなく絶命した。




◇◇◇





土佐国・岡豊城。


5月中旬、長宗我部家の本拠である岡豊城では、長宗我部家の諸将が悲嘆に暮れていた。


「よもや弥五郎が、私よりも先に逝くとはな」


中でも実の兄である長宗我部元親の哀しみは深かった。東の守りの要である香宗城を失った上に、西では次弟の親貞までも失った。三弟の親泰が元親の右腕ならば、親貞は元親の心臓であり、元親は正に心臓を撃ち抜かれた格好となった。


史実では嫡男の信親が23歳で戦死した後、覇気を一気に失い、反抗的な家臣を粛清するなど、それまでの英雄としての度量を失った元親だが、28歳の親貞の戦死は元親の精神に、史実の信親の死と同じくらい大きな衝撃を及ぼした。


しかし、ここで戦意を失うほど、元親は柔な人間ではなかった。元親は肩を落とす家臣を鼓舞し、弟の弔い合戦だと檄を飛ばしたのである。




◇◇◇




5月下旬、吉良城を落とした一条松平軍と香宗城を落とした三好軍が長岡郡の南端で合流し、岡豊城のある岡豊山の南側を包囲した。


岡豊城は土佐湾に面する香長平野の北西の岡豊山に築かれた山城で、土佐国でも最大級の規模を誇っている。長宗我部家の将兵も岡豊城の堅牢さを理解しており、元親の檄を受けて目が覚めたのか、総勢8千の軍勢を前にしても一切慌てた様子は見せなかった。


長宗我部家の軍制は他の大名家とは大きく異なり、"一領具足"という半農半兵の組織を構成していた。これは兵が普段は農民として田畑を耕す時も常に一領の具足を携え、長宗我部家から動員が掛かると直ちに駆け付けるようにする仕組みであった。


8千の兵を前にしても長宗我部軍の将兵に士気低下を招かなかったのは、その"一領具足"の軍制で培われた屈強な農兵が大半を占めていたためである。頑健な肉体で集団行動にも優れた農兵たちは精神的にもタフだったのだ。


しかし、織田信長の"兵農分離"とは真逆で、"一領具足"の兵は普段は農業に従事するため、農繁期の兵役に向いていないという欠点がある。そのため元親は長期に渡る籠城戦を行うつもりは端からなかった。


「三好と一条は所詮は一時だけ互いの利害が一致しただけに過ぎぬ。この長岡郡を奪った暁にどちらが領することになるのか。おそらくはこの岡豊城攻めでより大きな功を挙げた家が分捕ると考えられる」


「つまりは、三好も一条も功を急いでいると?」


「左様。奴らは功を競って攻め立てようが、そこが狙い目だ。両者には信頼も何もない。潜り込ませた素破に両軍が互いに裏切ったと叫ばせ、同士討ちをさせるのだ」


元親が指摘したとおり、三好家と一条松平家はお世辞にも友好関係とは言い難く、相手の抜け駆けを防ぐために同じ攻め口を攻めるなど、連携がまるで取れてはいなかった。


「はっ、すぐに命じまする」


「だが、それだけでは直ぐに勘付かれるであろう。背後に長宗我部の兵を忍ばせ、実際に裏切ったと思い込ませるのだ」


「兄上。その役目、どうか某にお命じくだされ」


「弥七郎、何を申すか。これは最も危険な任務だぞ」


「某は義父上を見捨てた身にございますれば、死ぬことは恐れておりませぬ。我が身を賭してでも長宗我部家の滅亡を避けるのが己が使命だと存じておりまする」


「……分かった。だが、万が一があってはならぬ。攻撃を行った後、お前は直ぐに本山城に向けて退避するのだ。我らも城から打って出る故、良いな」


元親は香宗我部親泰の気迫に気圧され、渋々と申し出を受け入れた。


その夜遅く、三好・一条松平連合軍の陣が寝静まったのを見計らい、親泰は50の兵を率いて敵陣に紛れ込んだ。


翌朝、岡豊城を攻め立てる三好・一条松平連合軍の陣中から突如として、長岡郡の占有権を狙って互いが裏切った旨を声高に叫ぶ素破の声が上がると、親泰は連合軍に対して攻撃を仕掛ける。


すると、連合軍の陣中に動揺が広がり、やがて恐慌状態に陥った。これを機と見た元親は岡豊城から打って出て突撃を敢行する。しかし、これは松永久秀の目論見どおりであった。わざと両家の部隊を競合させたのも、元親がそう考えるように誘導する目的だったのだ。


久秀は岡豊城から離れた場所に長宗我部の軍旗を持たせた別働隊を控えさせていた。一条松平家は三好家よりも兵数が少なく、岡豊城を落とした場合にどちらが所有するかの交渉で不利になるのは目に見えていた。


だからこそ久秀は三好軍の数を減らすため、そして長宗我部家も滅ぼすために、元親の策を助けるような真似をしたのである。全ては一条松平家が四国に覇を唱えるため、久秀はどんな卑劣な手段だろうと使う覚悟であった。


元親率いる長宗我部軍は一気呵成に突撃したものの、恐慌状態の敵軍相手のはずが一向に戦況は好転せず、むしろ劣勢に立たされつつあった。やがて岡豊城の中まで押し戻されると、長宗我部の軍旗を持った一条松平家の別働隊が岡豊城の内側から攻め掛かった。


その結果、城門が開かれると一条松平軍が雪崩れ込み、岡豊城は落城に至る。


「"恩知らず"の誹りを浴びてまで父上の夢を果たさんと努めましたが、父上、申し訳ございませぬ」


長宗我部元親は自分が松永久秀の掌の上で踊らされていたと悟り、苦悶の顔を浮かべながら自刃した。


香宗我部親泰は元親の指示どおり戦場から退避し、北の本山城へ駆けていたが、一条松平軍の追手に捕えられた。土居宗珊は長宗我部元親の遺児の千雄丸(後の長宗我部信親)と千勝丸(後の香川親和)がまだ幼いため、2人を人質として預かることを条件として、香宗我部親泰が継ぐ形での長宗我部家の存続を許し、長宗我部家を一条松平家に臣従させる。


一方、三好軍は松永久秀の謀略など知る由もなく、長宗我部軍の策略に踊らされたと信じて疑わなかった。大きな被害を受けた三好軍は長岡郡の領有権を一条松平家に攫われ、意気消沈して阿波国へ退却していった。

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