長島城の戦い①

尾張国・清洲城。


「ほぅ、正吉郎から長島に援軍を出してくれ、とな?」


「左様にございまする」


12月15日の昼頃、大広間にて織田信長が正吉郎からの手紙に目を通すと、北畠惟蹊が正吉郎の使者として信長に長島への援軍を要請していた。


「三河でも一向一揆が起こっておるのを承知の上でか?」


信長がギロッと目を光らせて威圧するが、惟蹊はビクともしない。


「無論にございます。ですが、今は三河の一向一揆とは一時停戦の状況にございます故、先に津島の町を狙う恐れのある長島の一向一揆を両家が合力して叩き潰し、それにより織田家中の兵の士気を上げるのが得策であろうと兄は申しておりまする。また、よもや『焼津の戦い』の援軍の約定を違える義兄殿ではないとも申しておりました」


「……クックク、相分かった。この織田三郎尾張守信長。義弟との約定を違えるような尻の穴の小さい男ではないわ。長島の一向門徒どもを根絶やしにしてくれようぞ!」


信長としては長島に援軍を送るのは正直辛いところではあったが、確かに正吉郎の手紙にあるとおり万一、長島の一向一揆勢に津島を奪われでもすれば、織田家は東西から一向一揆に挟まれて窮地に立たされることになる。それを阻止するには援軍を出すしか手はなく、また約定を違えることは"長兄"としての信長のプライドが許さなかったのである。


「ははっ、誠にかたじけなく存じまする」


こうして、信長は寺倉家の援軍要請を受諾すると、自ら尾張の兵1万を率いて長島に出陣する。これにより総勢4万に達した寺倉・北畠・織田の連合軍は、「長島一向一揆」への圧力を強めていくことになるのであった。


◇◇◇


12月18日の朝。織田信長自ら率いる1万の兵を加えた寺倉・織田連合軍4万の軍勢は、西から北畠、東から織田、南は志摩水軍、そして北から寺倉、と長島の輪中地帯を包囲する形で布陣した。


長島城は10以上ある輪中の中でも南寄りの大きな輪中に位置する城であるため、長島城に攻撃するには当然ながら川舟を使って、河口では川幅が合計3km以上にもなる木曽三川を渡って輪中に上陸しなければならない。


しかしながら、4万もの大軍が四方から同時に輪中に攻め込んだものの、やや緻密さを欠いた戦術に加えて、各隊の連携の少ない強引な渡河であったために、川舟での横断中に輪中の一向門徒から弓矢や投石で攻撃されるなどして、輪中への上陸には想定外の時間を要してしまう。それに加えて、長島の輪中の岸には洪水を防ぐため3m以上の高い堤防が周囲に築かれているため、上陸可能な場所が限られており、その場所に上陸しようとすれば、待ち構えていた一向一揆勢にたちまち取り囲まれて袋叩きにされるという始末で、上陸作戦はものの見事に失敗した。


この長島城攻略作戦の失敗によって、寺倉・織田連合軍は八方塞がりの状況に陥ったのである。




◇◇◇




翌12月19日の午前、このままでは埒が明かないと考えた俺は、寺倉軍の重臣と織田軍の諸将を招集し、制圧した桑名の町で作戦会議を開くことにした。


織田家の諸将は織田信長の他に、丹羽長秀、柴田勝家、森可成、佐久間信盛、滝川一益、河尻秀隆、佐々成政、金森長近、池田恒興、九鬼嘉隆と錚々たる面々が並んでおり、寺倉家の重臣の中には、明智光秀、前田利蹊、藤堂虎高、滝川利益といった顔もあるので、さしずめ史実の織田家重臣のオールスターキャストといった感じだな。


「昨日の長島城の攻略は不首尾に終わり申した。このまま同じことを繰り返しても徒に兵を失うばかりにございまする故、本日は長島城を攻略する策を練りたいと考え、皆様方にお集まりいただき申した」


「うむ、正吉郎。俺もよもや長島の守りがあれほど堅いとは夢にも思わなんだぞ。手抜かったわ」


「三郎殿。4万の兵で一斉に攻め込んでも攻略の糸口が見えないとなると、まずは橋頭保を築いて、そこを足掛かりにして攻め込むのが上策かと存じます」


「正吉郎、橋頭保とは何だ?」


「たとえば堅牢な山城を攻める場合には、本城の前にまず支城を落とします。その支城も手強い場合に、支城の側に付城を築いて支城を攻め落とす策がございます。橋頭保とは、この付城に当たるものでございます」


