本願寺の残影と根来衆

紀伊国・岩室城。


8月24日、岩室城を居城とする畠山政尚を始めとする畠山家中の元に、寺倉軍との「石山合戦」の結果、法主の顕如が討たれ、石山本願寺が滅んだとの一報がもたらされた。


畠山家臣たちは堅固な石山本願寺が陥落したことに驚き、次はいよいよ寺倉軍がこの紀伊に攻め込んで来ると、一様に悲壮な覚悟を固めていた。


そして、畠山家に客将として身を置く松永久秀も、石山本願寺の滅亡を知ったが、その反応は畠山家臣たちのそれとは、いささか異なるものであった。


石山本願寺の一向門徒は久秀の亡き主君・三好長慶の父・元長を殺した仇であり、法主・顕如は長慶が生涯を掛けて戦い続けた仇敵であった。寺倉家はその顕如を討っただけでなく、石山本願寺の一向門徒を根切りにしてくれたのだ。


「まるで比叡山を焼き討ちなさった孫次郎様(長慶)のようだな」


石山本願寺が三日三晩燃え続けたと聞いて、久秀はそう呟いた。


「孫次郎様の亡き後、三好家の実権を握った時にはこの儂の手で顕如を討ち、孫次郎様のご無念を晴らそうとも考えたが、三好三人衆との抗争で叶わず仕舞いであった。孫次郎様もさぞや冥土で喜んでおられることであろう」


寺倉家と畠山家とは敵対関係であったが、久秀は寺倉家に心から感謝していた。


「このまま死ねば冥土で孫次郎様に会わせる顔がなかったが、寺倉家のお陰で面目が立つことができた。寺倉家には大きな借りができてしもうたな。……さりとて今さら世話になった畠山家を裏切って寺倉家に寝返る訳にも行かぬ。だが、できれば寺倉家とは直接戦わずに済ませたいものよのぅ。さて、これから一体どうしたものかのぅ」


久秀の呟きが虚空に響き渡ると、羽根を忙しなく羽ばたかせ、数羽の渡り鳥が飛び去っていった。



◇◇◇




阿波国・勝瑞城。


「それは真か?! 本当に憎き顕如が討たれ、あの石山本願寺が滅んだと申すのか!」


「よもや石山本願寺の一向門徒を根切りにし、焼き尽くすとは……。亡き兄上のようでございまするな」


畠山家に遅れること1日の8月25日、三好長慶の子で三好家当主の三好義興と、長慶の三弟・安宅冬康も石山本願寺の滅亡の一報に接していた。


「兄上も父上の仇が討たれて、さぞやお喜びでござろう。筑前守様、すぐに父上の墓前に報告せねばなりますまい」


「叔父上、左様だな。寺倉は我らを四国に追った憎き敵ではあるが、此度だけは礼を言っておくとしよう」


二人は突然の吉報に驚きと歓喜に溢れていた。



◇◇◇



紀伊国・根来寺。


一方、8月末、紀伊国北部の那賀郡にある根来寺の僧房では、石山本願寺の滅亡を聞いた根来衆の幹部が参集し、重苦しい空気に包まれていた。


「よもや石山御坊を討ち滅ぼすだけに飽き足らず、火を放って寺内町諸共焼き払うとは、比叡山と同じ悪魔の所業ではござらぬか!」


「……我らも下手に歯向かえば、石山御坊の二の舞になりかねんぞ」


根来衆は寺倉家の所業に戦々恐々とし、寺倉家に降伏すべきか徹底抗戦するかで喧々諤々の議論をしていた。戦国時代の紀伊国北部では真言宗の根来寺や金剛峯寺、天台宗の粉河寺や、雑賀衆などの土豪・国人衆が大きな軍事力を保有して治めていたのである。


根来寺は450年ほど前に堕落していた高野山に空海の教義を復興しようとした高僧の覚鑁(かくばん)が衆徒と対立して高野山を追われ、那賀郡に創建したのが始まりである。現在は数百の坊舎と50万石とも言われる寺領を抱えて、最盛期を迎えていた。


その根来寺は根来衆と呼ばれる1万余の僧兵を擁しており、根来衆の特徴は雑賀衆と同じく鉄砲隊であった。そもそもは根来衆の津田算長が種子島に伝来した火縄銃1丁を持ち帰って複製したのが始まりであり、雑賀衆が根来衆の真似をしたと言う方が正しかった。


「寺倉は一向宗だけでなく、南蛮人の伴天連をも追放したと言うではないか。寺倉左馬頭は宗教に寛容な男ではあるまい。寺倉が日ノ本を治めるようになれば、我らが生き残る術は失われるやも知れぬぞ」


