西国の動向と小寺家
玲鵬城に到着してから伊賀は例年以上の大雪に見舞われ、俺は温泉に入り浸っていたが、数日後、俺は光秀から神妙な面持ちである報告を伝えられた。
「昨年末の遠征中に、山陰の尼子家が月山富田城で毛利家に降伏し、滅亡に至ったとの由にございます」
光秀が告げた報告とは、かつて山陰・山陽で8ヶ国を領し、中国地方最大の版図を築いていた尼子家が、昨年11月21日、毛利元就の猛攻についに屈し、滅亡に至ったという内容だった。
「あの尼子が滅んだか」
火鉢で暖房している部屋の中にひんやりとした空気が流れたような気がするが、俺は冷静な口調を崩さずに反芻した。 月山富田城は170年間、尼子家6代の本拠となった戦国時代屈指の名城であり、史実ではその月山富田城を舞台として2度の有名な「月山富田城の戦い」が繰り広げられたのだ。
「第一次月山富田城の戦い」は1542年、名将・尼子晴久の指揮の甲斐もあり、大内家の侵攻を撃退するだけでなく、勢力の回復を果たして尼子家の最盛期を築き上げた。対する大内家当主の大内義隆は寵愛していた養嗣子の大内晴持をこの戦で失ったことから政治への興味を失った。この戦いは大内の衰退と尼子の勢力拡大の転換点となる大きな戦いだった。
そして一昨年から始まった今回の「第二次月山富田城の戦い」は、大内に謀反を起こした陶を滅ぼして勢力を伸ばした毛利との中国地方の覇権を巡る抗争であり、石見銀山を巡る争いが端緒となった戦だった。5年前に尼子晴久が死去し、嫡男・尼子義久が家督を継いだが、尼子家中には動揺が走り、「雲芸和議」によって石見銀山を毛利に譲渡する条件が家中に蔓延っていた不満を爆発させてしまった。
その結果、尼子側の出雲国人衆の多くが離反し、尼子優勢だった形勢が一気に毛利側へと逆転した。この辺りは毛利元就お得意の調略と謀略の真骨頂と言えるのだろう。そして、尼子は「白鹿城の戦い」で敗れたことにより、1565年には月山富田城は補給線を断たれてしまい、ついに月山富田城は孤立した。その絶望的な状況において1年以上に渡って尼子が毛利軍の包囲に耐えられたのは、山陰の覇者たる矜持によるものだったのだろう。
史実では、毛利元就は尼子義久と弟たちを助命して寺に幽閉し、尼子家は御家断絶は免れたが、今回の戦で大名としての尼子家は事実上滅亡した。山陰の覇者だった尼子の滅亡を知って、光秀や護衛の慶次はかなり驚いているが、俺が史実を知っていたために至って冷静なのを見て、二人は怪訝な顔をしている。
「正吉郎様は驚かれないのですか?」
「まあな。一昨年、白鹿城で敗れた尼子は補給線を断たれた故、いずれ滅ぶのは時間の問題だと思っていたからな。正しく栄枯盛衰そのものだな。寺倉家も尼子のようにならないように気を引き締めねばな」
「誠に左様でございますな」
光秀が神妙な顔で応えると、慶次も頷いている。
尼子の滅亡によって中国地方の勢力図は大きく塗り替えられた。毛利が大内に続いて尼子をも飲み込んだことで、100万石を優に超える大大名になったのだ。毛利家中は吉川と小早川の両川を中心に固い結束を誇っている。毛利元就は戦国時代随一の謀将だ。手強いどころか油断すれば、こっちが飲み込まれる恐れもある。
だが、毛利とは戦わずして臣従させることはほぼ不可能だと言っていい。それどころか四国の三好や長宗我部と結んで、"六雄"に徹底抗戦を挑む可能性だってあり得るのだ。そうなれば厄介どころの話ではない。毛利との戦いが長期化すれば、四国や九州の勢力が毛利に味方して泥沼化しかねないため、何としても長期化は避けたい。ここは浅井や蒲生と協力して、足並みを揃えて山陰、山陽、四国に攻め込むべきだろうな。
それと、この余波は山陽の播磨や備前、美作にも及びそうだ。播磨は赤松、別所、小寺などの小勢力が乱立し、混沌とした状況となっている。隣の備前と美作には赤松の元家臣だった浦上が下剋上を果たして最盛期を迎えている。因みに暗殺と謀略で悪名高い宇喜多直家が浦上を乗っ取るのは、史実では天正3年(1575年)でもう少し先のことだが、この世界ではどうなるかは不明だ。
