紀州征伐② 作戦会議

和泉国・岸和田城。


2月17日の昼過ぎ。俺が率いる第1軍の本隊は同じ方向の第2軍と第3軍とは別行動を取り、統驎城から堅田水軍の船で一足早く琵琶湖と淀川を下り、津守湊からは寺倉水軍の船で移動し、統驎城を出立して3日目に紀伊との国境を守る岸和田城に入城した。


今日中には第1軍のすべての将兵が岸和田城に到着する予定で、早ければ明日にでも紀伊に向けて出陣する準備が整っていた。


さすがに5万もの大軍を率いる大大名ともなると、万が一にも流れ矢や鉄砲の狙撃で俺が討死することがあっては寺倉軍全体の敗北を意味するため、俺はもはや最前線で自ら兵を率いて戦うのは許されない身分だ。


したがって、当面は俺は本陣、すなわち全軍の作戦司令部となるこの岸和田城に籠る予定だ。俺はここ岸和田城で伝令から全軍の戦況報告を逐一受けて、的確な指示を出すのが総大将としての役割となる。


だが、俺がその役割を十全に果たすためには、情報収集と情報伝達が最も重要な生命線となる。そこで、植田順蔵、服部半蔵、三雲政持の素破の棟梁3人には正確で迅速な情報の重要性を伝えて、昨年の秋から素破を最大限に活用した諜報体制を構築させてきたのだ。さしずめ"寺倉中央情報局(TCIA)"といったところだな。


俺は岸和田城の本丸の作戦司令部とも言うべき一室に入ると、部屋の中央には長方形の大きなテーブルと周りに椅子が置かれ、そのテーブルには紀伊国の大きな地図が広げられていた。


だが、その地図は普通の地図ではない。大きな板に描かれた地図の山地の部分には糊で固めた緑色の砂が山形に盛られ、平地は茶色、海は青に塗られ、谷間の川や街道も詳細に描かれている。さらには攻略目標の主な城を示す黒い四角い駒と、味方の全5軍を示す白い三角の駒と敵軍の赤い三角の駒が配置された、いわゆるジオラマの立体地図だ。


もちろん俺が昨年の内に順蔵に指示し、素破たちに念入りに地形を調べさせて作らせた力作だが、予想以上に戦況を視覚的に分かりやすく理解できるように作られていて感心した。


「うむ、想像した以上に素晴らしい出来だな。順蔵、大儀であったな」


「はっ、お褒めいただき、ありがたき幸せにございまする」


「こっ、これは!!」


俺の後に入室した副将の明智光秀がテーブル上の立体地図を見て絶句していたが、俺は上座の椅子に腰を下ろすとすぐ、岸和田城城代の本多忠勝に訊ねた。


「平八郎、畠山は如何している?」


「はっ、畠山は雑賀衆や国人衆、金剛峯寺、粉河寺、根来寺からも援軍を得て、3万を超える兵を集めておりまする。しかし、籠城するのは厳しいと判断し、どうやら野戦にて戦う決断を下したようにございまする」


俺の到着を心待ちにしていたのか、それとも戦で戦うのが待ち遠しいのか、おそらく後者だろうが、忠勝は喜色満面で答えた。


「ふむ、賢明な判断だな。いくら3万の兵がいようとも、兵糧を確保できなければ、餓死するだけだからな。俺が畠山の立場でもそうせざるを得まいが、正直ありがたいな」


山地の多い紀伊を長年治めてきた畠山には地の利がある。本来ならば地の利のある畠山軍を相手にすれば苦戦は必至なのだが、我々には根来衆という1万もの影の味方が存在する。それを知らない畠山政尚が地の利を頼りとして野戦で戦う判断を下すのも当然の結果と言えるだろう。


だが、戦で最も時間が掛かり、将兵の損害が大きくなるのは攻城戦だ。野戦は形勢が不利になると、大抵の兵は逃げたり降伏するため、包囲殲滅されない限りは攻城戦ほど損害が大きくなることはなく、長くても数日で決着が付くのだ。したがって、短期で決着させたい俺としても、むしろ野戦はありがたいところだった。


