小田原征伐④ 風魔党の調略
相模国・風魔の里。
足柄山のなだらかな中腹の山林に隠れるように風魔の里はあった。木下藤吉郎は風魔の男たちに連れられ、風魔の里の一番大きな屋敷の中に入っていた。
「其奴が俺に耳寄りの話があるだと?」
「「へい、お頭」」
縄を解かれた藤吉郎は、部屋の奥に座る中年の男の前に座らされていた。
「それで其奴は一体、何処の家の者なのだ?」
「そう言やぁ、何処の家の者かは聞いていなかったな」
「何だと! 何者か分からねえまま、里まで連れてきたのか。この戯け者が!」
お頭と呼ばれる男がドスの効いた声で配下の男たちに怒鳴る。
「「ひいぃ、すみません。お頭ぁ」」
(どうやら目の前の男が風魔の棟梁、風魔小太郎のようだな)
「あの、お頭とやら。拙者の話を聞いてはもらえぬだろうか?」
「何だと? おい、貴様。もし耳寄りの話とやらがくだらぬ話ならば、その首を叩っ斬るから、よく覚えておけ」
「無論それで構いませぬ。ですが、間違いなく耳寄りの話だとお約束しますぞ」
お頭という男が凄んで見せるが、藤吉郎は柳に風で全く怯む素振りを見せない。
「俺は風魔党の棟梁の風間出羽守と申す。風魔小太郎とも呼ばれておる。それで貴様は一体、何処の家の者だ?」
風魔小太郎とは、相州乱破の棟梁が代々名乗った名前である。江戸時代の書物には『身の丈七尺二寸(約220cm)の巨漢で、大きく裂けた口から4本の牙が突き出すなど、異様な風貌をしていると噂された』と書かれるほど世間では恐れられていた。
だが、藤吉郎の目の前の風魔小太郎は筋肉質の160cmほどの中肉中背の男で、小柄な藤吉郎よりは大柄なものの、髭を蓄えた浅黒い顔もごく平凡であった。
(噂では化け物のような風貌と聞いておったが、噂ほど当てにならぬものはないな)
「拙者は木下藤吉郎秀吉と申す。織田家の家臣にござる」
「「何っ、織田家だと!!」」
藤吉郎が危惧したとおり織田家家臣と聞いて、配下の男たちが血相を変えて立ち上がった。
「五月蝿い、お前たちは黙っておれ! それで織田家が一体、この俺に何の用だ? 我ら風魔党が北条家に仕えておるのは承知しておろうが?」
小太郎は凄味の効いた眼光で藤吉郎を睨みつける。
(なかなかの迫力だが、尾張守様の威圧の恐ろしさに比べれば可愛らしいものだな)
「では、単刀直入に申し上げる。我が主君、織田尾張守様は風魔党を"武士として"織田家に召し抱えたいとの意向にござる。どうか織田家に合力してはいただけませぬか?」
「何? 我らを武士として召し抱えるだと?」
身分の低い相州乱破を武士待遇で召し抱えるなど、思いも寄らない提案にさすがの風魔小太郎も驚きの声を上げた。
「左様。風魔党は北条家に仕えているとは申しても、下級武士からも下賤の者と蔑まれておると聞き及んでおる。ですが、織田家を始めとする"六雄"では伊賀や甲賀など、たとえ素破であろうと決して見下したりはせぬ」
「ふん。口では何とでも言えるわ」
(やはり簡単には靡かないか)
「確かに、初対面の拙者が幾ら口で信じろと申しても、信じるのは難しかろう。では、これは織田尾張守様が風魔党の待遇を約した書状にござる。これには風魔小太郎殿を甲斐国都留郡の代官に任ずること、さらに、都留郡は石高が少ない代わりに金山がござる故、金山の収入の1割を俸禄として与える旨が記されておりまする。ご覧くだされ」
「なっ、俺を都留郡の代官にするだと? それは真か?」
藤吉郎から奪い取るように信長の書状を受け取った小太郎の手は震えていた。だが、実はこの書状は藤吉郎が独断で書いた偽の書状であった。
(小太郎殿には書状の真偽など判らぬはずだ。それに内容には偽りはない故、尾張守様には後で報告すれば何の問題もなかろう)
「真にござる。これでも信じてはいただけませぬか?」
「……だが、ううむ」
(かなり揺れておるが、北条との義理を断つもうひと押しが必要か)
