別所滅亡と鉢屋衆

播磨国・三木城。


「皆の者、良く聞いてほしい。昨日、鷹尾山城が落とされ、我が弟は討死を遂げた」


2月中旬、依然として籠城を続ける三木城の本丸で、広間の上座に座る別所安治は悲痛な面持ちで歯を食い縛りながら、痩せ細った家臣らの前でそう告げた。


別所家は本拠の三木城を蒲生軍に包囲され、支城も全て落とされ、かつての勢威はもはや風前の灯火となっていた。戦前の別所家が毛利家の臣従の誘いを無視したことを理由に、毛利家に兵糧の支援を拒まれて兵糧も底を突き、周りには敵しかいない状況に、三木城に籠る者たちはもはや生きる希望を失いつつあり、近い内に飢死するのは必至だった。


今、別所安治の口から出た弟・別所吉親は、三木城の支城である鷹尾山城の守将であり、堅牢な守りで蒲生軍の攻勢に一切屈することなく渡り合っていた。だが、8月に行われた青田刈りにより兵糧が途絶え、飢えに苦しんだ末に鷹尾山城に火を放って死に至った。焼け跡には亡骸すら残らなかったという。


最も信頼していた肉親である吉親を失くしてもなお、一切表情を崩さない主君の心中を慮り、ほとんどの家臣は安治の顔を見ることすら憚られていたが、勇将で知られた別所吉親の壮絶な死に様に、家臣たちは嗚咽を漏らすばかりであった。


しかし、安治の決然とした声が重苦しい空気を切り裂いた。


「名門・赤松家の一門である別所家の誇りは決して潰えぬ! 今こそ我らが力を見せる時ぞ! 敵は我らの力を恐れ、今まで攻め落とそうという気概すら見せなかった奴らだ。何を恐れることがあろう。腑抜けの蒲生山城守に目に物を見せてやるのだ!」


「応ーッ!!!」


安治の死を覚悟した檄を受けた別所家中は吉親の死への怒りからか、冬の瀬戸内海に反射する光を受けて花が咲いたかのように、あるいは蝋燭の炎が消える間際に少しだけ大きくなるかのように、士気を僅かに上げたのであった。


別所安治は三好家や尼子家といった大勢力を撥ね退けてきた名将である。「別所に大蔵大輔あれば、三木は朽ちぬ」そう呼ばれるほどに家臣たちの信頼も篤かった。三好家や尼子家の大軍を撥ね退けた別所家にとって、その先例こそ最後に頼る力の源であった。


三木城には未だ7千もの精兵が残っており、2万の蒲生軍とは決して絶望的な兵力差ではない。さらに相手は蒲生忠秀だ。寺倉蹊政のように武名が轟いている訳ではない。家臣らは瞬く間に僅かな期待を膨らませていった。


(たとえ敗れようとも、別所家には寿治郎がおる。我が命が尽きようとも、別所家は決して朽ちぬ! 淡河弾正忠、寿治郎を頼んだぞ!)


盛り上がる家臣らを他所に、安治は覚悟を固めていた。無論、安治もむざむざ負ける気など毛頭ない。だが、いくら勇猛果敢な安治と言えども、兵数で不利な上に、兵糧が絶えて体力的にも劣勢な現状で、"敗北"の二文字を頭の中から拭い去ることは出来なかった。


たとえ自分が死んでも別所家の血脈が絶えることはない。その安心感とも言える事実は、安治に捨て身とも言える突撃を決意させ、明朝の未明、大手門から打って出た別所軍は、微睡みの中にあるはずの蒲生軍に奇襲攻撃を仕掛けたのであった。


しかし、別所安治の目論見は脆くも外れた。黒田官兵衛がこの奇襲を看破していたのである。昨夜、三木城から久しぶりに上った炊飯の煙に気づいた官兵衛は、別所家は出陣前の別れの宴を開いており、明朝は警戒すべきだと蒲生忠秀に進言したのである。


そして、官兵衛の予想は見事に的中し、今夜は気を抜かずに起きているように通達していた蒲生軍2万の兵は、すぐに得物を持って待ち構え、別所軍に応戦したのであった。


当初は別所安治の指揮と鼓舞を受けた家臣たちの怒涛の勢いに、蒲生軍は押されていたが、兵数で3倍近い圧倒的有利を誇っていた蒲生軍は、別所軍をわざと中陣まで誘い込むと、正面と左右の3方向から徐々に圧迫し、包囲殲滅していく。


