北畠惟蹊の焦燥
11月末に堺で長島と西三河で一向一揆が起きたとの報せを受けて行われた寺倉軍の軍議で、正吉郎は「長島一向一揆」を鎮圧すべく和泉国の制圧を一旦延期し、寺倉軍本隊は堺の町と高屋城に押さえの兵を一部残して、陸路で長島に向かうことを決断した。
しかし、堺からは大和と伊賀の山道を越えての行軍となり、桑名郡に到着するまで早くても7日は時間を要するため、正吉郎は弟の惟蹊に北畠軍は志摩水軍の船で先行して帰還し、前田利蹊が守る松山城の援護に向かうように指示したのであった。
12月2日巳の刻(午前10時)、師走に入っても比較的温暖な伊勢国の安濃津湊に、伊勢国主・北畠惟蹊率いる北畠軍が志摩水軍の船で到着した。惟蹊は安濃津城で半年前に生まれたばかりの娘・
その日は神戸城で宿泊し、翌12月4日の夕方、惟蹊率いる北畠軍はようやく松山城に到着したのであった。
◇◇◇
「又左衛門殿、よくぞご無事で。到着が遅くなって申し訳ございませぬ。一向一揆勢は如何なりましたのか?」
「おぉ、伊勢守様、後詰いただき、誠にかたじけなく存じまする。ですが、一向門徒どもは先ほどの雨の中で奇襲を仕掛け、半分ほど討ち取って蹴散らしたところにございまする。わっはっは」
「何と、真にございますか! 僅かな城兵で一向一揆を打ち破るとはさすがは"槍の又左"殿ですな。兄上も又左衛門殿の活躍を知れば、必ずや喜ばれるかと存じますぞ」
松山城は今回の戦いによって堅牢な城壁が所々壊され、大雨によって城山の斜面が一部崩れて、城に至る大手道が土砂に埋もれてしまい、痛々しい傷跡を残していた。それに加えて、松山城の城兵は3日に及ぶ張り詰めた緊張の糸が切れたように疲れ切った様子で、ほとんどの城兵が手傷を負っていた。
惟蹊は前田利蹊が一向一揆勢から寡兵で松山城を守り切り、さらには一向一揆勢に甚大な被害を与えたと知り、北畠軍は松山城の城兵を労うべく、松山城に入城したのであった。
しかし、援軍で到着したのがあの寺倉家当主・寺倉蹊政の弟だと知ると、城兵は満身創痍で疲労困憊の様子は何処へやら、子供のように目を輝かせながら惟蹊の元に近寄って行き、惟蹊は瞬く間に歓迎の渦に巻き込まれていた。
「皆の者、よくぞ一向一揆の大軍から3日の間持ち堪えてくれた。我らが来たからには、もう安心して良いぞ。今宵は飯と僅かながら酒もある故、皆で今日の勝利を祝おうぞ!」
「「おおぅー!!」」
惟蹊が城兵に労いの言葉を掛けると、嬉しそうに涙まで流す始末であった。早速、北畠軍が運んできた兵糧や酒でささやかな宴を開くと、戦勝の喜びを分かち合うのであった。
◇◇◇
一方、石山本願寺から派遣された「長島一向一揆」の指導者である下間頼旦は、「松山城の戦い」でまさかの大敗を喫して、長島城に退却したものの、態勢を整え次第、松山城に再度攻め入るつもりであった。領民の大半が一向門徒である桑名郡では、動員兵力は5万は下らないと目され、未だ十分な余力を残していたためである。そして、長島の一向門徒の精神的主導者である願証寺の証意は、新たな兵力の"調達"に動き始めたのであった。
そうした一向一揆勢の動きを素破から知らされた惟蹊と利蹊は、一向一揆勢との正面から激突すればいささか分が悪いと考えた。
「又左衛門殿、一向一揆の兵力を削ぐには、桑名の町から長島への兵や物資の補給を断つのが肝要かと存じます。そこで、志摩水軍に長島と桑名の間の舟の行き来を断たせましょう」
惟蹊が志摩水軍による海上封鎖を提案すると、すぐに実行に移された。北伊勢の中心都市である桑名の商圏によって富を得て、その潤沢な資金から一向門徒を兵力たらしめてきた長島の願証寺にとって、海上封鎖は大きな痛手になるのは確実であった。何せ数万もの兵を食わせていくための物資である。今は秋の収穫後で兵糧は潤沢にあると言えども、海上封鎖を行えば兵糧が底を突くのは時間の問題だからである。
そして、この松山城は濃尾平野一帯を広く見渡すことができ、海上封鎖によって困窮した一向一揆勢が打って出て来た際に、いち早く察知するのに最適な城であった。
