北河内と南摂津の内政

南蛮船から渡し船で津守の浜に上陸を果たした俺は、護衛の兵たちの向こうに見える周りの風景を見回し、「うむ、ここならば、良い湊が造れそうだ」と独り言ちた。明智光秀から残りの上陸予定者と荷物が上陸するまで、もう四半刻ほどは掛かると報告を受けて、浜辺に拵えた野戦用の陣囲いに移ろうとした時だった。


70mほど離れているだろうか、我々を遠巻きに見ている野次馬たちにふと目を遣ると、その人だかりの中の一人の男になぜか目が留まった。俺と同じくらいの年齢の若い男だが、他の者たちとは違う良い着物を着て身なりが良く、おそらくは彼が津守の村長むらおさとでも言うべき存在なのだろうと直感した。


俺は光秀や護衛の滝川慶次郎、冨田勢源、さらには津守の浜に出迎えに来てくれた南摂津代官の和田惟政らを引き連れて、津守の村長らしき男の元に足を向ける。すると、俺が近づいて来るのを知った野次馬たちの大半はあわてて後ろに逃げていき、わずかに残った者たちはその場で跪いて、俺が来るのを待っていた。


俺は笑みを浮かべ、平伏しているその男に努めて柔らかい声色で話し掛ける。


「付かぬことを尋ねるが、お主がこの“津守”の村長かな?」


「ははっ! 村長は某の父にございますが、父が病のため某が代わりを務めておりまする。某は津守寛次郎治恒と申しまする!」


「やはりそうであったか。面を上げよ。そう畏まらずとも良い。私はこの南摂津を治めることになった寺倉家の当主、寺倉伊賀守と申す」


寛次郎と名乗る男は恐る恐る顔を上げて俺と目を合わせると、無礼を働いてしまったと思ったのか慌てて顔を伏せる。地声の大きい者は密談や謀議が苦手と相場が決まっているから、寛次郎も少々小心者のようだが、信用できる男だろうと好印象を受けた。


「寛次郎とやら、気にせずとも良いぞ。さて、私がこの津守に参ったのはな。実はこの地に新しく湊を造り、津守を寺倉家の交易の町にしたいと考えたからだ。地元の民であれば承知しているとは思うが、あの大きな南蛮船が停泊できる場所はこの辺りの海岸ではこの津守だけだ。故に、この津守をまとめ上げるお主に、湊の建設に協力してほしいのだ」


「えっ、湊、でございまするか?」


俺が湊を造ると告げると、寛次郎は全くの予想外だったようで、驚いた顔で問い返した。


「ああ、そうだ。湊だ。いずれは堺を超える大きな湊にしてみせるつもりだ。普請には南摂津の領民を賦役として動員し、2年ほど掛けて造る計画だ」


「堺を超える湊でございまするか?!」


「ふふっ、信じられぬか? 近江国の寺倉家の本拠、統麟城城下の松原湊を一度見れば分かると思うのだがな」


「め、滅相もございませぬ!」


「湊の普請には寺倉家から然るべき者を普請奉行に任ずるが、この津守を良く知るお主には奉行に助言や補佐をしてほしいのだ。無論、相応の報酬も出そう。お主の働きぶり次第では湊が完成した暁には、津守湊の代官として治めてもらっても良いと思っておる」


寛次郎は畏怖の目で俺を見上げていた。


「どうだ? 協力してはくれぬか?」


「ははっ、喜んで協力させていただきまする。よろしくお願い致しまする」


寛次郎は深く頭を下げた。こうして、津守湊の建設が始まり、俺は将来の津守湊の代官となる津守寛次郎を家臣に得たのである。




◇◇◇




河内国・飯盛山城。


津守の視察を終えた後、俺は飯盛山城に移動した。その翌日から、雲間から覗く灼熱の日差しも気に留めず、俺は新たに接収した南摂津と北河内の掌握に腐心していた。


俺は志摩に移動する前に、南摂津の代官には和田惟政、北河内の代官には武田義信を任命したが、南摂津には代官の居館となり得るような手頃な城館がないため、現在はこの飯盛山城に二人の代官が同居する形となっている。ただこれも一時的な対応であり、この秋に畠山の治める南河内の高屋城を落としたら、武田義信には南河内の代官に異動させて、和田惟政には南摂津と北河内の代官を兼任させようと考えているので、特に問題はない。


その二人からの話によると、南摂津と北河内は三好家の本拠である飯盛山城のお膝元で、三好の支配力の強い地域だったこともあり、三好への好感度は未だに非常に高いものがあり、中には三好と共に四国に渡った領民もいたという。三好長慶が作った束の間の泰平の世はそれほどの価値があったということなのだろう。


俺はまず、南摂津の最大の脅威である、上町台地の北端にある石山本願寺に対して、早急に策を講じることにした。だが、俺は史実の織田信長のように石山本願寺に多額の矢銭を要求して、ことさら敵対関係を先鋭化させるような愚かな真似をするつもりなどなかった。


俺は武田義信に対して、まずは北河内を流れる大和川や平野川を利用して石山本願時の寺領の東から南を取り囲むように運河を掘り巡らすように指示した。表向きは新田開発するための水利事業であり、北河内の領民の慰撫を兼ねた賦役として行い、昼飯も提供する。秋の収穫前で食料不足の時期だから領民は喜んで参加してくれ、寺倉家への好感度も上がるという一石三鳥の効果を見込んでいる。


運河が完成すれば、寺領との往来は数本の街道以外は淀川と運河の水運に限られることになり、本願寺側も防御を固めやすくはなるが、それ以上に我々も対本願寺の防衛態勢を強化できるメリットが大きいのだ。


もちろん、街道や運河の寺領との境には関所を設け、不審人物や武器の流入を制限すると同時に、通行を認める一向門徒には高額の通行税を課すつもりだ。これで信長が要求した矢銭の半分くらいはすぐに回収できるだろう。


史実の織田信長があれほどの苦戦を強いられた石山本願寺だ。俺も一筋縄で行くとは端から思ってはいない。史実の「大坂の陣」で徳川家康が行ったように、まずは外堀から少しずつ埋めていく戦略を取る方向に舵を切ることにした。


これにより江戸時代に造られた大坂の運河を前倒しして整備し、将来の大坂の町の発展の土台にするつもりだ。それと、運河を掘った土も無駄にはしない。南摂津の湿地や沼地、海岸の埋立に使って新田開発を行い、石高を増やす計画だ。


さらに、南摂津では津守湊の建設を始める。当面は和田惟政に普請奉行を兼任させて、南摂津の領民の賦役として行い、昼飯も提供するように指示した。


世間は寺倉家が天下を獲ったと思い込んでいるかもしれないが、まだまだ予断は許さない。和泉・河内・紀伊の三国を治める畠山や、四国から虎視眈眈と畿内の奪還を目論む三好、西国の覇者としての地位を築いている毛利、九州にも多くの勢力がひしめいている。東は「近濃尾越六家同盟」によってほぼ盤石だが、西には数多くの敵対勢力が残っているのだ。俺はより一層気を引き締めるのだった。

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