小田原征伐③ 藤吉郎の決死行

相模国・小田原。


3月14日。織田信長は寺倉蹊政からの返書を受け取った。内容は寺倉水軍の援軍要請に対する応諾である。


「ふむ。さすがに西美濃に接する西尾張や津島湊を要求するほど、正吉郎は厚顔無恥ではなかったな。ほぅ、西伊豆の土肥と伊豆諸島、およびその南の海域とな」


だが、正吉郎の要求は未発見の土肥の金山と太平洋側の交易拠点の確保、さらには日本平定後を見据えた小笠原諸島やマリアナ諸島などの領有が目的であり、実際には津島湊を求めるよりも遙かに強欲な要求であったのだが、信長がそれに気づくはずもなかった。


(伊豆大島は古くからの流刑の島だが、15年ほど前に大噴火があったばかりで作物は育たず、塩と魚しか採れぬ島だ。西伊豆の土肥も小さな漁村だ。何が目当てだ? ……やはり蝦夷との交易船の中継地か? ならば九鬼水軍には伊豆の下田湊を使わせれば、問題はないか)


正吉郎が予想したとおり、信長は正吉郎の対価の要求の意図を訝しんでしばし黙考したが、正吉郎の意図の一部しか分からず、結局はこの要求を承諾することにした。


しかし、その直後、返書の最後の一文に信長の目が留まる。


そこには、『北条の目と耳を奪うのが最も肝要かと存じます。故に、如何なる手段を以ってしても風魔党を調略すべきにございます』と記されていた。


風魔党。箱根の北の足柄山(金時山)一帯を根城とする200名ほどの相州乱破と呼ばれる忍びの一族であるが、足柄街道を通る商人から金品を奪う山賊稼業も生業として恐れられていた。だが、風魔党は10数年前から北条家に仕えるようになり、僅かな俸禄と引き換えに諜報や破壊活動の任務を果たすようになっていた。


(なるほど、風魔か。織田家に仕える素破はおらぬ故、風魔は是非とも欲しいところだな。北条の目と耳を奪うことができれば一石二鳥となろう)


「……吉兵衛、猿は何処だ?」


「はっ、笠懸山にいるはずかと」


「すぐに猿を呼べ!」


「はっ、畏まりました」




◇◇◇




「尾張守様。お呼びと伺い、参上いたしました」


半刻足らず後、木下藤吉郎が織田軍の本陣に駆け付け、信長の前に平伏した。


「猿。笠懸山の築城は如何なっておる?」


「はっ、今は石垣を積んでおるところですが、作業は予定どおり順調に進んでおりまする」


珍しく信長から進捗状況を訊ねられた藤吉郎は、嬉しくて満面の笑みを浮かべるが、それは僅かな時間しか続かなかった。


「では、猿。貴様がおらずとも、築城は弟に任せても大丈夫そうだな?」


「はあっ?」


(まさか、今の築城とは他の仕事を命じられるのか? 俺を殺すつもりか?)


「貴様には他にやってもらいたいことがある。北条は風魔党という相州乱破を抱えておる。知っておるか?」


「はい。棟梁は化け物のような風貌をしているとの噂を聞き及んでおりまする」


「その噂が真かどうかは自分の目で確かめるが良いわ。貴様はその風魔を調略し、織田家に臣従させるのだ。できるな?」


「えっ、風魔の調略にございますか?」


(拙いぞ。余程の条件でなければ風魔は調略には応じまい。さて、如何するか……)


藤吉郎はわざと驚いた顔を見せながら、頭の中では風魔を懐柔するための条件について、目まぐるしいスピードで思案を巡らせていた。


「ふっ、貴様は巷では"人たらし"と呼ばれておるそうだな。貴様ならば風魔が相手でも物怖じせずに交渉できよう。詳しい場所は知らぬが、風魔は足柄山中に隠れ里があるらしい。足柄山へ向かい、今月中に風魔を味方にするのだ」


「ははっ、お任せくだされ。ただ、そのためには一つお願いの儀がございまする」


藤吉郎が注文を付ける発言をすると、信長の目がギラリと光った。


「何だ? 申せ」


「風魔も人の子にございます。力で脅せば反抗されましょう。故に味方にするためには、今の北条の待遇よりも良い待遇を条件として提示すべきかと存じまする」


「猿、風魔を餌で釣ると申すか?」


(うわっ、怒らせないように言いくるめないと拙いぞ)