すると、奇襲が見破られたと知った別所軍の本陣は後方の三木城内に退却し、蒲生軍は追撃する勢いのままに城内に雪崩れ込み、別所軍の将兵を次々と討ち取っていった。


敗戦を悟った別所安治は、嫡男の別所長治と三弟の別所重宗と別れの盃を交わすと、三人揃って切腹して果て、ここに戦国大名としての別所家は滅んだ。こうして蒲生家は東播磨を制圧したのであった。


◇◇◇


丹波国・八上城。


一方、八上城を包囲する浅井軍は、中丹波の国人衆に調略を仕掛けて軒並み従属させ、残すは波多野家の八上城のみとしながらも、丹波の入り組んだ山地の地形を知り尽くす波多野家は、地の利を活かした奇襲攻撃を仕掛けて浅井軍を翻弄し、八上城の攻略に手を焼いていた。


波多野家当主の波多野秀治は暗愚ではないが、文武ともに優秀とも言えない武将であった。戦で勇猛な武勇を見せる訳でもなく、平時の政も家臣らの意見から納得するものを選択し、採用するスタンスであった。


そのため、浅井長政は周囲の支城を落としつつ、八上城に降伏勧告の使者を何度も派遣し、降伏臣従による中丹波の制圧を模索していたが、波多野秀治は多数の家臣たちが主張する徹底抗戦の意見に従い、頑として降伏を受け付けず、交渉は決裂していた。


2月上旬、八上城の攻略にこれ以上手間取ると、雪解けする来月には西丹波の赤井直政が援軍を送ってきて挟撃されかねないと、本陣で焦りの色を濃くしていた浅井長政の元に、出雲の芸人を名乗る男が訪ねてきた。


「お目通りしていただき、誠にかたじけなく存じまする。拙者は鉢屋弥之三郎という者にございまする」


鉢屋衆は尼子家に仕えていた素破の集団である。関東で「平将門の乱」で反乱軍に加勢した飯母呂一族が山陰に逃れたのが鉢屋衆であり、筑波山に逃れたのが風魔衆であった。


元は鉢屋衆は祭礼や正月に芸を演じる芸能集団だったが、80年ほど前に主君の京極政経に月山富田城を追放され、浪人中だった出雲国守護代の尼子経久を鉢屋弥之三郎が援け、月山富田城の奪回に成功した。その後、鉢屋衆の棟梁は代々鉢屋弥之三郎を名乗り、鉢屋衆は尼子家お抱えの素破となり、山陰の覇者となる尼子経久の覇業を陰から支えたのであった。


「やはりその身のこなしは只者ではないと思うたが、鉢屋衆であったか。仕えていた尼子家が滅んだ今、鉢屋衆が当家に何用だ?」


「はっ、我らを雇ってはいただけませぬでしょうか?」


仕える主家を失った鉢屋衆は、新たに仕える先として浅井家に狙いを定めたのであった。


「ほぅ、毛利ではなく、当家に仕えようと申すか?」


「はっ、我ら鉢屋衆は尼子家に代々仕えて参りましたので、尼子家を滅ぼした毛利に仕える訳には参りませぬ。それに毛利には世鬼衆という素破がおりまする故、我らが虐げられるのは明らかにございまする」


「なるほど。では、鉢屋衆を武士と同じ待遇で召し抱えよう」


浅井家にはお抱えの素破集団がいない。今後対決することになる毛利元就は謀略家で有名であり、浅井家にとって諜報活動が円滑となる素破集団はどうしても必要だった。


「なっ、それは真にございまするか!」


長政の言葉に、鉢屋弥之三郎も驚きと喜びの表情を露わにした。


「うむ。浅井家には頼りになる素破がおらぬ故、鉢屋衆が仕えてくれるならば大きな力となろう」


「かたじけなく存じまする。誠心誠意お仕えいたします故、何なりとお命じくだされ」


長政は正吉郎が志能便や伊賀衆、甲賀衆を配下としているのを知っており、山陰の覇者だった尼子家を支えてきた鉢屋衆の仕官は正に僥倖であった。


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