覇権獲得の波紋①

芥川城を落とした4日後の7月16日の朝、寺倉軍は蒲生軍との連合軍を解いて、三好義興が逃げ込んだ三好家の本拠・飯盛山城へ進軍を開始した。


もちろん急げば3日は早く動けたが、蒲生家の摂津制圧の進捗を見届けるのと、飯盛山城の三好義興が四国に撤退する時間的余裕をわざと与えるために、俺は芥川城に留まり、進軍を遅らせたのだ。


今回の戦いは三好を畿内から追い出すのが目的であり、俺は無理して三好を滅ぼすつもりはなかった。第一、四国に本貫のある三好だ。四国に渡らずに滅ぼすのは無理がある。ならば、義興には四国に逃げる時間を与えて、無駄な追撃戦で消耗するのを避けたのだ。


もちろん義興が四国に逃げずに飯盛山城に籠城して徹底抗戦するような愚かな男ならば、容赦せず討ち滅ぼすつもりだったが、あれほど「山崎の戦い」で寺倉軍の圧倒的な強さを見せつけ、芥川城もわずか4日で落として見せたのだ。それでもなお時勢が読めないような男が三好家の当主を務めているはずがない。


その日の夕方に飯盛山城に到着すると、案の定、三好軍は既に四国に退却した後で、堅守を誇った飯盛山城ももぬけの殻で空き城となっていた。城に火を付けずに撤退したのは、いつか必ず城を奪い返すという意思表示なのだろう。後で聞いたところによると、三好軍は芥川城の落城の翌日には四国に退却を始めたらしいから、どうやら義興は俺の読みどおりに四国で態勢を立て直す決断をしたようだ。


史実では今後の四国は、土佐の長宗我部の伸長や毛利の伊予進出があるはずだ。そこで、俺としては三好義興には畿内よりも土佐と伊予に目を向けて攻勢に出てもらいたいところだ。弱い敵から狙うのが戦略の基本だからな。そして、長宗我部や毛利が三好と潰し合いをして弱体化したところで、最後に寺倉が漁夫の利を得るのが最高の結果という算段だ。


そして、俺は飯盛山城を拠点とすると蒲生家への援軍の対価として、直ちに北河内の交野郡、茨田郡、讃良郡の3郡6万石を接収し、さらには淀川南部の南摂津も石山本願寺の寺領を除く東生郡、西生郡、住吉郡の3郡8万石を制圧した。


これにより、天下の覇権を握っていた三好家は、畿内の所領を完全に失うことになった。




◇◇◇




「天下」の覇権交代に畿内は俄かに色めき立った。三好家との決戦に勝利し、新たに畿内の覇権を握った寺倉蹊政と蒲生忠秀の名前を知らない者は、畿内ではもはや居ない。


この時代の日本の政治・経済・文化では圧倒的に畿内優位であり、畿内こそが「天下」であり、畿内を治める者が「天下人」として考えられていた。寺倉蹊政と蒲生忠秀は一躍次なる「天下人」の最有力候補に躍り出たのである。


そして、寺倉家や蒲生家と「近濃尾越六家同盟」を結ぶ織田・竹中・浅井・上杉の四家は「六雄」と呼ばれるようになり、近い将来に日ノ本を統べる六家として、畿内でもその名声を轟かせるようになった。


中でも特に、寺倉家の善政と数多くの新施策、圧倒的な軍事力を初めて目の当たりにして、畿内の民衆は待望して久しい"新たな平和な時代"の到来を、身近に予感するまでに至ったのである。


しかし、一方でこれを良しとしない者たちもいた。その筆頭は「守旧派最後の砦」と称された畠山家である。




◇◇◇




河内国・高屋城。


その畠山家の前当主・畠山高政は、寺倉家の次の標的が南河内と和泉、そして紀伊を治める畠山家になることを当然理解していた。


「よもやあの三好がここまで早く尻尾を巻いて逃げるとは、全くの予想外であったな」


「左様ですな。我らと畿内の覇権を争った三好が期待外れもいいところですな」


畠山高政の三弟で畠山家の現当主の畠山政頼が、三好の斜陽と新たなる脅威の接近に表現し難い複雑な表情で言葉を返す。


畠山家の当主は元々は畠山高政であったが、「永禄の変」後に家督を政頼に譲っていた。


政頼は才覚に恵まれ、戦乱の世を生き抜く器量も兼ね備えていたものの、長い間、弟として高政の補佐役を務めていたこともあり、その関係にいきなり変化が起こることはなかった。


