堺の戦い③ 堺の命運

和泉国・堺の郊外。


「はっ、はっ、はぁはぁ」


間一髪のところで会合衆の雇った浪人衆の襲撃から逃れ、堺の町から走って逃げ出した松永久秀であったが、顔色は青白く染まり、膝は小刻みに震えていた。


無理もない。いくら悪逆非道の限りを尽くしてきた久秀とは言えども、来年には還暦を迎えようという老齢の身である。誰一人味方のいない状況でいつ刺客に襲われるかも知れないという状況で落ち着いていられるはずもなく、堺の町から一里半(約6km)も全力で走ったところでさすがに息も上がって、もはや体力の限界を迎えようとしていた。


「いたぞ! あそこだ! 追え!」


そんな状況に追い打ちを掛けるように、堺の町を出て紀伊に向けて一路南下していた久秀は、会合衆が放った刺客にその姿を発見されてしまう。


「よもやこの儂がここまで追い詰められようとはな。新介は捕らえられたか」


追ってきた男たちの顔は先程見た浪人衆と全く同じ顔ぶれであり、柳生宗厳は捕らえられたか、あるいは殺されたのか、そのどちらかであると久秀に悟らせた。


「ふん、少々手こずったがな。いずれにせよお前はここまでだ。大人しく捕われてもらおうか。手向かうようならば、首だけ持ち帰るだけだがな」


老体に鞭打っての逃走劇で体力の限界を迎えていたところに、複数人の武士に囲まれた時点で、既に久秀は死ぬ覚悟を決め、肩の力を抜いて瞑目していた。


その時である。


――ダーン! ダーン!


乾いた銃声と共に、久秀を捕縛しようと近づいてきた浪人たちが次々と撃ち抜かれていく。


「ぐ、がぁぁっ!」


「うぎゃあぁっ!」


「うぐぅぅ、い、痛えぇ」


苦悶の表情を浮かべる浪人たち。鉄砲が撃ち抜いたのはいずれも浪人たちの右肩で、刀を振れなくする狙いだったようだ。久秀は即座に振り向くと、驚愕で目を見開いた。


「お、お主は……!!」


そう、久秀の目の前には、高屋城で敗戦してから姿を眩ませていたと聞き及んでいた雑賀衆の棟梁・鈴木重秀の姿があったのである。


「よう、久しぶりだな。既に請け負った仕事は負け戦で終わっているんだが、こんな浪人衆に貴殿が殺されるのを黙って見ているのも寝覚めが悪いしな。元の雇い主を救うくらいの報酬は前金で受け取っている故、心配するな」


「……ふふっ、儂もつくづく悪運の強い男よな。よもや傭兵に命を救われるとは思わなんだ」


既に死を覚悟していた久秀は、思いも寄らない事態に思わず溜息を吐いた。不利を悟ればすぐに逃げるはずの傭兵集団が、自分一人を助けるために戦おうというのだ。久秀が喜びよりも理解できないという困惑の色を見せるのも無理はなかった。


「無駄口を叩いておると本当に死ぬことになるぞ。生き延びたいのなら走れ!」


重秀は久秀と目を合わせることもなく、配下の雑賀衆の兵と共に久秀を庇うように立ち並ぶと、得物の鉄砲を構えた。


「かたじけない。互いに生き残った時には紀伊で酒の一杯でも奢ってやろうぞ」


久秀が軽口を叩くと、それに応えて重秀は不気味とも思える微笑を浮かべた。


「酒は伊賀の焼酎だ。ついでに干鮭も添えてもらおうか」


「ふっ、致し方なし」


二人はそう言葉を交わすと、久秀は一目散に走り出し、重秀は鉄砲の引き金に手を添えるのであった。




◇◇◇





和泉国・堺。


「松永弾正を逃したか」


「も、申し訳ございませぬ。一度は追い詰めたのですが、すんでのところで雑賀衆の邪魔が入ってしまい申した」


「それで、雑賀衆の鉄砲に撃たれて、松永弾正を逃した挙句、おめおめと逃げ帰ってきたと言うのか! このたわけもの!」


「高い金で雇っているのを忘れたのか! この無駄飯喰らいの役立たず共めが!」


会合衆の中でも強硬派の紅屋宗陽と松江隆仙が激怒して、浪人衆に怒鳴り散らす。


「肩を撃たれて刀を振れなくなったお前たちは、もはや用心棒としては用無しだな。クビだ。失せろ!」


「そ、そんな……!」


続けて、油屋常琢に次いで大きな権力を誇る高三隆世が冷酷な表情で告げると、クビを宣告された雇われの浪人衆は伏し目がちに歯噛みしていた。会合衆はこの堺の町で最も強い権力を誇る商人たちだ。"何としても捕らえよ"と命じられていた松永久秀を取り逃がしたのは、首を刎ねられても文句は言えないほどの大失態であり、物理的に首が繋がっているだけでも温情であった。