さらに惟蹊は、志摩水軍に海上封鎖だけでなく、南蛮船の大砲を用いて艦砲射撃で長島城を攻撃できないかと提案したのだが、そこで問題が起こる。北畠晴具、具教、具房、そして惟蹊の北畠家四代に仕える重臣・鳥屋尾満栄が惟蹊に告げる。
「伊勢守様、実は少々問題がございまする」
「石見守、如何した?」
海上封鎖による安堵感から心の紐も緩みかけていた惟蹊だったが、満栄の険しい表情に眉根を寄せて訊ねる。
「それが、木曽・長良川河口に面している輪中の砦には艦砲射撃はできるようですが、川を遡って長島城を攻撃するには、川の水深が浅すぎる場所が多く、南蛮船では座礁する恐れが大きいと、志摩水軍の長・小浜将監殿が申しておりまする」
南蛮船はその大きさと船底に竜骨を備える構造故に、水深の浅い場所には入り込めないという欠点があった。さらに、今は冬であった。雪解け水の増える春や梅雨時ならば何とか座礁せずに行けたとしても、冬は川の水位が下がるため、座礁する可能性はより高くなるのであった。そのため、長島城に艦砲射撃を強行するには命懸けの危険が伴うため、真宗は困って惟蹊に判断を仰いだのである。
「……左様か。残念だが、万が一にも南蛮船を失う訳には参らぬ故、諦めるしかあるまい。海上封鎖と河口に面した輪中の砦への艦砲射撃だけでも効果はあるはずだ」
頼みの綱であった南蛮船の艦砲射撃が期待できないという事実に、惟蹊は肩を落とさずにはいられなかったが、かと言って、志摩水軍に南蛮船を失うような危険な真似をさせる訳には行かないと即座に判断した惟蹊は、ぐっと奥歯を噛み締める。
「素破によれば、一向一揆は海上封鎖に怒り狂っており、再びこの松山城に攻め込まんとする様子にございまする。おそらく先の戦い以上の兵を差し向けてくるのは間違いないと存じまする」
「ですが、松山城はこの有様で、すぐに再び籠城するのは難しいでしょう。ならば、城の外で戦うしかござらぬかと存じまする。この城を捨てて大垣城で籠城するという策も無い訳ではござらぬが、それでは松山城を命懸けで守った兵たちが報われませぬ」
「……左様だな。いずれにしても我らの力で一向一揆を打ち破らねばならぬ。何としてもだ」
惟蹊は満栄と利蹊の意見に語気を強めて返事をする。惟蹊は兄・正吉郎のことを心から尊敬していたものの、実は兄の偉大さ故に劣等感を感じており、端的に言えば無意識の内に焦っていたのである。正吉郎は惟蹊に利蹊への援軍を命じただけであったが、惟蹊はここで北畠軍の力だけで一向一揆を打倒することが、偉大な兄を持つ弟としての"責務"だと思い込んでいたのである。
一方、その正吉郎率いる寺倉軍の本隊1万8千は今、陸路で長島に向かっていた。しかし、12月上旬というのに晴天の伊勢とは裏腹に、大和や伊賀では初雪となる大雪に見舞われてしまい、急遽、京から南近江経由に迂回する羽目になり、行軍に予想以上の時間を要していたのであった。
「長島一向一揆」は言うまでもなく強大な敵である。故に、北畠軍の独力で鎮圧するのは元より無理があるのだが、正吉郎に和泉国の制圧を延期させてまで、自分が治める伊勢国の「長島一向一揆」の鎮圧に駆けつけさせる事態になった罪悪感から、惟蹊を「自分の力不足のために兄上の手を煩わせることになった」という"焦り"に駆らせてしまっていた。
実際には、正吉郎に「自分がいなくなっても200万石近い寺倉領を任せられる」と言わしめるほど、伊勢国を期待以上に上手く治めている惟蹊の統治能力に対する正吉郎の評価は極めて高い上に、「鉄砲の精度で惟蹊に敵う者はいない」とも正吉郎に信頼を受けるほど、北畠惟蹊は若くして文武共に優秀な武将であった。
しかし、自分を過小評価している惟蹊は、この"焦り"から思い掛けない危機に直面することになる。
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