政頼自身は畠山家当主が代々本拠としていた南河内の高屋城を居城としていたが、畠山家を実質的に仕切っていたのは依然として高政であった。


畠山家は南河内、和泉、紀伊3国の国主として56万石を治める大大名である。そして、かつての幕府の名家としての誇りも消えてはいない。故に、成り上がり者の新興勢力である寺倉家に膝を屈するという考えなど、微塵もあるはずがなかった。


「寺倉は間違いなくこの高屋城に攻め入ってくるであろう。幸いなことに寺倉は南摂津と北河内の掌握に手間取っておるようだ。攻めてくるとすれば秋以降であろう。それまでに兵を集める余裕はできよう」


「領内の全土に呼集をかけねばなりませぬな」


「能登から来た無駄飯食らいの親子にも、寺倉との戦いでは少しは働いてもらわねばな」


「左様ですな。あの父子には名誉ある先鋒役として戦ってもらいましょう」


浅井長政に能登国から追放された畠山義続・義綱父子は、本家の河内畠山家を頼って亡命し、何も働かずに居候して厄介者扱いされていた。


畠山は最大で1万4千の動員兵力を持っている。その全てを駆り出して当たったとしても、寺倉家に勝てる保証はなかった。高政は並々ならぬ決意を胸に、寺倉との決戦に備えるのであった。





◇◇◇





摂津国・石山本願寺。


「顕如様。鬱陶しかった三好がようやく消えたようでございますな」


日が暮れた後もヒグラシの鳴き声が月夜を蒸し暑く彩る中、下間頼廉はしたり顔で涼しげに微笑を浮かべていた。


石山本願寺はかつて畠山家に味方をする形で「教興寺の戦い」に介入したことから分かるように、三好家に対して強い憎悪の感情を抱いていた。父親を一向門徒に殺された長慶の僧兵に対する根強い私怨から、同じ仏門の比叡山を焼き討ちされ、一向門徒の町・堅田を簒奪されたのだ。その感情も尤もだと言えよう。


「そんな呑気なことを申しておる暇などなかろう。今すぐにでも門徒を増やし、守りを固めねばならぬ。寺倉に周囲を取り囲まれておるのだぞ?」


(三好があっさりと四国へ逃げ帰ったのにはいささか驚いたが、もはや籠城したとしても敗北は避けようもなかったということか)


顕如は頼廉の科白に対して、三好の敗北は必至だと察していたからか、その顔に動揺の色は見えず、現状を鑑みて極めて冷静に返答する。


寺倉家が南摂津3郡を制圧したことにより、石山本願寺の寺領は周囲を寺倉家の所領に囲まれる形となった。畠山家と寺倉家の両方に兵を割いていたために、石山本願寺への対応が後回しになっていた三好家が畿内からいなくなったのは、石山本願寺にとってむしろ非常に拙い状況となったのである。


「左様ですが、寺倉がいつ攻め込んでくるか、全く先が見えませぬ故、それには時がちと足らぬやも知れませぬ。近い内に戦が起こるのは間違いないと存じまするが……」


門徒を増やすにも少なからず時間が必要である。もし準備が整う前に寺倉が攻め込んで来ることがあれば、いくら堅固な石山本願寺と言えども限界がある。


(今や他家にも絶大な影響力を持っている寺倉に、畠山だけでは心許ないか。ならば……)


顕如は寺倉家との真正面からの対立を避けるべく、苦肉の策を講じることにする。


「こうなれば、もはや致し方あるまい。収穫後の冬にでも伊勢長島と三河の門徒を蜂起させ、此方に向いている寺倉の目を意図的に逸らすのだ。背後の長島と三河で一揆が起きたとなれば、さすがの寺倉もすぐには我らに手出しはできぬであろう。織田も三河の一揆で動きを封じられれば、長島は寺倉だけで当たらねばならず、少しは時を稼ぐことができよう」


「なるほど、それならば我らにも幾分余裕ができるかと存じまする。ですが、問題は長島と三河の門徒たちがそれに従うかどうか……」


頼廉は顎髭を撫でるような仕草をしながら、眉を僅かに寄せる。


「ふん。従順な仏の僕たる門徒を動かすことなど容易だ。命じれば御仏のためにすぐにでも喜んで命を差し出すであろうよ。ふっふふ」


顕如は頼廉の懸念を鼻で笑って一蹴した。顕如にとって門徒は都合のいい手駒の一つに過ぎなかったのである。


「左様ですな。はははっ」


いつしかヒグラシの鳴き声は消え失せ、二人の不気味な笑い声と烏が飛び立つ羽音が、一向門徒による泥沼の戦を暗示するかのように月夜に響くのであった。

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