伊予合戦① 毛利の伊予出兵

安芸国・吉田郡山城。


9月中旬、紅葉で色づき始めた吉田郡山城の毛利元就の元に、珍しい来客が訪ねて来た。


「陸奥守様、河野家の使者として来島村上家の村上太郎左衛門(村上通康)様が参られました」


「太郎左衛門殿が? すぐにお通しせよ」


村上通康は来島村上家の当主である。村上水軍は安芸と伊予の間の瀬戸内海の海運を支配する海賊であり、本拠とする島の名前から能島村上家、因島村上家、来島村上家と呼ばれる三家に分かれていた。


最も南側の来島村上家は伊予の河野家の家臣であるが、河野家当主・河野通宣は毛利元就の娘婿であった宍戸隆家の娘、つまり元就の孫娘を妻にしており、河野家は毛利家と姻戚関係を持っていた。そのため、毛利家は来島村上家とも友好関係を結んでおり、これまで援軍を頼むこともあった。


一方、能島村上家と因島村上家は毛利水軍の傘下であったが、能島村上家当主の村上武吉が「木津川口の戦い」で戦死したことにより、能島村上家は毛利家から距離を置きつつあり、毛利元就の頭を悩ませていた。


そうした状況で来島村上家の当主自らが出向いて来たと知った元就は、来島村上家が離反するという最悪の事態が脳裏を過ぎった。ここで来島村上家までもが手切れしようものなら、毛利水軍の戦力が大きく弱体化してしまい、大友家に九州の制海権を奪われ、九州の戦線が一気に悪化しかねなかった。


何としても村上水軍を繋ぎ留めておきたい元就は、村上通康を丁重に迎えたのだった。


「陸奥守殿、一別以来にござる」


「太郎左衛門殿、久しぶりであるのぅ。……顔色がちと優れぬようだが、もう歳である故、無理されるではないぞ」


村上通康とは数年ぶりの再会だったが、日焼けして精悍だった顔はどす黒い顔色で、かつての太い声は掠れて力が無く、以前の豪胆さは失われていた。


「何のこれしき、海の男はそう簡単にはくたばらぬ。それに、20も年上の陸奥守殿が申す言葉ではござらぬぞ。わっはっは」


村上通康は強がってはいたものの、実は重い病を患っており、余命残り僅かと医者に宣告されていた。しかし、通康は毛利元就と腹蔵なく話ができるのは自分しかいないと言って、主君・河野通宣への最後の奉公として使者の役目を買って出たのだった。


(明らかに無理をしておるが、よほど大事な用件のようだな。ここは下手に出るべきか)


「太郎左衛門殿、厳島では誠に世話になったのぅ」


毛利元就は通康の体調がかなり悪いのを見抜くと、10年以上昔の「厳島の戦い」の謝意を告げた。


(儂にご機嫌取りをするとは、毛利も随分と切羽詰まっておるようだな)


「某と陸奥守殿との仲ではござらぬか。大昔の事をいつまでも恩着せがましく申すつもりなどござらぬ。木津川口の敗北も勝敗は兵家の常と申す。我が来島村上家は毛利家に隔意はござらぬ故、ご案じなさるな」


「左様か。かたじけない。……では、今日は来島村上家の当主が何用でわざわざ参られたのかな?」


「うむ、今日は主家である河野家への援軍を求めに参ったのだ」


元就の懸念を払拭して安堵させた通康は、来訪した用件を明かした。


「当家に援軍を求めるとは、それほど宇都宮と一条との戦は捗々しくないのか?」


毛利家は世鬼衆という優秀な素破集団を抱えており、伊予で河野家が宇都宮家と土佐一条家を相手に戦っていることを、毛利元就も当然ながら世鬼衆からの報告で知っていた。


「実は8月に一条が西園寺家を滅ぼしましてござる」


「何? 一条が西園寺を滅ぼしただと!」


毛利元就は河野家と結んでいた西園寺家が滅んだという通康の言葉に驚いた。河野家は西園寺家と結び、宇都宮家は土佐一条家と結んでいたが、8月に西園寺家が土佐一条家の奇襲で滅ぼされる「西園寺崩れ」が起きたばかりだった。


「これまで宇都宮と一条とは戦力が拮抗してござったが、一条が西園寺を滅ぼしたことにより宇都宮と一条との兵力の差は歴然にござる。さらに一条は大友とも同盟しておる故、いずれは大友の支援を受けた一条に押されるのは明らかなれば、毛利家に援軍をお願いしに参った次第にござる」


