小田原征伐⑦ 一夜城と黒船襲来

相模国・小田原。


4月20日の昼過ぎ、織田信長と交わした約束どおり滝山城を攻略した竹中半兵衛が織田軍の本陣に現れた。


「三郎殿。お約定どおり滝山城を落として参りましたぞ。これで武蔵の国人衆も様子見となりましょう」


信長は破顔して半兵衛を本陣に迎え入れる。


「半兵衛。誠によくやってくれた。恩に着るぞ」


半兵衛は滝山城に守りの兵1万を残すと、残り2万の兵を率いて小田原に戻り、織田軍と合わせて5万の兵が小田原城を包囲する形となった。


そして、その日の夕方。満面の笑みを浮かべた木下藤吉郎の声が本陣に響いた。


「尾張守様! ついに城が完成しましたぞ!」




◇◇◇




相模国・笠懸山。


木下藤吉郎と小一郎の兄弟は卓越した工事指揮能力を発揮し、信長から命じられた期限どおりに、見事に笠懸山に城を完成させた。


もちろん1ヶ月半で山上に石垣造りの大きな城を築くのには無理があった。そこで、石垣を組んで土台を固め、その上に天守の骨組みを組んだ後は、長島一夜城と同じくプレハブ造りの板壁で天守を組み立てたのである。


突貫工事のため小田原城からは死角で見えない西側は壁もなく、柱が剥き出しであったが、北条家の心を挫くという目的には十分と言えるほどの出来栄えであった。


「ほぅ。僅か1ヶ月半でこれほどの城を築き上げるとは、思いも寄りませなんだ」


笠懸山に築城を提案した竹中半兵衛も、完成した城を見て感嘆の声を上げる。


「猿。良くやった。……それと、正吉郎も期日どおりに援軍を送ってくれたようだ。では、明朝が楽しみだな。クックッ」


伝令の報告を聞いて、笠懸山の山頂から相模湾の南の水平線の彼方に寺倉水軍の南蛮船2隻の姿を視界に収めると、信長はそう言って不敵に口角を上げた。



◇◇◇




相模国・小田原城。


翌4月21日の早朝。小田原城内を慌ただしく駆ける足音が響いていた。


「御本城様! 左京大夫様! 一大事にございまする!」


氏政と氏康の2人が朝餉を摂る本丸奥の居室に、焦燥の篭った男の声が突如響き渡ると、北条家の重臣である垪和氏続が駆け込んできた。


北条家の通字である「氏」の字を一族以外の家臣として唯一授かったことから分かるとおり、北条氏康の氏続への信頼は北条一門と遜色ないほど厚い。


氏続は太田資正との抗争で最前線にあった武蔵・松山城の城代を務めた後は、河東の興国寺城の城代として織田軍の侵攻に抵抗していたが、興国寺城を失陥してからは小田原城に詰めて氏康や氏政の補佐を執り行っていた。


「伊予守よ。朝早くから慌てて如何した?」


氏続がこれほど慌てている様子からして、只事ではないのは明らかだ。氏康は嫌な予感を抱きながら眉を釣り上げる。


しかし、氏康の不機嫌そうな表情に意に介することもなく、氏続は口を開いた。


「城が、笠懸山に城が建っておりまする!」


今朝の払暁、信長の命令により直ちに笠懸山山頂の東側の木々が切り倒された。斧の音が半刻ほど響いた後、小田原城に籠る北条家に見せつけるかのように、小田原城の西3kmの山頂に石垣を備えた城郭が堂々とした威容を忽然と現したのである。


「笠懸山だと? 櫓には昼夜見張りがおる。目と鼻の先の笠懸山に一夜で城が建つなど、寝ぼけた事を申すな」


氏康は飯茶碗に入った湯漬けを口に流し込むと、氏続の報告を一笑に付した。


「御本城様。某もこの目で見るまでは家臣の報せに耳を疑い申した。百聞は一見に如かずにて、どうか騙されたと思ってご覧いただきたく存じまする」


実直な氏続がそう言うと、氏康と氏政も最も信頼を置く重臣の言葉を無視する訳にも行かず、疑念を隠せない様子のまま重い腰を上げる。そして、小田原城の天守に登り、氏続が示す西側の窓に目を向けると、2人は目を疑った。


「「!!」」


2人は瞠目して言葉を失った。そこには紛れもなく立派な城が築かれていたのだ。


「な、何故、彼処に城が出来ておるのだ。昨日までは何もなかったはずであろう?」


「まさか、上杉が兵を送ってきたとでも申すか?」


「分かりませぬ。ですが、あの城を見た城兵は皆恐れ慄き、城内に動揺が広がっておりますれば、拙い状況にございまする」


氏続が小田原城内の様子を伝えると、氏康と氏政は苦虫を噛み潰したような顔を浮かべる。


「……父上、如何いたしまするか?」


歯軋りの音を響かせて考え込む氏康に、氏政がそう訊ねた瞬間だった。


――ドカーン! ドカーン!


