謀神の死の波紋

豊前国・松山城。


西国の覇者・毛利元就の死。この報せは瞬く間に日ノ本を駆け巡った。


「それは真か!」


4月2日。大友家の本拠である豊後・丹生島城から出陣して2ヶ月後、大友宗麟は関門海峡を北に睨む豊前・松山城の本丸で毛利元就の死の一報に触れた。


宗麟は長年の宿敵であった毛利元就の死に歓喜に震えながらも、その一方で現実感との乖離に困惑を覚えていた。それは元就が病に伏しながらも、つい最近まで北九州の戦線で指揮を振るっていたためである。その様子から後10年はしぶとく生きるだろうと宗麟は思っていたのだ。


「よもや陸奥守が逝くとはな。謀神も人の子であったか」


毛利元就との対決で何度も煮え湯を飲まされてきた宗麟は、当然ながら元就の死を喜んだものの、戦で決着を付けることなく、病で呆気なく逝ったという事実に、武士としての敗北感を感じざるを得なかった。


宗麟は6年前の「第五次門司城の戦い」で毛利家と和睦した以降も、北九州では毛利家とは何度も戦い、元就が死んだという一報のあった現在でも小競り合いが起きている。しかし、ここ2ヶ月は九州随一の猛将である戸次道雪(立花道雪)の獅子奮迅の指揮もあり、大友軍は優位な戦いを見せていた。


というのも、毛利家が周囲の大名から圧迫を受けているからだ。「木津川口の戦い」での毛利水軍の壊滅、「明善寺合戦」における三村家の大敗に加え、「伊予合戦」でも土佐一条家に敗北を喫した。毛利家の躍進を支えた村上水軍からも能島村上家が大友家に恭順姿勢を示しつつあり、大友家にとって完全な追い風であった。


「新太郎様。稀代の謀将も病と歳には勝てませなんだな」


「大友三宿老」の一人で、義鎮の腹心でもある戸次道雪は寂し気に呟いた。そんな道雪を横目で見ながらも、宗麟は空高く光り輝く太陽を見上げた。


「これこそ天が与えた又とない好機だ。道雪、一気に攻勢を仕掛けるぞ」


「ははっ」


これまで北九州では小早川隆景が指揮を執っていたものの、伊予への援軍に派遣されてから隆景はいち早く門司城に帰還したい考えだったが、運悪く輝元が精神を病み、隆景や吉川元春は元就から当主交代を伝えられ、安芸を離れるのが難しい状況に直面していた。


その隆景に代わって北九州の戦線の指揮を執っていたのは、「毛利十八将」の一人で「第四次門司城の戦い」でも活躍し、史実では豊臣秀吉から豊臣の姓まで与えられた渡辺長であった。


長は劣勢に立たされながらも何とか戦線を維持していた。しかし、そこへ追い討ちを掛けるように毛利元就の死が伝われば、毛利軍の将兵に動揺が波及しないはずがなく、北九州の戦況は日に日に悪化の一途を辿るばかりであった。


この隙を一気に突いた大友軍の大攻勢を前にして、毛利軍の元就の死のショックは想像以上に大きく、勇将の渡辺長の奮闘も虚しく、北九州の戦線は遂に突破され、門司城は落城に至る。


毛利家はこの敗戦によって北九州における権益を完全に失う憂き目に遭い、大友家は長門国を見据えると共に龍造寺家への圧力を強めていくことになる。




◇◇◇




近江国・統驎城。


「毛利陸奥守が死んだだと?!」


紀州征伐から凱旋して間もない4月上旬、俺は植田順蔵から毛利元就の死の報告を受けて、復唱するように問い返した。


「左様にございまする」


「昨年から病を患っているとは聞いていたが、こうも急に死ぬとは思わなんだな」


「はい。それが年が明けてから2月までの間は寝込む日が多かったとのことです。それと、孫で当主の右衛門督(輝元)も同じ頃に心の病を患って部屋に籠ったままだったようで、毛利家当主には相応しくないと陸奥守が判断されたようにございます。毛利家の行く末を案じた陸奥守は重臣を集め、二宮信濃守(就辰)が自身の隠し子であると公表し、3月末に家督継承の儀を見届けて安堵されたのか、陸奥守は眠るように息を引き取ったとの由にございまする。一方、心を病んでいた右衛門督は出家して寺に入れられ、今は厳重な守りを敷かれていると聞き及びました」