そこへ「根来一の荒法師」と呼ばれる往来右京が声高に告げると、夏だというのに部屋の温度が下がったように感じられた。往来右京は人一倍好戦的な性格で同じ衆徒の中でも恐れられ、「久米田の戦い」では三好長慶の次弟・三好実休を鉄砲で討ち取る武勇を挙げた僧兵であった。


「いや、右京殿。それが聞くところによると、実はそうでもないらしい。一向宗は民を洗脳して一向一揆を蜂起させ、キリスト教は南蛮人が日ノ本を侵略せんと企んでおるというのが、左馬頭が敵視した理由のようじゃ。伊勢長島では一向門徒を浄土真宗高田派に改宗させている故、純粋な信仰であれば何も問題ないようじゃ。……寺倉左馬頭は僅か一代で近江の国人から天下人に伸し上がった武勇に長けた武将じゃ。故に、安易に武力で寺倉に対抗しようとすれば、根来寺と言えども石山御坊と同じ轍を踏むのは目に見えておるぞ」


往来右京の言葉に冷静な口調で応えたのは、齢70を真近にした根来衆の長である津田算長だった。種子島から火縄銃を持ち帰り、津田流砲術を編み出した津田算長は、「高屋城の戦い」や「岸和田城の戦い」を目撃しており、大砲や大鉄砲を活用した寺倉軍の恐ろしさを理解していた。


すると、事前に津田算長と申し合わせていた根来寺西口の旗頭である弟・津田明算が絶好のタイミングで口を開く。


「河内、和泉を失陥して後のない畠山は国人衆を集め、背水の陣で起死回生を狙っておりまする。ならば、今こそ我らが出し抜く千載一遇の好機ではござらぬか?」


「うむ、杉ノ坊(津田明算)の申すとおり、我らと畠山や高野山との関係を考えれば、ここで寺倉に与する方が根来寺にとって吉かと存ずる。皆の衆、いかがでござるかな?」


津田算長が弟の言葉を継いで、畠山家や高野山を出し抜く案を告げた。


根来衆はこれまで紀伊守護の畠山家とは領地や水利権を巡って争った経緯があり、高野山とは根来寺の開山・覚鑁が高野山を追われた歴史があり、両者に対する根来衆の心証は決して良いものではなかったのだ。


「ふむ。確かに監物(津田算長)殿の言い分にも一理あるな。寺倉左馬頭が寺領の安堵に加えて真言宗の信仰を認めるのであれば、寺倉に与するのも吝かではない。それと粉河寺はどうするのだ?」


粉河寺は根来寺の東に寺領を接する天台宗の大寺院であり、根来寺や高野山には劣るが、やはり多くの僧兵集団を擁していた。


「捨て置け。寺倉とて、紀伊にあまり多くの寺領は認めたくはなかろう」


「それもそうだな」


往来右京が津田算長の提案に賛同し、根来衆の有力者3人の意見が一致すると、その場には寺倉家に味方するという空気が流れ始めた。


しかし、その空気を切り裂いたのは、坊主らしからぬ野太い声だった。


「我らはその話には乗れぬな」


その声の主は、根来寺東口の旗頭・土橋泉識坊であった。泉識坊は雑賀衆筆頭の土橋守重の子であり、当然ながら根来衆が雑賀衆と敵対するような計画に乗るはずはなかった。


泉識坊が立ち去るのを見届けると、津田算長は人のいない方向に向かって声を発した。


「我らの企みを聞いておいて逃す訳がなかろう。小密茶」


「ここに」


「彼奴を始末せい」


「はっ」


津田算長に小密茶と呼ばれた男が一瞬現れたかと思うと、すぐに音もなく消えた。小密茶は根来忍者の棟梁・奥大蔵の弟であり、根来最強の素破と呼ばれていた。


実は真言宗の根来衆と、一向宗や浄土宗を信じる雑賀衆との間には宗教的な対立があり、史実でも根来衆は織田信長の「紀州征伐」に加勢し、雑賀衆とは敵対した。


それ故に、さすがは根来衆の長と言うべきか、津田算長は雑賀衆は寺倉に徹底抗戦するだろうと読んで、見せしめとして泉識坊を口封じするのは初めから織り込み済みであった。有力者の泉識坊が消されれば、他の者たちも従わざるを得なくなると考えたのだ。


「我らは畠山の味方として寺倉との戦に加勢し、戦の途中に寝返る。このことは他言無用だ。もし畠山や雑賀衆に漏らすようなことがあれば、命はないと思え」


背筋が凍るような算長の冷酷な言葉を聞いた根来衆の面々は、泉識坊の末路を想像して震え上がり、声を発することもできずに、ただ頷くばかりであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る