若狭平定と慶事

朝晩は幾分過ごしやすくなり、初秋を感じさせる9月中旬、俺は収穫後に予定する畠山との戦の準備を進めていた。畠山は元幕臣の名家で守旧派の代表格だ。自分で言うのも何だが、成り上がり者の寺倉になど降伏するはずがない。今回の戦でその畠山を滅ぼせば、畿内の敵対勢力はもはや石山本願寺だけになるという重要な決戦だ。


「正吉郎様、浅井加賀守様が若狭一国を平定したとの由にございまする」


光秀が冷然と告げる。小姓の藤堂与吉が淹れてくれた熱い焙じ茶とは正反対だ。ふん、今の光秀の言葉でせっかくの茶が冷めてしまうぞ。


まぁ、若狭の平定は予想できていたことだ。若狭の過半は既に浅井の手中に収まっており、残すは若狭の西端の逸見昌経が治める大飯郡のみだった。わずか2万石の大飯郡がこれまで制圧されなかったのは、逸見が三好に臣従していたため緩衝地帯として残していたからだ。


「そうか。逸見駿河守はどうなった?」


「逸見駿河守は三好が自分を見捨てて四国に撤退したことを恨んでいたようで、浅井家の降伏勧告に対して潔く臣従して家臣になったとの由にございます」


三好が四国に撤退したのは最善の判断だった。あれ以上抵抗したところで畿内の覇権を取り返すのは不可能だったし、飯盛山城で戦い続けて当主の三好義興が討死するようなことがあれば、本貫の四国の基盤さえも揺るぎかねない事態だったのだ。


既に丹波や山城は三好の支配地ではなく、小さな飛び地だった若狭の一家臣に構っていられるほど三好に余裕があるはずもない。三好だって生き残りに必死なのだ。逸見が恨むのはお門違いもいいところだ。


「ほぅ、臣従したか。ということは、新九郎、いや加賀守は戦わずして若狭を統一したのだな」


「山崎の戦い」の後の8月上旬に、朝廷は巷で"六雄"と呼ばれている「近濃尾越六家同盟」を結ぶ六家に対して、官位の叙任を打診してきた。もちろんタダでだ。おそらくは六家による日本平定が実現する可能性が高いと見て、今から懐柔して保険を掛けておく意図なのだろう。さすがに朝廷は一筋縄ではいかない強かさがある。


そして、8月下旬に"六雄"の他の5人は「正五位上」の位階と、長政は「加賀守」、半兵衛は「美濃守」、信長は「尾張守」、忠秀は「山城守」、輝虎は「越後守」と、いずれも領地にある"上国"の国司の官職を叙任された。皆も晴れて「殿上人」となったという訳だ。


俺が相槌を打ちながら呟くと、それを肯定するように光秀は短く言葉を紡いだ。


「左様にございまする。典厩様」


「十兵衛、お前まで俺を典厩と呼ぶのは止めてくれ。正吉郎のままで構わぬ」


「承知いたしました。正吉郎様」


光秀はニヤリと微笑を浮かべる。この野郎、わざと「典厩」と呼んで揶揄ったな。


話が逸れたが、虎の威を借る狐に過ぎない逸見が三好という後ろ盾を失えば、"六雄"の一角である浅井に対して勝ち目などあるはずもない。逸見昌経は若狭武田家の家臣時代にも三好に寝返った変わり身の早い国人領主だが、逆に言えば浅井の勢威が盤石ならば他家に寝返る心配もないはずだ。


長政も「山崎の戦い」で蒲生・寺倉連合軍が勝ったと聞くや否や、逸見に降伏臣従を促す最後通告の使者を送ったところは、さすがに抜け目がないな。上杉に援軍を派遣している最中の浅井にとっても、一兵も損なわずに若狭を統一できたのは大きいだろう。兵糧も減らさずに済んで、おそらく来年には行われるであろう丹波侵攻を万全の態勢で進められるはずだ。




◇◇◇




「伊賀守様、奥方様がお見えになっております」


俺が居室で光秀と話を続けていると、小姓の蒲生鶴千代から声が掛かった。


「正吉郎様、今、お時間はございますか?」


聞き慣れた愛しい声が耳を揺らした。襖が開くと光秀が俺と話していると気づき、市は口元に手を当てて、申し訳なさそうに眉を寄せた。


「あっ、明智殿でございましたか。大変失礼いたしました」


「奥方様、ご機嫌麗しゅう。いえ、私の話は終わりましたのでお気になさらず。では正吉郎様、また後ほど」


「ああ」


光秀はそう言って徐に立ち上がると、市に会釈をして部屋を退出した。


しばしの沈黙が部屋の中を支配する。市は俺の顔を見据えると、少し頰を膨らませて俺の真横に正座をした。


「どうした、市。奥で何かあったのか?」


「正吉郎様、また戦の話ですか?」


俺の目をじっと見据えて問い詰めてくる。参ったな。俺はこの目に弱いんだ。


「戦だけど戦じゃないというか、いや、俺にはあまり関係のない戦の話だ」


「ふぅ、正吉郎様の戦好きは今に始まったことではありませんので、今更どうしようもないのですけれど……」


俺の煮え切らない返事に、市は溜息を吐きながら小声で呟く。


確かに戦が大好きな奴もいるが、俺は戦闘狂なんかじゃない。そう言おうと思ったが、家督を継いでから今まで戦のことを考えなかった日があっただろうか? 俺は喉まで出掛けた言葉を飲み込むと、少し思案してから再び口を開く。


「市。戦に明け暮れる日々も、もうあと少しの辛抱だ。ほんの1年前まで天下の覇権を握っていた三好を四国に追放し、ついに我ら"六雄"が覇権を奪い取った。俺には三郎殿を始め、沢山の味方がいる。俺の志す天下泰平の世が叶うのも目前だ。ここで立ち止まる訳には行かないのだ」


「正吉郎様が民のため、私のためを思ってくださっているのは承知しております。ですが、それでも私は不安なのです」


「……心配を掛けて済まんな」


俺はただ謝ることしかできなかった。この時代の妻は家で待つことしか許されない。薙刀を持って戦うのが許されるのは、城が攻められた最悪の事態の時だけだ。もし俺が流れ矢にでも当たって死んでしまったら、未亡人となる市はどれほど嘆き悲しむのだろう。先に死ぬ方は残された者の気持ちなど理解できないのだ。


以前、志摩に行った時にも不安そうな顔で同じような話をしたな。こういう時の市は何かあった時だ。そう言えばなぜ俺の居室を訪ねてきたのだろう?


「市、俺を訪ねてきたのは大切な用向きがあるんだろう?」


俺が市と夫婦になってからもう丸7年も経ち、市とは以心伝心とも言える強い絆で結ばれており、掛け替えのない無二の存在だと思っている。市も流石といった様子で笑みを溢す。


「ふふっ、正吉郎様は何でもお見通しですね。……実はやや子ができました」


「それは真か? よくやったぞ、市!」


第4子の妊娠。それを知った俺は飛び上がるように喜んだ。市が精神的に不安定に見えたのは、妊娠したためだったのか。


「ありがとうございます」


市はまるで聖母のように優しく微笑んだ。俺はそっと市のお腹を撫でて告げる。


「この子のためにも、一日も早くこの日ノ本に平穏をもたらさなければな」


このお腹の子が物事の分別がつくくらいになるまでには、天下泰平を成していなければならない。それが俺の"責務"だ。そのためには戦を避けては通れない。市には心労を強いてしまうが、今しばらくの辛抱だ。俺は決意も新たに心に誓うのだった。

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