二宮就辰は家臣の二宮春久の子と思われていたが、実は毛利元就の実子であるという説を読んだ記憶があるが、やはり事実だったようだ。


順蔵の報告をひと通り聞き終えた俺は、元就の死と毛利家の当主交代が整合性の取れた話だと一旦は納得したが、心に原因不明の何か引っ掛かりを覚えて、しばらく思案に耽った。


「……正吉郎様。何か、気になることでもございますでしょうか?」


「……順蔵。確かに70歳の高齢だったとは言え、陸奥守の死と毛利家の当主交代が同時に起きたのが、どうも気になるのだ。同時に起きた原因は右衛門督の病というのは分かる。だが、心を病んだため寺で静養させるにしても、前当主とは言え寺を厳重に守る必要まであるだろうか? まるで幽閉しているようではないか? 祖父の陸奥守の後援と寵愛を受けて何の不自由もなかったはずの右衛門督が、そもそも心を病んだ理由は何なのだ?」


史実で毛利輝元が心を病んだという逸話など聞いたことはない。不名誉なので記録に残されていないだけかもしれないが、30年余り後の「関ヶ原の戦い」で西軍の総大将を務めたほどの人物だ。少なくとも再起不能なほど重度の精神病という訳ではないだろう。


現在の毛利家の置かれた状況は、史実のそれとは大きく異なっている。石山本願寺を救援した際に毛利水軍が「木津川口の戦い」で寺倉水軍に敗北したのは、史実でも「第二次木津川口の戦い」で九鬼水軍に敗れているので、大した違いはないように見える。


だが、史実では一度は「第一次木津川口の戦い」で九鬼水軍に大勝している上に、敗れた時期も10年も後なので、実際は大きな違いだ。史実よりもかなり早く毛利水軍が大敗しただけでなく、何よりタイミングが悪すぎるのだ。


「木津川口の戦い」の直後に史実どおりに「明善寺合戦」で三村家が宇喜多に敗れた挙句、史実では勝利したはずの「伊予合戦」でも土佐一条家との戦に敗れ、昨年だけで痛恨の3連敗を喫した毛利家はこれまでの勢いが完全に削がれてしまったのだ。


この最悪とも言える戦況が原因で、輝元が心を病んだのか? だが、元就の死が同時となった説明が付かないな。となると、元就が輝元では戦況が好転しないと考えて、二宮就辰を当主に指名した判断が輝元の自尊心を酷く傷つけたのか? もしそうだとすると……。


「……申し訳ございませぬ。拙者には分かりかねまする」


「いや、私の独り言だ。気にせずともよい。不可解な部分が多い故、私の憶測に過ぎぬが、もしかすると右衛門督が心の病から誤って陸奥守を害したのやもしれぬぞ。その動機は十分あると考えられる」


「ま、まさか左様なことが」


滅多に表情を変えない順蔵が瞠目し、声は微かに震えている。


「寺に厳重な守りが敷かれているのは右衛門督を守っているのではなく、右衛門督を逃がさないように見張っているのではないか? もしそうであれば、心を病んだ右衛門督が何か不祥事を起こし、その咎により幽閉されたと考えられる。陸奥守の死と当主交代が同時に起きたことを考えると、右衛門督が陸奥守に危害を加えたと考えると辻褄が合う。順蔵、頼めるか?」


輝元が殺されてはいないのは、仮にも毛利家の前当主が毛利元就を殺害したとなれば、家中に大混乱を招くのが明らかだからだろう。


「はっ。すぐに調べさせまする」


さて、どんな真実が暴かれるか、楽しみだな。

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