矢作川の戦い

三河国・岡崎城西の矢作川河岸。


3月に入り、雪解けの季節を迎えると、一時休戦状態にあった「三河一向一揆」と織田軍の膠着状態が俄かに崩れ始めた。


西三河最大の拠点である岡崎城を防衛するため、矢作川東岸の守りを固めていた織田軍は、西岸の安祥城を占拠する三河一向一揆の軍勢1万5千と矢作川を挟んで睨み合いを続けていたが、3月10日、矢作川に支流の乙川が合流する河岸で、ついに両軍は激突した。


松平宗家の本拠地である岡崎城は、今は亡き松平元康の生地であり、東海有数の規模を誇る名城である。それ故に、織田家から離反して三河一向一揆勢に加勢している元松平家の旧臣たちは、松平家の象徴でもある岡崎城を奪回せんと意気込んでいた。


一方、「長島一向一揆」との戦に圧勝した織田軍は、一時は安城城の失陥によって低下させていた士気を回復させるどころか、大幅に上昇させて三河に舞い戻っていた。信長は甲斐の兵5千を西駿河の対北条家の守備に回すと、尾張の全軍に加えて、東三河と遠江、西駿河から兵を動員したことにより、総兵数は2万5千を超え、数的優位を確保しながら三河一向一揆勢の前に立ちはだかった。


しかし、安城城を失陥したことが三河の国人衆に与えた心理的影響は非常に大きかった。当初は安城城を失ってもなお織田家に従う姿勢を示して、織田軍の中に布陣していた西三河の国人衆の中で、幡豆郡を治める吉良義昭が、三河一向一揆勢が矢作川の横断を始めると同時に、突如として一際大きな声を上げた。


「名門・吉良家の兵たちよ! 今より我らは一揆勢に合力し、織田を討つ! 父祖代々の三河の地を取り戻さんと思う者は我に続けぇぇい!!」


「「「応ッ!!!!」」」


吉良家は足利氏の一門であり、「御所が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」とまで言われるほどの高い格式を誇る名門である。しかし、矢作川を挟んで西条と東条に分裂した吉良家は、200年近くに及ぶ両家の対立により松平家の隆盛と反比例するように没落し、現代ではむしろ元禄時代の「赤穂浪士」の敵役の吉良上野介の名前で有名である。


だが、腐っても鯛、落ちぶれても名門である。元松平家臣に続いて、西三河で最も名門の吉良家が寝返ったことにより、周囲に布陣する弱小国人衆も集団心理が働いて、ほとんどが吉良家に倣って一斉に離反し、一向一揆勢に寝返ったのである。


味方の寝返り。


これ以上ないほどに士気の高かった織田軍であったが、かつて「野良田の戦い」で蒲生家の寝返りによって六角家が滅亡に追い込まれたように、自陣に配置した部隊が突如として反旗を翻して味方を攻撃し始めると、さすがに大きな混乱の渦に巻かれてしまう。これにより、圧倒的な優位に立っていたはずの織田軍は窮地に立たされる。


そしてその後は、死を恐れない一向門徒たちと、御家再興に執念を燃やす元松平家臣たちの怒涛の攻撃により、矢作川東岸での戦いは熾烈を極める血みどろの乱戦と化してしまう。しかし、寝返りがあってもなお兵数に勝る織田軍は一刻半に及ぶ戦いで善戦するものの、寝返りによって自軍の陣形を崩されたのが大きく響き、劣勢を余儀なくされてしまう。


「尾張守様、いささか分が悪いかと存じまする」


腹心の丹羽長秀が信長に注進する。知略に優れる長秀は信長の軍師的な役割を担っていた。その長秀の言葉に、信長は僅か一瞬不快そうに顔を歪めた後、毅然とした口調で告げた。


「であるか。是非もなし。岡崎城に撤退せよ」


陣形の崩れた乱戦でこれ以上無駄に兵を失うのは愚策と判断し、躊躇せずに一時撤退し、岡崎城での籠城を決断したのである。


この「矢作川の戦い」の敗北によって、織田軍は寝返りと死傷者で多くの兵を失い、兵力を1万8千余りまで減らしてしまうものの、岡崎城で再戦を期して態勢を整えるのであった。