村上通康は必死な表情で元就に河野家の窮状を訴える。


今月上旬、河野家は喜多郡の宇都宮領に攻め込んだが、宇都宮豊綱は劣勢に立たされると、同盟する一条兼定に救援を要請し、両軍は膠着状態に陥っていたのだった。


「なるほど、確か大友宗麟の娘が一条に嫁いでおったな。……河野家には儂の孫娘が嫁いでおる故、援軍を送るのは吝かではない。その代わり、太郎左衛門殿、木津川口で掃部頭殿(村上武吉)が戦死したため、能島村上家との関係が険悪になっておる故、その取りなしをしてはくれぬか?」


村上水軍の支援により「厳島の戦い」に勝利して成り上がった毛利家にとって、村上水軍との協力体制は死活問題であった。


「保証は出来かねるが、能島村上家を継いだ少輔太郎(村上元吉)は某の孫にござれば、某から少輔太郎に文を送り、因島の又三郎(村上吉充)にも毛利家との仲を取り持つよう頼んでみよう」


能島村上家の村上元吉の母は村上通康の娘であり、因島村上家の村上吉充は、史実で能島村上家と来島村上家が織田家の調略に応じた際も、寝返りを拒否した忠義の将であった。


「誠にかたじけない。ならば毛利家は河野家に援軍を送ろう。"厳島の恩返し"よ」


村上通康に厳島で大きな恩義のある毛利元就は、元より通康の頼みを断ることなどできなかったのだが、援軍の条件として能島村上家との仲裁を頼むところはさすがであった。


「ご英断、かたじけなく存ずる」


こうして毛利家から援軍の約定を取りつけた村上通康は居城の来島城に戻ると、すぐに孫の村上元吉と村上吉充に文を送った。


そして、湯築城の主君・河野通宣に毛利家から援軍の確約を得たと伝えるよう家臣に命じると、自らの役目を果たして安心したのか、9月下旬、村上通康は眠るように息を引き取ったのだった。




◇◇◇




安芸国・新高山城。


11月上旬、小早川隆景は本拠の新高山城で、河野家の使者として遣わされた来島村上家の重臣・村上吉継と会見していた。


「太郎左衛門殿は豪傑と言うべき方で、誠に惜しい方を亡くした。お悔やみ申し上げる」


「ははっ。かたじけなく存じまする」


「まだ幼い助兵衛(村上通総)殿が後を継いだと聞いた時にはどうなることかと思ったが、やはり村上水軍の棟梁の一族と申すべきか、河内守(村上吉継)殿が後見役であれば誠に頼もしい限りよ」


9月に当主の村上通康が病死した来島村上家では、息子たちの誰が後を継ぐかで紛糾したが、四男の村上通総の生母が主家の河野家の娘だったため、通総が家督を継いでいた。だが、当主となった通総はまだ7歳だったため、村上一族の協議により来島村上家の重臣で甘崎城主の村上吉継が当面の間、通総の後見役を担っていた。


村上吉継から伊予の戦況を聞いた小早川隆景は、外交辞令ながらも吉継のことを褒め称えていた。


「ですが、又四郎殿。西園寺を滅ぼした一条はさらに南予への圧力を強めておりますれば、もはや河野家の力だけで討ち倒すのは難しい状況にございまする」


「やはり伊予での一条との戦いは、我らの援軍なくしては立ち行かぬか」


伊予では河野軍は高島と鳥坂峠を挟んで宇都宮・一条連合軍と睨み合いを続けていた。高島は鳥坂峠の東に位置する一条軍の重要な拠点であり、ここを抜けば伊予制圧は優位に進むため、河野軍は鳥坂峠に陣城の鳥坂城を築き、村上吉継の奮闘もあり、一条軍の侵攻を幾度となく撃退していた。


「亡き太郎左衛門殿との約定どおり、一刻も早く毛利家の援軍をお願いいたしまする」


村上通康の死去によって毛利軍の伊予出兵は一旦宙に浮いた形となっていたが、主君の河野通宣から「至急援軍を送るよう毛利家に要請して参れ」と命じられた村上吉継は、小早川隆景のお世辞に浮かれる様子も見せずに告げた。


「左様か。確かにこのままでは埒が明かんな。……ならば、すぐに援軍に向かいたいところだが、父上の判断を仰がねばなるまい。すぐに吉田郡山城へ向かうぞ」


「はっ。誠にかたじけなく存じまする」


そう言い放って小早川隆景は立ち上がると、間もなく村上吉継を連れて新高山城を出立した。




◇◇◇




翌日、小早川隆景と村上吉継は毛利元就と会談した結果、山陽方面を担当する隆景は河野家への援軍を放棄せず、自ら援軍の大将となり村上吉継を案内役として伊予へ出陣することが決まった。そして12月上旬、援軍を率いた隆景は瀬戸内海を渡った。

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