三河一向一揆

10日ほど遡り、「長島一向一揆」の蜂起と時を同じくして、織田領である西三河でも一向一揆が蜂起していた。


「三河一向一揆」は、史実では永禄6年(1563年)に松平家臣の半数が一向一揆側に与するなど、今川家から独立した直後の家康が未曾有の危機に瀕して震撼したことで有名な騒動であり、武田信玄との「三方ヶ原の戦い」、本能寺で織田信長が討たれた直後の「伊賀越え」と並んで、徳川家康の「三大危機」と称される一大事件である。


しかし、この世界では徳川家康に改名する前の松平元康は、「桶狭間の戦い」の直後に自刃し、松平家は既に滅亡していた。その後、三河は織田家によって制圧され、掌握されたことから史実通りに「三河一向一揆」は起きなかったものの、石山本願寺の法主・顕如の指示によって坊官の下間頼成が本證寺に派遣され、史実の3年遅れで「三河一向一揆」は蜂起したのである。


ところで、「桶狭間の戦い」で敗れた元松平家臣は他国に逃げたり、本多正信のように他家に仕えたりして散り散りとなったが、故郷の西三河から離れることを拒み、織田家に降って家臣となった者も少なくなかった。織田信長も三河を平定した後の統治に元松平家臣は役立つだろうと踏んで、織田家に召し抱えたのであった。


しかし、先代の松平広忠の頃から松平家と織田家は西三河で骨肉の争いを繰り広げてきた関係であり、忠義に篤く頑固な三河武士の性格も災いしてか、織田家に臣従した元松平家臣は織田家になかなか溶け込もうとはせず、信長も織田家への忠誠を見せようとしない頑なな元松平家臣を信用できるはずなどなかった。


そして、武田家との戦いで碌な戦功を挙げることもできなかった元松平家臣は、戦働きも芳しくない余所者という烙印を押され、待遇が悪化していくという相互不信の悪循環に陥り、元松平家臣の不満は少しずつ蓄積されていくこととなる。


とは言っても、元松平家臣に"六雄"の織田家に対して反乱を起こせるほどの兵力もない。そんな時に西三河における本願寺の拠点として大きな勢力を誇る本證寺、上宮寺、勝鬘寺の「三河三ヶ寺」が一向一揆を起こしたのだ。元松平家臣の大半は熱心な一向門徒でもあったことから、織田家に対して不満を重ねていた元松平家臣にとっては渡りに船であったに違いない。


結果的には、史実で「徳川十六神将」に数えられる名将・渡辺守綱を含む元松平家臣の大半が「三河一向一揆」に参加したのであるが、元松平家臣が目論んだのは西三河を奪還し、松平家を再興することであった。


既に松平元康は「桶狭間の戦い」の直後に大樹寺で自刃し、松平家は一旦は滅亡したのであったが、実は元康の遺児・竹千代(史実の信康)が駿府にて今川家の人質となっており、松平宗家の血脈は辛うじて残っていたのである。そして、今川家が滅亡した際には、まだ4歳と幼かった松平竹千代は運良く助命されて、母・築山殿と共に武田家の捕虜となっていた。さらに、武田家滅亡の際には竹千代は織田家に助けられ、信長は将来は竹千代に自分の娘を嫁がせ、一門衆とした上で三河の統治を任せようという思惑から、現在8歳の竹千代は清洲にて保護され、養育されていたのであった。


この将来、竹千代に三河の統治を任せようという信長の腹案は、元松平家臣にしてみれば、現状の織田家に対する不満を堪えるに値する希望の光とも言えるものであったのだが、信長はその計画を公表しなかった。その理由は元松平家臣が竹千代の元に結集して、謀反を企むのを危惧したためであるのだが、信長の判断は裏目に出てしまう。


清洲での竹千代の生活は外出禁止などの行動の制約は課されていたものの、ある程度自由な生活を保障されていたのであるが、家中にも伏せていたはずの竹千代が清洲にて存命であるという情報が、なぜか元松平家臣に知られることとなり、"竹千代様は織田家に幽閉されている"と誤解されてしまう。