突如、遠くで爆音が轟くと、数瞬の後に三の丸の屋敷や櫓が土煙を上げて、粉々に吹き飛ぶ光景が目に飛び込んできた。


「な、何事だ!!」


爆音がした南の窓に目を向けると、相模湾の沖には黒煙を上げる巨大な黒船2隻が映った。


「御本城様。あれは"二ツ剣銀杏紋"。噂に聞く寺倉家の南蛮船にございますぞ!」


目の良い氏続が黒船の正体を暴くと、氏康は身を強張らせた。


「織田は竹中、上杉に飽き足らず、寺倉の水軍までも呼んだと申すか!」


「父上、これでは我らに勝ち目などありませぬぞ」


「くっ、"六雄"はここまで結束が固かったか。……評定を開く。至急、重臣を集めよ!」


目眩を消すように氏康が眉間を揉むと、ふと小田原の町が炎で焼き尽くされる幻影が脳裏を過ぎった。初代の北条早雲以来、領民たちの平和と繁栄、秩序をこよなく愛する北条家一門にとって、その凄惨な光景は氏康の血の気を引かせるには十分なものだった。


半刻ほどして南蛮船の砲撃の轟音が鳴り止むと、難攻不落と謳われた小田原城の二の丸と三の丸の建物は無惨に砕かれ、廃墟と化した有様であった。




◇◇◇




緊急の評定のため、本丸の大広間に青白い顔色の北条一門と重臣たちが一堂に会すると間もなく、織田家から4ヶ月ぶりに使者が訪ねてきた。使者の用件が降伏勧告なのは誰の目にも明らかであった。


北条家の重臣たちが睨みつける中、織田家の使者は堂々と大広間の中央に座り、上座に座る2人に顔を向ける。


「拙者は織田家家臣、村井民部少輔貞勝と申しまする」


「私は北条家当主、北条左京大夫氏政だ」


「先代当主の北条相模守氏康じゃ。……して、用件を伺おうか」


双方が名乗りを挙げると、村井貞勝は懐から徐に書状を取り出した。


「此度は織田尾張守様のお言葉を伝えに参った次第にござる。では、読み上げまする。……『これ以上の籠城は無用である故、速やかに降伏すべし。明日の日没までに本陣に降伏の使者を遣わせば、北条家の存続は認めよう。もし従わぬ場合は、小田原城は本丸まで砕かれ、北条家は一族郎党討ち滅ぼす。これが最後通告である』……以上にございまする」


貞勝の凛とした声で厳しい勧告の言葉が大広間に響き渡った。


「……承った」


「確かに伝えましたぞ。では、これにて失礼いたしまする。御免」


貞勝はそう言い残し、速やかに大広間を立ち去った。




◇◇◇




貞勝が去った大広間では誰も声を漏らさず、しばしの静寂が続いた後、徐に氏康が沈黙を破った。


「……織田に降るか、それとも戦うか。決断する前に皆の考えを聞いておきたい。……左衛門佐と駿河守。まずはお主たちの考えを申してみよ」


氏康から始めに指名された武闘派の松田憲秀と大道寺政繁は顔を見合わせて頷くと、憲秀から口を開く。


「御本城様。戦わずして降るは武門の恥にございます。如何なる結果であろうとも一度は戦って一矢報い、織田に北条家の意地を見せるべきかと存じまする」


「勝敗は兵家の常と申します。玉縄城の北条孫九郎(北条綱成)殿、鉢形城の藤田新太郎(藤田氏邦)殿、さらには関東の国人衆にも決起を促せば、まだ我らが負けると決まった訳ではございませぬ」


「源三様の弔い合戦だ!」


「そうだ。北条家が織田に負けるはずなどない」


氏康の予想したとおり武闘派の2人が抗戦を主張すると、末席の若手家臣から威勢の良い発言が飛び交い始める。


「だが、あの黒船を相手にどうやって勝つというのだ!」


「二の丸と三の丸は粉々に砕かれたのだぞ!」


しかし、穏健派から現実論の声が出ると、大広間は次第に喧々囂々として議論は紛糾していった。

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