一方の三河一向一揆勢も3千余りの死傷者を出したものの、西三河の国人衆の寝返りによって兵の減耗を補い、1万5千の兵力をほぼ維持したままで、織田軍の籠る岡崎城を西側と南側から包囲するように、矢作川東岸に陣を構えた。




◇◇◇




しかし、三河一向一揆勢の内部も必ずしも一枚岩とは行かなかった。


翌3月11日。岡崎城を目前に見据えながら、寺領の拡大を狙う本證寺、上宮寺、勝鬘寺の"三河三ヶ寺"の僧侶たちと、岡崎城を奪回して松平家の再興を目論む元松平家臣たちとの間に亀裂が走る出来事が起こる。


「岡崎城を落とした暁には、岡崎城を元松平家臣に譲る代わりに、矢作川西岸の全域を"三河三ヶ寺"の寺領とさせていただく」


「空誓殿、それは如何なる了見にございまするか! 矢作川西岸の全域を要求するとは、余りにも強欲すぎではございませぬか?」


一向一揆勢は軍議を開いて今後の戦い方について話し合った後、軍議の最後に三河一向一揆を主導する"三河三ヶ寺"の一つ、本證寺の住職・空誓が突然、戦後の領地の分配案を提示したのである。


「ふっ、岡崎城を松平家に譲って差し上げるだけでも十分ではござらぬか? 元より貴殿ら松平家臣の方々は我ら一向門徒の力無しでは、織田家と戦う力などあるはずもなかったでござろう? ですが、拙僧どもは昨日の戦いにおける貴殿らの働きは十分に評価いたしまする故、こうして松平家の本拠であった岡崎城だけは譲って差し上げようと申し上げておるのですぞ。それとも、それでは不十分だと申されるのですかな?」


そこへ石山本願寺から派遣された坊官の下間頼成が、いかにも元松平家臣の足元を見たように上から目線で物言いすると、松平元康の元側近で史実の「徳川十六神将」の一人に数えられ、松平家再興の中核を担っていた鳥居元忠が腰を浮かせようとする。


しかし、その元忠の顔の前に手を広げたのは、同じく「徳川十六神将」の一人で、史実では松平家三代に仕えた強弓の名手・内藤正成であった。


「止せ、彦右衛門尉殿。ここは堪えるのだ」


「ぐっ、……済まぬ、甚一郎殿」


下間頼成の言うとおり、元松平家臣は三河一向一揆の蜂起に便乗する形で、岡崎城を奪回しようとしているのは紛れもない事実であった。ここで下手に反論して一向門徒と敵対すれば、元松平家臣の手勢は精鋭揃いとは言っても1千にも届かず、多勢に無勢で袋叩きにされた挙句に、岡崎城までも失いかねないと正成は危惧したのである。元松平家臣にとって唯一の目的は、攫ってきた竹千代を当主とした松平家の再興であり、岡崎城を失うのだけは何としてでも避けたいのが本音であった。


そのため、普段は実直で冷静沈着だが、胸の奥には内なる情熱を秘めて苦難を耐え忍ぶという、三河武士を体現したような鳥居元忠は奥歯をぐっと食い縛って、悔しさを噛み殺していた。他にもその場にいた渡辺守綱や蜂屋貞次といった史実の「徳川十六神将」に数えられる元松平家臣たちも、一向門徒ではありながらもさすがに下間頼成の物言いには一様に苛立ちを隠せない表情を見せて、拳を握り締めていたのであった。


「では、異存はございませぬな? ならば、岡崎城を早く落とすよう励みなされよ。ふふっ」


そんな元松平家臣の様子を見た空誓がニヤッと口角を釣り上げ、満足そうな笑みを浮かべると、一向一揆勢の僧侶たちは自軍の陣に戻っていった。


「松平家を再興した暁には、いつかあの糞坊主どもを根切りにしてやろうぞ!」


内藤正成は鳥居元忠の肩に手を置いて、耳元でそう呟いた。


「あぁ、耐えるのは慣れておる故、それまでの辛抱だな」


こうして、この揉め事がきっかけとなり、三河一向一揆勢と元松平家臣の間には不穏な空気が流れ始める。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る