藤吉郎は内心で大きく震えた。しかし、努めて冷静に返答を紡ぐ。


「左様にございます。さすれば、甲斐国の東の都留郡を与え、武士待遇で召し抱えたいと存じますが、尾張守様、いかがでしょうか?」


「であるか。だが、都留郡は石高は1万8千石と低いが、金山がある。それに武蔵への街道も通る要所である故、風魔に領地として与える訳には行かぬ。……だが、風魔には任せたい仕事もある故、都留郡の代官としてならば構わぬ。俸禄として金山の収入の1割をくれてやろう。どうだ、猿。この条件で口説いてみせろ」


甲州金で有名な甲斐国には金山が多くある。都留郡にも黒川金山を始めとする金山が採掘されており、その収入の1割は数万石の石高に匹敵するものであった。


(これ以上の条件を引き出すのは無理そうだな)


「ははっ、承知いたしました。この猿が必ずや風魔を味方に引き入れて参りまする!」


「うむ。頼んだぞ」




◇◇◇




相模国・笠懸山。


「おーい、小一郎ぉー。一大事じゃあ」


「兄者。一大事とは何事ですか? 尾張守様の呼び出しは何用だったのですか?」


そう言って、藤吉郎の元に駆け寄ってきたのは藤吉郎の弟である木下小一郎長秀、史実の豊臣秀長である。小一郎は藤吉郎とは3歳年下の異父弟であるが、誠実な性格で奔放な兄・藤吉郎を支える右腕とも言える存在であった。


「それがのぅ、小一郎、聞いてくれ。また尾張守様から新しい仕事を命じられたのじゃ」


「ええっ、ですが、兄者。今は築城の真っ最中ですよ」


小一郎は至って常識人であり、築城工事の最中に他の仕事を受けるなど考えられず、見る見る間に顔色が真っ青になった。


「命じられたからには仕方なかろう。築城は予定どおり順調に進んでおる故、しばらくはここの普請の指図は小一郎に任せる」


「そんな、兄者。幾ら何でも私には無理です」


小一郎はこれまで藤吉郎の補佐役に徹してきたため、いきなり現場監督を任されても小一郎にはできる自信などあるはずもない。


「大丈夫だ。賢い小一郎ならばできるはずだ。では、後は頼んだぞ」


「そんな殺生な、兄者ぁー!」


悲鳴のような泣き言を上げる弟に別れを告げて、藤吉郎は足柄山へ向かった。




◇◇◇




相模国・足柄山。


「「「おい、止まれ!」」」


3月24日の昼過ぎ。足柄山中の狭い山道を歩く藤吉郎の前に、突如として獣の毛皮を纏い、山刀を手にした一見して山賊と分かる風体の男たちが立ちはだかった。


「貴様、10日ほど前からこの辺りの山中をうろついて廻っておるな。怪しい奴め。一体、何者だ?」


(やっと、風魔のおでましか)


「ひっ、命ばかりはお助けを。決して怪しい者ではござらぬ。拙者は木下藤吉郎と申す。風魔党の棟梁に会いに参ったのだが、足柄山は広すぎてのぉ。迷子になってしまったのじゃ。はっはっは」


(ここで織田家の者と名乗ると、問答無用で斬られる恐れが大きそうだ。何とかして棟梁の元へ連れて行ってもらわねばな)


笑い声を上げながら答える藤吉郎に、男たちは怪訝な顔を見せる。


「俺たちを前にして笑い声を上げられるとは、随分と胆の太い奴だな」


「いや、こう見えても小便をちびりそうなくらい怖いのでござるぞ。実は風魔の棟梁に耳寄りの話があってな。是非とも耳に入れたいのだ。皆の衆は風魔の者たちであろう? 殺すのなら、拙者の話を聞いてからでも遅くはなかろう。棟梁の元へ案内してはくれぬかのう?」


藤吉郎は人懐っこい笑顔を浮かべながら、男たちの中で一番偉そうな雰囲気をした男に案内を頼み込んだ。


「ちっ、胡散臭い奴だが、確かに耳寄りの話とやらを聞かずに勝手に殺す訳には行かぬな。仕方あるまい。おい、其奴の両手を縛れ。お頭の元へ連れて行くぞ」


「「へいっ、分かりやした」」


藤吉郎はようやく念願叶って風魔との接触に成功した。

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