山陽の播磨は群雄割拠で大勢力のない地域なので、毛利の目がここに向くのは間違いない。尼子が滅びた今、播磨の小勢力はかなり焦っているだろう。史実で織田信長に助けを求めたように、蒲生や俺の所に助力を求めて来るかもしれないな。毛利と蒲生、浅井という大大名同士の板挟み状態になった播磨は、両陣営にとって美味しい草刈場と言えるだろう。ここを掌握すれば、対毛利戦が一気に優位に進むに違いない。
一方、四国では、阿波に撤退した三好はすぐさま土佐東部に侵攻し、安芸を滅ぼしたそうだ。正に電光石火とも言える侵攻で、安芸は為す術もなかったらしい。さすがは四国の覇者・三好だ。小勢力が相手ならば、すぐに飲み込んでしまうくらいの地力はあるな。
だが、この後の長宗我部との争いは三好にとっても鬼門だろう。三好が安芸をあっという間に滅ぼしたことで、長宗我部も次は自分が標的だと察して、三好への警戒を一層強めており、両者は睨み合いを続けている。長宗我部は石高では三好に劣るが、勢いのある強敵であり、三好にとっても予断を許さないはずだ。今、三好は水面下で長宗我部の家臣に調略を仕掛けているところだろう。
俺としては、願わくば長宗我部と三好に潰し合ってもらい、力を削がれたところを漁夫の利で攻め取りたいのだが、毛利も伊予を狙っているので、毛利が四国に進出する前にどうにかしたいところだ。だが、四国を攻める前に、まずは田植え後に畠山征伐を再開し、畠山に勝利した後で石山本願寺を滅ぼさないことには話は始まらない。畿内の覇者となっても、西国を平定して日本全国に安寧をもたらすにはまだまだ時間が掛かりそうだ。
もうしばらくは畿内の戦は終わりそうにないから、市にまた心配を掛けてしまうな。俺は再び気を引き締めて虚空を仰いだのだった。
◇◇◇
播磨国・御着城。
正吉郎が明智光秀から尼子滅亡の報告を聞いていた正にその頃、正吉郎の予想どおりとでも言うべきか、西播磨の大名・小寺家の本拠である御着城では、当主の小寺政職が重大な岐路に立たされていた。
播磨国では戦国時代当初は、室町幕府で京極氏・一色氏・山名氏と並ぶ四職の一家として幕政に参画した播磨守護の赤松家が最も強い勢力を持つ大名であったが、その庶流で東播磨を治める別所家や守護代の浦上家が下剋上により次々と独立を果たし、群雄割拠となっていた。別所家や浦上家が台頭した結果、赤松家の勢力が次第に衰退していく中で、赤松氏一門の宇野氏の庶流で赤松家重臣である小寺家は、主家の赤松家に従って長く従軍していた。
小寺家は元は赤松家から姫路城城主を任されて本拠としていたが、50年ほど前に政職の祖父・小寺政隆が新たに御着城を築いて本拠を移していた。その後、政隆の子の小寺則職は播磨国内での数々の戦いを制して勢力を拡大し、小寺家を西播磨の有力勢力に成長させ、20年前に子の政職が家督を継いでいた。
その小寺政職が居城とする御着城は、別所家の三木城、三木家の英賀城と並んで「播磨三大城」と称された名城であり、城内に山陽道や城下町を取り込んだ惣構えの平城であった。そして今、その本丸の居室で政職は、毛利が尼子を滅ぼして一躍、中国地方の覇者に躍り出たことにより、御家の命運を左右しかねない今後の方針について悩みに悩んだ挙句、腹心の家臣を呼んで相談することにした。
「官兵衛。今は儂とお主だけしかおらぬ。小寺家が生き残るためにはどうすれば良いか、忌憚なく思うところを申してみよ」
「はい、加賀守様。尼子が滅びた今、次に毛利の目が向くのはこの播磨に間違いございませぬ。毛利に従うか、"六雄"に付くか、それともあくまで独立を貫くか。小寺家当主としてお決めにならねばなりませぬ。決断を先送りすればするほど、不利になるだけにございまする」
主君・政職に堂々と諫言するこの男こそ、小寺官兵衛祐隆、史実の黒田官兵衛孝高、その人であった。
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