「小太郎殿。拙者が察するに、これまで蔑まれてきたとは言え、長く仕えてきた北条家に対する恩があって悩んでおられるかと存ずるが、いかがでござるかな?」
「……俺の心情が分かるのか?」
藤吉郎が指摘したとおり、小太郎は北条家との義理で葛藤していた。
(小太郎殿は意外と人情に篤い人物のようだな。ならば俺の得意技の出番か)
「この木下藤吉郎。義理人情に篤い小太郎殿に感服いたしたぞ。……う、うっ、ううっ」
小太郎がしばらく悩んでいると突然、藤吉郎が嗚咽を漏らし始める。
「どうした? 貴様、何故泣いておるのだ?」
「棟梁の小太郎殿が住まうこの屋敷を見れば、風魔党の暮らしが決して楽ではないのは分かり申す。……実は拙者は尾張の足軽、いや実際は貧しい百姓の出でな。この里を見て、童の頃の貧しく辛い暮らしを思い出したのじゃ」
涙声で自分の生い立ちを語る藤吉郎の目は真っ赤であった。そう、藤吉郎は泣く演技が得意であった。
「き、貴様は我らのために泣いてくれるのか?」
「小太郎殿。男衆は山賊稼業の貧しい暮らしに我慢できても、女子供や老人にはもっと豊かな暮らしをさせたいとは思われぬか? 都留郡の代官となれば斯様な山里ではなく、かつて小山田家の居城であった谷村城に住むことができよう。里の女子供も城下で楽な暮らしができよう」
「なっ、藤吉郎殿。俺が谷村城に入るだと?」
小太郎が無意識に藤吉郎殿と呼ぶようになると、藤吉郎はさらに畳みかける。
「これでも拙者は織田家の重臣でござる。では、北条家が降伏した暁には北条家を滅亡させぬよう、拙者からも尾張守様に進言するとお約束いたそう。さすれば尾張守様もきっと無碍にはされぬと存ずる。これならば北条家への義理も果たせよう。いかがでござるかな?」
「……それは真か? 誠に織田家を信じて良いのか?」
(伊豆の韮山城主だった北条助五郎(氏規)殿を捕虜としておられるのは、尾張守様に何か思惑があるはずだ)
「拙者は決して嘘など申しませぬが、拙者と共に小太郎殿が尾張守様に会い、自分の目でお確かめになれば宜しいかと存ずるが、いかがかな?」
「……左様だな。では、今日はもう遅い故、明日にでも織田尾張守様の元へ案内してくれるか?」
風魔の棟梁が自ら足を運ぶというのは、織田家に臣従する意思表示に他ならない。
「小太郎殿。喜んでご案内いたそう。ご英断かたじけなく存ずる」
「藤吉郎殿は風魔の客人だ。今宵は酒を飲み明かそうぞ」
「ご厚情ありがたくいただくといたそう」
(ふう、やれやれ。一時は冷や汗が流れたが、何とか上手く行ったな)
藤吉郎は思わず胸を撫で下ろした。
◇◇◇
相模国・小田原。
翌3月25日の昼前。織田軍の本陣に木下藤吉郎と風魔小太郎の姿があった。
「尾張守様。風魔党の棟梁、風魔小太郎殿をお連れいたしました」
「拙者は風間出羽守と申しまする」
「織田三郎尾張守信長だ」
風魔小太郎が平伏して名乗ると、信長は上機嫌で笑みを浮かべる。
「我ら風魔党を武士として召し抱え、都留郡の代官を任せるとは真にございますか?」
「左様、そのとおりだ。どうだ? 織田家に仕えてくれるか?」
「ははっ、我ら風魔党は織田家に仕えさせていただきまする」
「であるか。それと北条が降伏した暁には、一門の者に甲斐の山梨郡と八代郡を与えるつもりだ。出羽守には都留郡の代官と同時に、西の北条家と東の武蔵の監視もしてもらいたい。頼んだぞ」
信長が北条家の処遇について口外したのはこれが初めてであった。実はこの面会の前に、藤吉郎が信長に北条家の存続を懇願したことによる発言であった。
「ははっ、北条家の存続に配慮いただき、誠にかたじけなく存じまする」
藤吉郎と信長の配慮を察した小太郎は深々と首を垂れる。
「うむ、祝着至極である。猿、此度は良くやったな。褒めて遣わすぞ」
「ははっ、ありがたき幸せに存じまする」
信長から珍しくお褒めの言葉を貰った藤吉郎は、"人たらし"と呼ばれる所以の満面の笑顔を見せた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます