土佐一条家乗っ取り③ 疑心と忠義の相剋
「いやはや左近衛少将があそこまで暗愚だとは思わなんだ。あれでは近江守殿の身が危ういぞ」
その日の夕刻、中村城の二の丸の松平党に宛がわれた一室に元松平家臣の面々が集っていた。元松平家臣たちは土佐一条家に仕え始めてから、松平家再興のための密会を事あるごとに開いていたのである。
最初に最年長の内藤正成が憤懣やる方ない様子で口火を切ると、他の面々も頷きながら呆れ果てたように溜息を吐いた。
「今日は何とか難を逃れたが、近江守殿は屋敷の一室に篭って座禅を組み、自ら動くつもりはない様子にござる。さすがは一条家の守護神。たとえ濡れ衣を着せられて主君に手打ちにされようとも、御家騒動を起こすまいと沙汰を受け入れる覚悟らしい」
「誠に美しい忠義心ではござるが、あのような暗愚な主君のために近江守殿ほどの立派な御方が命を散らすなど言語道断にござる。あまりに馬鹿馬鹿しくて、拙者は一条家に仕える気が失せてしまい申したぞ」
その後の土居宗珊の様子を素破に調べさせた鳥居元忠が伝えると、土居宗珊の態度に三河武士の信条にも通じる高潔な忠義心を垣間見たのか、若い渡辺守綱は感極まって口元を震わせていた。
「近江守殿は自分の首が飛ぶだけで事が収まると思っておられるようだが、左近衛少将は土居家の一族郎党を皆殺しにするつもりにござる。己が暗愚だとの流言で自尊心をいたく傷付けられ、相当頭に血が上ったのでござろう。暗愚なのは真の話でござるがな」
あの場では窪川俊光の諫言に従ったように見せた兼定だったが、自室に戻ってからも怒りは収まらず、兼定は側近に土居一族の皆殺しを命じており、その様子を素破が聞いていたのだ。いつになく素直に応じて矛を収めた兼定の様子を見て、怪訝に思った石川数正の機転により、配下の素破に兼定の後を追わせたのが功を奏したのだった。
「あの流言は十中八九は長宗我部によるものであろう。先月、弾正忠殿が三好と共闘して長宗我部を討つ合意をしたが、おそらく長宗我部はそれを察知し、一条家の要である近江守殿を排除しようと企んだのであろう」
「三好家に共闘を合意させた弾正忠殿も、さすがに長宗我部の動きまでは読めなんだか」
流言を長宗我部の策謀と看破した内藤正成に続いて、蜂屋貞次が松永久秀を揶揄する。
「いや、弾正忠殿は今日の事態も予想していたであろうよ。むしろ筆頭家老の近江守殿が手打ちにされれば、左近衛少将の信頼の篤い軍師役の自分が一条家の実権を手中にできるとでも考えておるのやも知れぬぞ」
「味方としては心強いのは確かだが、何とも腹の内が読めぬ恐ろしき御仁だな。松平家再興を目指す我らとは同床異夢というところだな。皆も弾正忠殿にはくれぐれも気を許すではないぞ」
「「ははっ」」
鳥居元忠が松永久秀の腹黒さの一端を看破すると、内藤正成が松永久秀への注意を促した。
「ところで新六郎殿、お主の先祖は確か美濃の出自であったな。長宗我部には美濃一色家の娘が嫁いでいたはずだが、長宗我部に伝手はないか?」
鳥居元忠から新六郎と呼ばれた男は「徳川十六神将」の一人である植村家存である。植村家は美濃国主だった土岐家の支流であり、美濃一色家とは遠い縁戚だった。長宗我部家にとって三好家と土佐一条家の両家と同時に敵対するのは自殺行為に近い。一時的にでも長宗我部家との仲を取り持てれば、土居宗珊が生き延びる術もあろうかと考えたのだった。
「美濃守(土岐頼芸)様が追放されてからは土岐家とは交流が途切れてしまい、童に過ぎなかった某は、父上が亡くなってから繋がりを持ちませぬ故、一色家中に知り合いすらおりませぬ。申し訳ござらん」
「長宗我部を懐柔することは無理となれば、我らで近江守殿をお救いする他ないな」
植村家存が申し訳なさそうに答えると、渡辺守綱は顎髭を擦りながら呟く。
「……皆の衆、我らが目指すは松平家再興にござるが、此度はまたとない好機と見るべきやもしれませぬぞ」
皆が思案に耽る中で、徐に冷徹な声を発したのは石川数正だった。他の面々は今一つ意味が汲み取れないのか、訝しげに眉を寄せた。
「与七郎殿、それは如何なる意味でござるか?」
蜂屋貞次が訊ねると、石川数正は声を落として話し始めた。
「近江守殿は家中の人望が大層篤く、一条家を差配する御方にござる故、左近衛少将が近江守殿を手打ちにすれば、毛利や長宗我部に攻め込まれるだけではなく、頼りとする大友家にも見限られ、一条家はもはや終わりにござる。一条家が滅べば、我らの松平家再興も夢のまた夢になりましょう」
石川数正がそう言うと他の面々は無言で頷き、先を促した。
「ですが、ここで我らが近江守殿を救ければ如何でござるかな? さすがの近江守殿も自分の命だけでなく、一族郎党を皆殺しにされると知れば、もはや素直に左近衛少将に従うほど愚かな犬畜生ではありますまい。我らが近江守殿を救ければ家中の信頼も得られ、反対に近江守殿を手打ちにしようとした左近衛少将の信望は地に落ちまする。そこで我らが謀反を起こし、左近衛少将を討ち、新たな当主を担ぎ上げまする。新たな当主には……」
石川数正の語る計画を聞き終わった元松平家臣たちは、遠い夢物語だったはずの松平家再興が現実のものとして目前に見え初めて、無言で視線を交わして頷き合った。
そして、松平家再興への第一歩として、まずは土居宗珊を説得して避難させるべく、鳥居元忠が土居家の屋敷へと向かったのであった。
◇◇◇
「……彦右衛門尉殿、それは真か?!」
「我が配下が一部始終を聞いておりました」
「たとえ濡れ衣であろうと、我が首だけで済むならば黙って差し出すつもりであったが、いくら殿でも一族郎党を皆殺しするとはあまりにご無体な所業だ。それが真ならば由々しき事態だ」
「天地神明に誓って、嘘偽りなどではございませぬ」
鳥居元忠の言葉を聞いて、悟りの境地に達しようとしていた土居宗珊の顔には赤みが戻り、主君への怒りを露わにしていた。
「某は新参者でございます故、家中を乱そうとしていると受け取られても仕方ありませぬが、今夜ばかりは騙されたと思って、一族郎党を引き連れて屋敷を離れて避難していただけませぬか? その結果、何も起きなければ問題はありますまい。ですが、もし某の申すとおりになった暁には……」
「……分かった。南予の戦いで功を挙げた貴殿がそれほど申すならば、今夜は一族を引き連れて避難するとしよう」
「近江守殿、誠にかたじけなく存じまする」
元忠は主君に疑念を向けるという行為に対して悔いるように歯を軋ませる宗珊に対し敬意を抱きながら、深々と頭を垂れたのだった。
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