ただ、紀州征伐で一番厄介なのは紀伊の広大な山地だ。史実では逃亡した敵兵や僧兵が山中に潜み、ゲリラ的に村に奇襲を仕掛けて食料を奪うなどして、豊臣秀吉も討伐するのに随分と手を焼いたらしい。徳川家康が紀伊徳川家を置いたのも大坂城の豊臣家の監視だけではなく、紀州征伐の残党が豊臣家と結んで蜂起するのを危惧したのだろうな。


「ですが、畠山は河内、和泉を失っただけではなく、当主2人を続けざまに失くしておりますれば、もはや紀伊守護の威光などあってないようなものかと存じまする。雑賀衆や僧兵どもは利害が一致して表向きは畠山に従っているようですが、所詮は呉越同舟なのは明らかです。奴らの仲が良かろうはずもなく、烏合の衆に"何か"が起きれば間違いなく内輪揉めにより瓦解するかと存じまする」


光秀の言葉を聞いて思い出したが、どういう経緯があったのかは不明だが、雑賀衆の土橋守重に対抗する頭領だった雑賀孫一こと鈴木重秀は、一族を連れて四国に逃げ、土佐一条家に仕官したと聞いた。史実の織田家の紀州征伐でも、二人は降伏か抗戦かの意見が衝突した結果、敵味方に分かれて戦い、土橋守重は鈴木重秀に殺されている。


今回も寺倉家の侵攻に対する対応で二人の意見が対立した可能性が大きいが、鉄砲の名手として有名な雑賀孫一こと、鈴木重秀という雑賀衆の強敵の一人が敵軍から消えたのは、いずれにしても寺倉にとって朗報だな。


一方、土橋守重の方は狡猾な男だが、あまり物事を深く考えない性格だと、津田算正から聞いているが、要は頭の悪い野卑な山賊紛いの男のようだ。その証拠に、息子の土橋泉識坊を殺したのは俺の仕業だと宣って恨んでいるそうだが、見当違いも甚だしい。泉識坊を殺したのは根来衆だ。俺は暗殺するなら泉識坊のような小物など相手にせず、もっと大物を選ぶと教えてやりたい。


「はい。畠山軍の軍議の場で土橋平次の傲慢で不遜な振る舞いにより、畠山や高野山の心証はかなり悪化しているようにございまする」


そう話したのは津田算正だ。これまでは外部とは鈴木重秀が代表して交渉を行い、粗野な土橋守重の暴走を未然に防いでいたのだろう。ところが、鈴木重秀が不在で土橋守重が表に出てくるようになり、味方の結束を高める必要のある場で、わざわざ足並みを掻き乱すような真似をしてくれるのは大変ありがたいが、やはり土橋守重は賢い男とは思えないな。


「そうか。それは我らにとって好都合だな。後は"雑賀衆が金で寝返ったそうだ"とか噂が流れれば、勝手に同士討ちを始めそうだな。太郎左衛門、できるか?」


「はっ、なるほど。承知いたしました」


そう答えた津田算正はニヤリと口角を上げた。根来衆の旗頭である津田家の一員として、父・津田算長の篤い薫陶を受けて育った算正は、紀伊の地理や事情に精通していた。


今回の紀州征伐に当たって、伏兵が潜んで奇襲を仕掛けてきそうな場所を知ることができるなど、根来衆の協力は非常に役立っているどころか、数日後には根来衆の情報提供により畠山軍の作戦までもがこちらに筒抜けになったのだ。


「皆の者、出陣せよ!!」


「「応ォォォーー!!」」


2月も下旬に入った頃、俺は畠山軍の動きを把握しつつ、他の部隊の進軍と歩調を合わせ、藤堂虎高に任せた第1軍を岸和田城から出陣させ、孝子峠を越えて紀伊へ侵攻させた。


こうして、三方、いや四方から包囲する形で紀州征伐が開始されたのであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る