堀内氏虎の意地
紀伊国・新宮城。
「な、何だ! あの船は! あれが南蛮船か? 外つ国の襲撃か?!」
熊野水軍の棟梁・堀内氏虎は、居城の新宮城から海上に浮かぶ巨大な南蛮船2隻を含む船団に驚きを隠せないでいた。南蛮船がこの紀伊半島に現れたことなど一度もなく、氏虎が驚くのも無理はない。
氏虎も大層巨大な船だという噂しか聞き及んではいなかったが、目の前に見える船はまさしく噂どおりで、その南蛮船なのだろうとすぐに確信していた。
「父上。あれは、て、寺倉家の船団かと思われます!」
「寺倉、だと? すると、志摩の水軍か?」
有馬家の養子に入った次男の有馬氏善が、腰を抜かして顔を引きつらせて声を上げる。氏善の言葉に、氏虎の表情は驚愕の色で濃く染まった。
「この日ノ本にあのような南蛮の船を持つ大名など、いるはずがなかろう」
「で、ですが、あれは寺倉家の家紋、『二つ剣銀杏紋』に間違いありませぬ」
氏虎は氏善に言われて南蛮船の帆に染め上げられた家紋を視認すると、それが寺倉家の船であることをようやく理解した。
「くくっ、あれほどの船を見て武者震いとはな。これが海の男の
「おおおぉぉぉーーーー!!!」
氏虎は根っからの海賊である。海で怖いものなど時化の波くらいしかなく、今さら南蛮船を見たところで怖気づくつもりなどなかった。
そして、2年前に小浜真宗が遣いでやって来た寺倉家の降伏勧告を断った時から、いつかこういう日が来ることも覚悟ができていた。
不精髭を無造作に伸ばし、日に焼けた肌の色に加え、後ろに乱雑に束ねた白髪とフケ混じりの灰色の荒れた髪。熊野水軍をまとめ上げる堀内安房守氏虎は、口許に弧を描き、最後の戦に臨もうとしていた。
堀内氏虎が家臣たちに出陣を命じて、新宮城を出たその時であった。
――ドカーン! ドカーン!
遥か新宮湊の沖合に浮かぶ2隻の南蛮船の船体から突如火を噴いたかと思うと、数瞬後には新宮城の居館を掠め、背後の人のいない山中へと着弾し、大きな土煙が巻き上がったのだ。
これまでの鉄砲の常識からすれば、考えられないほど遠距離からの艦砲射撃であり、氏虎と熊野水軍の荒くれ者たちに刹那の沈黙と戦慄が走る。
(我らを海に出させるまでもないと言うつもりか!)
新宮湊の沖には南蛮船2隻以外にも安宅船と80艘ほどの小早が停泊している。だが、熊野水軍の男たちにとって、海での戦いを経ることもなく陸で死ぬなど、屈辱以外の何物でもない。
(あれほどの規模を誇る船団を相手取れば、熊野水軍が敗北するのは必至だ。だが、それでも海に出て戦わない限りは、我らは断固として敗北を認める訳には行かぬ!)
寺倉の艦砲射撃の威嚇は絶大な"武力"を持っていた。豪胆で野卑な熊野水軍の男たちが、一斉に"恐怖"の感情に揺さぶられたのだ。誰もが足は竦み、膝を震わせていた。生殺与奪権を握られれば、そんな状況に陥ってしまうのも無理はない。氏虎は熊野水軍の棟梁として冷静さを保ちながら、必死に頭脳を回転させる。
(これが寺倉家の力だというのか! 我らが動こうとするのを察知したか。海に出れば、次は船諸共、海の藻屑にするぞという脅しか。戦わずに相手を屈服させることのできる"武力"を持つ。それが乱世を終わらせることのできる唯一の手段なのだな。我らは戦う以前から既に負けていたという訳か)
2年前に寺倉家が熊野水軍とは不和な関係にある小浜真宗を使者として降伏勧告をしてきたことに、氏虎は寺倉家に対して不信感を抱いていた。我らを屈服させたいのならば、"武力"を以って服従させるべきだ。そう考えていた氏虎は、当然のように寺倉家に膝を屈するのを拒否したのであった。
乱世に生まれ育ち、乱世を生き抜いてきた氏虎は、天下に泰平と安寧をもたらさんとする寺倉家の志を、実現不可能な美辞麗句を並べた絵空事だと内心で嘲っていた。ここまで百年近くも乱れに乱れたこの世を治めることなど、もはや不可能だ。あれほど強大な力を誇っていた細川や六角は既に潰えて、天下人と謳われた三好も瞬く間に衰えて四国に逃げた。寺倉もその二の舞になる。そう信じて疑わなかったのだ。
命を賭してでも戦い、敗れたならば已む無しという海賊としての意地に拘る氏虎に対して、寺倉はできれば一兵も殺すことなく、降伏臣従させたいという考えであり、ある意味で矛と盾の共存不可能とも言える話である。
(陸からでは何をしようとも我らの攻撃は寺倉には通じない。海に打って出たとしても、我らの攻撃が届く前に全滅するのが落ちだ。ならば、もはや戦ったところで意味はない)
氏虎が考えをまとめている間にも、南蛮船からは断続的に艦砲射撃が続き、背後の山だけでなく、人家のない田畑にも着弾し、収穫間近の稲ごと土埃を噴き上げていた。その光景を見て結論に至った氏虎は、凍ったように固まる熊野水軍の男たちに意を決して告げた。
「お前ら、降伏するぞ! 我らに寺倉を打倒する力などありはしない。戦おうとしたところで寺倉の船には少しも被害を与えられずに、我らは全滅するだけだ。そんな無様な戦いなど、お前らも望んではいないだろう? 俺たちは誇りのために死ねる武士じゃない。海を通行する船から金や物を巻き上げるのが生業の海賊だ。こんな形で無駄死しても仕方がない。違うか?」
「……」
氏虎の言葉に、熊野水軍の男たちは黙り込んだ。
「我らも寺倉に膝を屈する時が来たということだ。なに、心配は要らん。お前らならば志摩水軍とも上手くやっていけるはずだ」
「まさか、大将、死ぬつもりではあるまいな?」
「ふん、ここまで抵抗したのだ。俺が許されるはずもなかろう? もうじきあの"武力"を持つ寺倉の下で平和な日ノ本が訪れるだろう。だが、今はまだその途上の乱世だ。甘いことなど言ってはおられぬ。俺一人の首で済むのならば安いものよ」
氏虎はそう言い捨てると、家臣たちの反応を待つことなく足早に湊に向けて歩き出し、次男の有馬氏善もあわてて後をついていく。
氏虎の行き先は南蛮船経由の冥府だ。それを察した熊野水軍の男たちは黙って見送ることしかできなかった。後を追うことは氏虎の決意を踏みにじるのと同義であると理解していたからである。
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