「くっ、雑賀衆か。我らが畠山に金を貸さねばこうはならなかっただろうに……」


口数の少ない茜屋宗左がポツリと呟くと、他の会合衆たちも苦虫を噛み潰したような顔となる。畠山家が雑賀衆という傭兵集団を雇えたのは、会合衆を始めとする堺の町衆の資金援助があったからこそであった。


その時は「高屋城の戦い」の前であり、畠山家にもまだ勝機はあると踏んでいた会合衆たちは、寺倉家に堺の自治権を取り上げられるのを恐れ、畠山家に金を貸さずにはいられなかった。寺倉家に兵力で劣る畠山家の戦力を補うために考えた、言わば苦肉の策であったのだ。会合衆が貸し付けた500貫文(約5000万円)の金も易々と出せる金額ではない。それが逆に、自分たちの首を絞める結果になるとは思いも寄らなかった会合衆の面々は、皆一様に奥歯を噛みながら顔を伏せて、拳を握り締めていた。


「だが、左衛門督(畠山政頼)の首は我らが手にある。それに加えて、松永弾正が置いていった古天明平蜘蛛と九十九茄子という二つの大名物もあるのだ。それらを以って寺倉との交渉材料とするには十分ではあるまいか?」


「「うむ、それもそうだな」」


塩屋宗悦の言葉に、会合衆たちもようやく気を取り直したように頷く。会合衆たちは畠山家当主の政頼の首と、松永久秀が命よりも大事に扱っていた茶器の大名物を切り札として、寺倉との降伏交渉を優位に進めようという目論見であった。


「ところで、捕らえた柳生とやらはどうしているのですか?」


会合衆最年少の山上宗二が話題を変えて訊ねる。


「厠に籠っていたはずの松永弾正に左衛門督の死を知らせ、屋敷から逃げるように手引きしたのは奴の仕業である模様です。始末すべきでは?」


「いや、それには及ばぬ。柳生など弾正の一家臣にすぎぬ男よ。殺したところで何の意味も為さぬであろう」


「ですが、奴はかなり剣の腕が立つようですぞ。雑賀衆の鉄砲の前ではからきしでしたが、10人の浪人衆を相手に引けを取らなかったようです。生かしておけば、いつか我らに危害を及ぼす危険があるかと存じます」


今井宗久と津田宗及が柳生宗厳の扱いについて意見を交わすと、千宗易が言葉を挟む。


宗厳は会合衆の集めた選りすぐりの浪人衆を、巧みな剣捌きで次々と薙ぎ倒していき、まさに"剣豪"と呼ぶに相応しい卓越した働きを見せていた。そして、松永久秀を堺の町から脱出させるための十分な時間を稼いだところで、宗厳は降伏して捕らわれの身となり、久秀が寄せていた篤い信頼に応えるように、忠義の証を見せたのである。


「ふむ、一理はある。とは言えども、柳生は元は大和の国人領主です故、故郷には家族も残っているでしょう。ここで奴を殺せば、大和国を治める寺倉の逆鱗に触れる恐れもあり得まするぞ。むしろそれほど剣の腕が立つのならば、柳生や他の捕らえた家臣たちの身柄も併せて降伏交渉の材料にもなり得るでしょう。殺すにしてもその後にすべきではありませぬかな?」


「うむ。確かに利用できるものは何だろうと使うべきであるな。ならば、早急に寺倉との降伏交渉を行わねばならぬな」


穏健派の塩屋宗悦が捕虜とした他の畠山家臣たちも降伏交渉の材料とすることを提案すると、最後は会合衆の筆頭格である油屋常琢がまとめて結論を下した。


こうして、会合衆の重鎮たちは松永久秀を取り逃がしたことには落胆しつつも、商人特有の利に聡い思考で、次は如何にして寺倉に取り入って利を得るべきかと頭を切り替えるのであった。

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