「なるほど。確かに我らが多くの輪中を別々に攻めて、上陸の際に一向門徒どもに袋叩きに遭うよりも、どこかの輪中に付城、いや橋頭保を築いて、そこを足掛かりとして隣の輪中に攻めていくのが確実であろうな。だが……」


「はい、どうやってその橋頭保を築くのか、が問題かと存じます」


「その案はあるのか?」


「それは……今、思案しておるところにございます」


信長の鋭い眼光に射抜かれた俺は言い篭る。


「ふっ、その策があるのなら初めからここまで苦戦してはおらぬな。正吉郎でさえも考え付かぬのならば是非もなし。……貴様ら、何か考えはないか?」


信長は小さく溜息を吐くと、緊迫した場の空気を僅かに弛緩させた。長島を数の力で押し切って攻め落とすのは不可能だと察したのだろう。心なしか、目の下には僅かに隈が伺える。信長も「三河一向一揆」の蜂起と、昨日の完敗に相当なフラストレーションが溜まっているに違いない。信長にしては饒舌に思えるほど普段よりも口数の多く、その言葉からは、どこか達観したようなものを感じさせた。


織田家の諸将は信長からいきなり策はないかと振られて、皆あからさまに面食らって狼狽えていたが、部屋の端からおずおずと発言する声があった。


「……あのぅ、川の水を堰き止めたり、川の流れを変えたり、洪水を起こしたり、輪中を守っている川を逆に利用して、敵の意表を突く策を行ってはいかがでございまするか?」


「猿よ、今は如何にして橋頭保を築くかという大事な話をしておる時に、洪水を起こすなど、出来もしないことを申すではないぞ」


「左様、分不相応にも余計な口を叩くではないわ、禿鼠め!」


柴田勝家と佐々成政が怒って罵声を浴びせた相手に目を向けると、末席に座る猿顔の小男が目に入った。その時、その男は俺と目が合うと、満面の笑みを浮かべて徐に頭を垂れた。その日焼けして額が禿げ上がって老けた顔立ちで、それでもどこか人懐っこく惹きつけられる笑みに、俺は直感する。


間違いない。木下藤吉郎だ。史実の「三英傑」の一人で後の豊臣秀吉だ。


秀吉といえば百姓から天下人になった戦国一の出世頭で、下剋上の象徴とも言える武将だが、なるほど、秀吉が柴田勝家や佐々成政と仲が悪かったのは、やはり事実だったのだな。どうやら秀吉よりも勝家や成政の方が百姓出の秀吉を見下して、一方的に嫌っている感じのようだな。


よく考えれば、先ほどの秀吉の"川の水を堰き止めたり、川の流れを変えたり、洪水を起こしたり"という発言は、「備中高松城の水攻め」のアイデアそのものだな。俺は秀吉の史実の経歴に思いを馳せてみると、一つの出来事をふと思い出した。


――墨俣一夜城。


洲股(墨俣)は岐阜の南にある長良川の支流の合流地点であり、その洲股にある一色家の砦跡は、稲葉山城の攻略を目指していた織田信長にとっては、何としてでも奪いたい要衝の地だった。そこで、佐久間信盛や柴田勝家ら重臣が墨俣の砦を奪おうと何度も攻め掛かるのだが、長良川を渡るのに時間が掛かっている間に稲葉山城から軍勢が到着してしまい、洲股の奪取に失敗してしまう。


そこへ名乗りを上げた秀吉が、川並衆を率いて長良川を使って木材を運び込み、砦跡を短期間で修築して天然の要害たる"一夜城"を築いて、織田家の稲葉山城攻略の橋頭保となるという一大イベントだ。


尤も"一夜で城を築いた"というのは後世の創作で、実際は3日から7日掛けて既存の砦跡を修築したとする説が有力だが、一方で秀吉が出世する端緒となった有名な出来事だとも言われている。


だが、この世界では竹中半兵衛が信長よりも先に稲葉山城を攻略してしまったので、史実の「墨俣一夜城」のイベントは起きていない。そのために秀吉も史実よりも出世が遅れて、身分が低いままのようだ。そこで、俺はその「墨俣一夜城」に着目した。


俺は周りに気付かれないように緩む口許を隠しながら、徐に口を開いた。

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