紀州征伐① 出陣

近江国・統驎城。


永禄11年(1568年)2月15日。


昨年夏、一向門徒の巣窟だった石山本願寺を討ち滅ぼし、後顧の憂いを断った俺は、紀伊国を平定するため大軍を率いて統驎城を出立した。俺は今回の紀州征伐に寺倉家の全兵力に近い総勢5万もの兵を動員した。


紀伊は紀伊半島の南西部を占める広大な国だが、その9割以上が山地の森林であり、残りの僅かな海沿いの平野部や山間の盆地で収穫される米の石高は24万石しかなく、決して豊かな大国ではない。その代わりに、紀伊では昔から豊かな森林資源を活かした林業が盛んであり、朝廷の御殿や寺社の仏閣の建築には紀伊の良質の木材が提供されてきた。


しかし、紀伊国24万石の内、南紀と呼ばれる広大な牟婁郡9万石は、俺が熊野別当である堀内氏虎を臣従させたことにより、既に寺倉家の領地だ。したがって、今回の寺倉軍の目標は、残る北紀伊15万石の平定だ。


だが、北紀伊では真言宗の高野山金剛峯寺や根来寺、天台宗の粉河寺が多数の僧兵を抱えて武装し、広大な寺領を自衛していたのに加えて、雑賀衆を始めとする土豪や国人衆も軍事力を保有して各自の領地を治めていた。むしろ紀伊守護である畠山家の実質的な領地は居城・岩室城のある北紀伊南部の有田郡と日高郡の8万石だけであり、自前の動員兵力はわずか2千ほどしかないのだ。


今回、俺が総勢5万もの大軍を動員したのは、名ばかりの紀伊守護である畠山家を滅ぼすのはもちろんだが、それら寺社や土豪らの在地の抵抗勢力を討伐し、本当の意味で紀伊を平定し、支配下に置くことこそが真の目的だった。


「紀州征伐」には史実でも織田信長が10万もの兵を以って乗り出し、最終的に豊臣秀吉が平定するまで10年以上の長い年月と多大な労力を要している。さらに、徳川家康は御三家の一つに紀伊国の統治を任せたことからも明らかなように土豪らの反乱を警戒していた。


これほどまでに「三英傑」が手を焼いた紀伊の土豪や寺社は、時の権力者にも容易に従属しようとはしない一筋縄では行かない勢力であり、決して侮ることなどできなかったのだ。


もしここで寺倉家が大敗し、紀州征伐に失敗するようなことがあれば、未だ臣従していない他の大名家に対する寺倉家の武威が低下し、今後の日本平定に支障を来たす恐れがあるだけでなく、最悪の場合、既に平定した寺倉家の領内で敵対勢力や不満分子が民衆を扇動し、反乱や暴動を蜂起させる事態すら考えられる。


したがって、寺倉家にとって紀州征伐の失敗は絶対に許されないのは無論のこと、長期化も避けるべきであるため、俺は決して油断や慢心もせず、全兵力を以って短期決戦で紀州を平定する考えだ。


俺は今回の紀州征伐を短期に決着させるため、総勢5万の寺倉軍を1万ずつの5つの部隊に分け、5つのルートで紀伊に侵攻する作戦を立てた。軍勢を5つに分けたのにはもちろん理由がある。


その内3つの部隊は和泉と河内から南下するルートだが、街道は山越えの狭い道だ。もし5万もの大軍がのろのろと狭い山道を間延びして行軍すれば、畠山政尚も土橋守重も馬鹿ではない。得意の鉄砲を使った奇襲を思いつき、大きな損害を受ける恐れが大きいのだ。


残り2つの武隊は東の大和と南紀から攻め込む。和泉と河内から攻め込む第1軍から第3軍の3部隊は俺、大倉久秀、前田利蹊が率いる。大和からの第4軍は大和国代官の島清興に任せた。そして最後に、弟の北畠惟蹊が率いる第5軍が南紀から攻め込む手筈だ。北・東・南の三方から包囲する形で紀伊に侵攻する作戦だ。