そして、11月中旬に竹千代が先祖の墓参で岡崎の大樹寺に戻り、岡崎城に泊まった際に、元松平家臣は岡崎城に忍び込んで竹千代を攫い(元松平家臣は"救出"したつもりであるが)、松平家再興の旗印として竹千代を担ぐと、それを待っていたかのように蜂起した一向一揆に加勢したのであった。


「ぬかったか。……だが、まずは一向一揆を潰すのが先決だな」


竹千代が攫われたとの報告を聞いた信長は、珍しく自身の判断ミスを悔やんだが、尤も、それは先代・信秀の頃からの松平家との確執による相互不信が根本的な原因であり、竹千代の誘拐よりもすぐに「三河一向一揆」の方に頭を切り替えたのであった。


そして、この「三河一向一揆」には元松平家臣に加えて、織田家の統治に不満を抱いていた足利一門の吉良家や、西三河に所領を持つ国人衆までもが火事場泥棒的に同時に反乱を企てた。その結果、西三河の一向門徒や松平家に忠誠を誓う領民、吉良家や国人衆の兵を結集した「三河一向一揆」の総兵数は、何と1万にまで膨れ上がり、西三河一帯が未曾有の騒乱の渦に巻き込まれることとなったのである。




◇◇◇





三河国・安城城。


「門徒たちよ。南無阿弥陀仏と唱えれば、死ねば極楽である。恐れることはない。御仏を蔑ろにする仏敵・織田家から、この三河の地を奪い返すのだ!」


「我らはこれより、飯尾隠岐守が守備する安城城を攻める。皆の者、得物を掲げよ!」


本證寺の第10代住職・空誓と石山本願寺から西三河に派遣された坊官の下間頼成が、 病的なまでに暗い目を光らせる一向門徒と、一向一揆に加担した頑固で実直な三河武士たちに向かって声を張り上げる。


――ウォォォォ!!!!


安城城は100年ほど前に松平信光が奪って以来、松平宗家となる安祥松平家の本拠となった城であり、この城の奪還は元松平家臣にとっても悲願でもあった。各々の思惑や目的は違えども、安城城を落とすという共通の目標に向かうことで、一向一揆に参加する将兵たちは団結し、高い士気を保っていた。


一方、安城城を守るのは飯尾尚清である。織田信秀の十女を妻として信長の義弟となり、信長の赤母衣衆である親族衆の重臣であった。


「皆の者、敵は1万であろうが、所詮は坊主どもに操られた烏合の衆よ。尾張守様の援軍が来るまで、何としても安城城を守り切るのだ!」


その尚清は「桶狭間の戦い」で鷲津砦の陥落の際に父・定宗を失くしており、元松平家臣が加担する一向一揆に対して、徹底抗戦の構えを貫いていた。ここで安城城を落とされれば、一向一揆は更に勢いづく恐れがあったためである。


信長も「三河一向一揆」の蜂起を聞くと、すぐに尾張の兵力を集結させ、さらに、一向宗と仲の悪い東三河の曹洞宗の門徒の協力を仰ぎ、挟撃による一向一揆の鎮圧を画策していた。しかし、急いで尾張の兵を集めて織田軍が安城城に到達するには最低でも3日を要すると予想され、それまで尚清は安城城を死守する必要があった。


しかし、1万の一向一揆勢に対して、安城城の城兵は僅かに700で、傭兵を募ったものの不利な戦に参加する者は少なかった。ようやく800の兵になった安城城だったが、死を恐れない一向門徒や、松平家再興に燃える元松平家臣ら、10倍以上の一向一揆勢の攻勢は凄まじく、織田軍の援軍は間に合わずに安城城は僅か2日で落城し、飯尾尚清はあえなく討死した。


安城城の落城は非常に大きな影響を及ぼした。日和見を続けていた国人衆、土豪が一向一揆への参陣を決めたのである。これによって「三河一向一揆」の兵数は1万5千にまで膨れ上がり、一向一揆勢は勢いのままに矢作川東岸に位置する岡崎城を次なる攻略目標に定めた。


これに対して、織田家は「安城城の戦い」の敗北によって矢作川西岸の大半を失陥する事態となり、信長はまずは西三河の戦略的要衝である岡崎城を死守するため、遠江や駿河からも兵を動員して矢作川東岸の兵力を増強したのであった。

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