小寺官兵衛の忠言

黒田官兵衛は史実で天下人となった豊臣秀吉の軍師として有名な武将である。その彼が小寺官兵衛と名乗っているのは、政職に仕えていた官兵衛の父・黒田職隆が小寺政職から功績を高く評価され、家老に列せられると共に、政職の養女を娶って小寺の姓と「職」の偏諱を授けられたためだ。史実で官兵衛が黒田孝高と改名するのは、秀吉に仕えるようになった後のことである。


今はこの正月で数え22歳になった官兵衛は、勇将で知られる父・職隆から家督と家老の地位を引き継いだばかりの若者であった。しかしながら、官兵衛は家督を継いだばかりにも関わらず、主君・小寺政職から知恵袋の腹心としてひと際篤い信頼を受け、政職の居室で二人切りの重大な密談の場に呼ばれたのであった。


そして、官兵衛は今、西の毛利、東の"六雄"に挟まれた現状で、どちらに与するかの重要な決断をできるだけ早く下すべきだと、主君・政職に臆せず直言したのである。


「うむ、それは重々分かっておる。私も故郷の播磨の地を無用な戦火に巻き込み、無辜の民を苦しめたくはないからの。だがな、官兵衛。この決断には小寺家の存亡が掛かっておる故、どちらに従うべきなのか、儂にはどうしても決心が付かぬのだ」


真っ先に民への配慮を口にする政職は温和な性格で、争いを好まない当主であった。播磨の領民のことを第一に考えて善政を敷き、民からも慕われており、篤い忠誠を示す家臣にも手厚く報いて、小寺家臣団は政職の下で固く団結していた。


政職は居城である御着城を補強し、敵の侵攻に備える一方で、小寺家の最大版図を築き上げたが、これは政職の手柄というよりは、官兵衛の父・小寺職隆を始めとする家臣たちの奮闘のお陰と言った方が正しかった。しかし、政職は有能な人材を見抜く優れた人物鑑定眼の持ち主であり、その慧眼によって登用した適材を適所に配置することによって、善政を行ってきた優れた大名であった。


しかし、政職の生来の温厚な人柄は重大な決断を必要とする局面では優柔不断となって悪い方に作用し、徒に決断を先延ばしにしていたのである。政職は脂汗を額に滲ませながら、腕を組んで黙り込んでいる。


(やれやれ、主様は不惑も間近だというのに、惑ってばかりだな)


40歳目前の政職の優柔不断な様子を目の当たりにして、官兵衛は内心で呆れを覚えながらも冷静な声色で告げた。


「加賀守様、小寺家の当主たる御方がそのような煮え切らぬ態度をされては、家臣も動揺してしまいまする。もっと泰然自若となさるべきでございます」


「左様であったな。では、官兵衛ならば如何する? 参考までに聞かせてはくれぬか?」


結局、政職は藁にも縋るような思いで信頼する官兵衛に意見を求めた。しかし、家督を継いだばかりの弱冠22歳の官兵衛では、40歳近くで白髪が目立つようになった政職が頼るには、少々経験が足りないのではないかとも思えた。


だが、それでも政職は官兵衛に篤い信頼を寄せており、視線を動かすことなく官兵衛の目をじっと見つめて真摯に意見を求めたのである。判断の参考材料として聞いている体裁ではあるが、実質的には官兵衛に判断を委ねているのは一目瞭然であった。


(参ったな。俺の意見で小寺家の命運が決まりかねないな。だが、だからと言って、今さら結論が変わることもないがな)


「承知いたしました、加賀守様。私ならば、迷わず"六雄"に与しまする。その理由は幾つかございまするが、まず第一には両者の勢力の差にございます。山陽・山陰をほぼ制覇した毛利家ではございますが、大きく見積もっても領地の石高は130万石ほどにございます。一方、対する"六雄"の蒲生家は80万石余り、浅井家に至っては170万石を有し、両家を合わせれば毛利のほぼ倍でございまする。仮に浅井と蒲生が毛利相手に苦戦したとしても、四国には間もなく"六雄"の筆頭、寺倉家が進出するでしょう。寺倉の石高は200万石もございますれば、寺倉が四国から合力すれば毛利の勝ち目はまずございませぬ」


政職は官兵衛の理路整然とした話に大きく頷きながら聞き入っている。


「さらに2つ目の理由は、毛利は背後の九州に大友や龍造寺といった敵対勢力を抱えており、西の備えが必要にございまする。それに対して、浅井や蒲生、寺倉の背後は"六雄"の織田、竹中、上杉でござれば東の備えは要りませぬ故、全兵力を西に向けることが可能でございまする。これだけを考えても、戦力的に"六雄"が有利なのは一目瞭然にございましょう」


政職は「ほぅ」と感心したように声を漏らした。


「最後に3つ目としては、毛利の乞食若(元就)殿の寿命にございまする。昨年の夏には月山富田城を包囲している陣中で乞食若殿は体調を崩し、京から急ぎ名医の曲直瀬道三殿を呼び寄せて治療させたと聞き及んでおりますれば、既に古希を迎えた乞食若殿がいつまで生き永らえるかで毛利の状況は大きく異なりましょう。もし乞食若殿が3、4年の内に亡くなるようなことがあれば、たとえ吉川・小早川の両川が若い少輔太郎(輝元)殿を支えたとしても、毛利の勢威が衰えるのは避けられないかと存じまする」


(元就は安芸の国人から山陽・山陰の覇者にまで這い上がった名将だ。こと謀略においては俺の一手も二手も上を行く恐ろしい存在だ。だが、その計り知れない力ゆえに、元就が死ねば毛利家中は大きく動揺し、衰退が始まるのは間違いない)


官兵衛が毛利元就を怖れるのも当然である。下手をすれば逆に"六雄"をも飲み込んでしまうのではないかという考えまで頭を過ぎらせるほどであった。年齢が古希を迎えてさえいなければ、官兵衛も毛利への従属を忠言していたかもしれなかった。


「なるほどのぅ。……相分かった。では、当家は"六雄"を頼ることにする」


「お言葉ですが、加賀守様、他の重臣の方々からも意見を聞かなくても宜しいのですか?」


「なぁに、お前が申したと言えば、皆も納得しよう。それに、お主の申すとおり"六雄"を頼った方が民を守ることになろう。毛利は"百万一心"などと大言壮語しているが、あれはただ民に苦難を強いておるだけだ。むしろ"六雄"の筆頭、寺倉家の民を豊かにさせようという統治方針の方が私の考えと似通っておる故、よほど信用できよう。蒲生家からは従属を促す文も届いておる故な」


政職はこと民のためとなれば、喜んで命を投げ出せるほど、民を慈しみ、遍く慕われた大名であった。語気を強めて決断の理由を語る政職を見て、官兵衛は口許を緩めた。


「左様にございまするな、加賀守様。では、この私めを使者にお命じくだされ。北摂津の蒲生家に行って、従属を申し伝えて参りまする」


摂津の蒲生家は播磨と領地を接して距離も近いことに加え、当主の蒲生忠秀は誠実で裏表のない人柄だという評判で知られており、"六雄"の中でも最も与し易いと考えた官兵衛は、蒲生家への従属の使者になる旨を伝えた。


「相分かった。お主に全て任せよう。宜しく頼んだぞ」


「ははっ」


こうして翌日、官兵衛は小寺政職の記した臣従を約する書状を持って、数人の護衛と共に御着城を後にすると、すぐさま馬首を東に向け、北摂津の滝山城へと向かった。

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