だが、これだけでは史実の織田軍の紀州征伐と大差はなく、むしろ兵数では少ないため、長期戦となりかねない。そこで紀伊国の主な城の多くは海沿いに立地することから、俺は"西"からも寺倉水軍の南蛮船の艦砲射撃で海沿いにある城を砲撃させる作戦を立案した。


もちろん艦砲射撃が届かない内陸の城には大鉄砲を使用する予定だ。さらに止めに根来衆の寝返りが炸裂すれば、史実の織田軍ほど苦戦せずに短期間で制圧できるはずだと見込んでいる。


◇◇◇


紀伊国・岩室城。


紀伊国は室町幕府の"三管領"の一つである河内畠山家が代々守護を務めてきたが、畠山家は今や領国だった河内と和泉を失陥し、"名目上"の領地である北紀伊に閉塞していた


畠山家当主である畠山政尚は、たとえ実態を伴わぬ名ばかりの紀伊守護とは言えども、今回の戦に敗れれば名門・畠山家が滅亡してしまう御家存亡の危機であるため、畠山家当主として先祖代々治めてきた最後の領国を寺倉家の侵攻から守り抜こうと、背水の覚悟で固く決意していた。


しかし、紀伊一国に追い詰められた今の畠山家の兵力だけでは、数万もの寺倉軍には到底敵わないのを承知する畠山政尚は、紀伊守護の僅かな権威を最大限に活用し、領地安堵を保証して国人衆や他国に傭兵を派遣していた雑賀衆などの土豪を糾合した。


さらにそれだけではなく、これまで利害関係で敵対することの多かった金剛峯寺、粉河寺、そして根来寺の寺社勢力にも、寺倉軍に対して一致団結して共闘するよう形振り構わず呼び掛けたのであった。


「越中守、高野山を始めとする寺社の合力は間違いないのであろうな?」


寺倉軍出陣の報を聞いた畠山政尚は、腹心とも言える重臣の遊佐高清に訊ねた。


「はっ、一向宗の総本山であった石山御坊を滅ぼした"仏敵"の寺倉が攻めてくるとあって、金剛峯寺、根来寺、粉河寺のいずれの坊主たちも己の寺が焼き討ちされる末路を予想するのは難くはなかったのでございましょう。さすがに此度は先祖代々の領地を守るために戦う我ら武士と思惑は一致しており、己が信仰と寺領を守らんと全力で合力すると約しましてございまする」


これが他家の侵攻ならば、寺領は幕府から守護不入の聖域として扱われていたため、戦国時代と言えども武家による軍事力による介入は無きに等しく、これまで石山本願寺を除いて寺社が戦に関与することはほとんどなかった。


しかし、今回ばかりは"仏敵"が相手で寺自体の存続が懸かっており、今までとは事情が異なっていた。金剛峯寺や粉河寺など大半の寺社は畠山家に味方することで一致し、数千とも1万とも言われる僧兵を総動員する覚悟で、寺倉軍と対決する姿勢だった。


だが、坊主たちの欲深さはそれだけには留まらなかった。畠山家に味方して恩を売るだけでなく、畠山政尚を紀伊守護という"御神輿"として担ぎ上げ、あわよくばこの機に畠山家の領地を奪おうという強欲な目論見を腹の中に隠していたのである。彼らの望みはかつて"百姓の治める国"だった加賀国のように、紀伊国をすべて寺領として"坊主の治める国"とすることであったのだ。


一方、密かに寺倉家に臣従した根来衆だが、"表向き"には畠山家と共闘する姿勢を示したため、紀伊国のほとんどの勢力が畠山家に味方することとなり、総勢は3万を超えようかという大軍となり、畠山政尚や雑賀衆を率いる土橋守重らは意気揚々と寺倉軍との決戦を待ち構えるのであった。


だが、雑賀衆や寺社勢力との共闘に成功した畠山家ではあったが、そもそも金蔓であった堺を失陥してからは財政的に圧迫されて、報酬を支払う余力も残っていないという懐事情であった。そのため、今回の寺倉軍との戦いにおいては、動員兵力の大きい雑賀衆や高野山などの寺社勢力の発言力が大きく、共闘を主導したはずの畠山家は皮肉にも作戦の主導権を奪われてしまい、指揮命令権が統一されない事態を招くことになる。

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