小田原征伐⑤ 滝山城の戦い

武蔵国・滝山城。


この城は、武蔵国西部の多摩川の上流の秋川との結節点付近の丘陵に、40年ほど前に築かれた天然の要塞である。武蔵守護代を務める大石家の本拠であり、規模は小田原城に次ぐ関東でも随一の堅城であった。


平将門を追討した藤原秀郷を祖とする大石家は、関東管領・山内上杉家の四宿老(長尾家・大石家・小幡家・白倉家)の一つに数えられ、代々武蔵国の守護代を務めていた。


その大石家の先代当主の大石源左衛門尉定久は、天文15年(1546年)の「川越城の戦い」で主家の山内上杉家が北条家に大敗を喫すると、主君の上杉憲政を見限って北条家の軍門に降った。


定久は娘の婿養子として北条氏康の三男・氏照を迎え入れ、大石家の家督と武蔵守護代、さらには滝山城を譲ると、自らは出家して心月斎道俊と号し、五日市の戸倉城に移って隠居した。しかし、定久は決して快く従属した訳ではなかったのである。


そもそも大石家は関東管領の山内上杉家に仕える重臣であり、北条家への臣従も御家存続のための苦渋の決断であり、自ら望んだものではなかった。そのため、北条家に降って隠居した後も、定久は居城の戸倉城から青梅の勝沼城の三田家とも通じていた。


そのため、定久と氏照は居を分けていることもあり、一年に一度、正月に顔を合わせる程度の義理の親子にはほど遠い冷え込んだ関係となっていた。定久は当然にように氏照を遠ざけ、実子の定仲を可愛がりながら、天文18年(1549年)に戸倉城で死去した。


一方、氏照は永禄4年(1561年)の長尾景虎の関東侵攻の後、滝山城の大改修を実施した。外交手腕にも秀でた氏照は実父の北条氏康から将来を嘱望され、未だ27歳と若いながらも北条家の関東支配の一翼を担っていた。


しかし、死んだ大石定久には大石播磨守定仲という元嫡男がいた。定仲からすれば、北条家から婿養子として大石家に入ってきた氏照は8歳年下の義弟ではあるが、家督の簒奪者に他ならなかった。この定仲の存在が更なる軋轢を生むことになる。


氏照は定仲を始めとする大石家一門から敵視されながらも、藤田家に養子に入った五弟の藤田氏邦とは違い、義父の定久の死後も大石一族を粛清しようとはしなかった。しかし、これが氏照の首を絞めることになる。




◇◇◇




「くっ、やはり噂通りの堅城だな」


3月15日。小田原を発った竹中半兵衛は滝山城を包囲するも、自然の地形を活かした滝山城の堅牢さに内心で舌打ちしていた。


本来ならば堅城を攻める場合は兵糧攻めにより、じわじわと敵の力を削いでいく戦術を採るべきところだったが、4月20日の笠懸山築城に間に合うように攻略してみせると、半兵衛は信長に豪語してしまっていた。だが、織田家への援軍の攻城戦で、力攻めで徒に兵を失うのは避けたいのが本音であった。


そこで、半兵衛は配下の望月党を使い、滝山城を攻略する糸口を見つけようと大石家の内情について調べるように命じた。望月党は「小諸城の戦い」で討死した望月印月斎に代わって望月家当主となった弟・望月新六郎頼盛が竹中家に臣従し、半兵衛に仕えるようになった素破集団である。


「美濃守様。滝山城主の大石源三は北条からの養子であり、先代の大石源左衛門尉の嫡男であった戸倉城主・大石播磨守は家督を奪われ、深く恨んでいるとの由にございまする」


「左様か」


10日ほどして、望月頼盛から調査報告を聞いた半兵衛は、大石定仲と大石氏照の冷え込んだ兄弟関係を知ってほくそ笑んだ。すぐさま半兵衛は、氏照を排除した暁には定仲を西武蔵の代官にすることを条件として、頼盛に戸倉城の定仲の調略を命じたのである。


その結果、定仲は呆気ないほどに籠絡された。3月31日、半兵衛は定仲と示し合わせたとおり戸倉城を攻め立てると、戸倉城はわずか1日で落城する。だが、半兵衛はわざと戸倉城の裏手に逃げ道を残すと、城兵の被害を最小限に抑えたまま、定仲率いる大石軍を滝山城へと退却させたのであった。


いくら冷え切った間柄だとは言え、定仲は氏照の妻の兄である。滝山城を守る氏照も大石家当主として定仲や戸倉城の城兵を受け入れない訳には行かなかった。もしここで大石家一門の定仲の受入を拒めば、大石家に仕える譜代の家臣たちの信望をも失う恐れがある。戦時における身内の離反は何としても避けなければならないのは当然の判断であった。




◇◇◇




「源三様、これまで義兄でありながら反目していた某を受け入れていただき、誠にかたじけなく存ずる」


4月1日。滝山城に逃げ込んだ定仲は、氏照が掛けた優しい言葉に涙を流し、感謝の念を惜しみなく告げた。もちろん、それは定仲の迫真の演技であった。


「義兄上。義弟に頭を下げるなど、水臭いであろう。我らは家族でござる。義兄上がおれば百人力にござる。大石家の危機となれば、家臣たちも一致団結して死力を尽くしてくれよう」


しかし、氏照の言葉が定仲の心に届くことはない。むしろ空々しいと定仲は冷めた目で見ていた。


「はっ、戸倉城の城兵も大石家を守るべく、最後まで全力で戦い申したが、幸いにして死者は少なく、まだまだ戦えまする。これより源三様の将兵として粉骨砕身で戦う所存にございますれば、なんなりとお命じくだされ」


「うむ、義兄上らの奮戦ぶりを楽しみにしておるぞ」


定仲はニカッと歯を見せて首肯した。しかし、氏照は気づかなかった。その笑顔の裏に潜む、密かで強かな反抗心を。武蔵守護代の家柄として、嫡男の座を奪った氏照に対する恨みが消えることはなかったのである。




◇◇◇




「播磨守様が源三様の手によって害されたぞ!」


滝山城内に叫び声が上がったのは、4月14日の太陽が落ち切ろうという逢魔時であった。当然ながら氏照は義兄の定仲を殺すなどしてはいない。城内に入った定仲配下の戸倉城の兵を決起させるため、半兵衛が密かに送り込んだ望月党の素破が声高に叫んだのである。


定仲は半兵衛との示し合わせにより、自分が氏照に殺されたとの信憑性を持たせるため、自分の夕餉に死に至らない程度の毒を入れて食すと、氏照の目の前で激しく嘔吐し、苦しみ出した。


名門の生まれ育ちで未だ27歳と若い氏照は善良な性格の持ち主であり、乱世を生き抜くための生き馬の目を抜くような狡猾さなど持ち合わせてはいなかった。戸倉城から逃げてきた定仲が自分に頭を下げた時には、ようやく義兄との関係を修復できたと内心で大喜びしていたほどであった。


しかし、定仲は武蔵守護代の宿願を果たすため、自らの身命をも危険に晒すほどの執念を見せる。定仲配下の戸倉城の兵は主君・定仲を害した氏照への怒りを露わにし、突如として滝山城の城兵に刃を向け、滝山城内では同士討ちが始まった。


一方、これを好機と見た半兵衛は、同士討ちで騒然とする滝山城に全面攻勢を仕掛ける。大混乱の渦に巻き込まれた滝山城は、竹中軍の攻撃に応戦することもできず、もはや堅城と呼べる体を為してはいなかった。


あっという間に城門を突破され、氏照は二の丸で自ら陣頭に立って指揮を執るも、焼け石に水であった。程なく二の丸も奪われ、本丸に追い込まれた氏照は、落ち延びようにも裏口も断たれたのを知る。


「誰が義兄上を害したのだ? もしや竹中の手の者の仕業か! 俺は美濃守の策にまんまと嵌められたのか! くっ、無念だ。……父上、兄上、先立つ不孝をお許しくだされ」


哀れにも義兄が自分を陥れようとしたとは最後まで知らないまま、氏照は無念に塗れながら切腹して果てた。


しかし、命懸けの芝居を打った定仲は、わざと毒を摂取して殺された芝居をすることを側近にも伝えていなかった。そのため、腹心の家臣が毒に藻掻き苦しむ定仲を見ていられず、早く主君を楽にしようと涙を流しながら定仲の首を刎ねてしまうという不運に見舞われることになる。


こうして大石家は滅亡し、滝山城は笠懸山の築城の完成を目前にして落城に至った。

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