天下分け目の天王山⑦ 臥薪嘗胆

河内国・飯盛山城。


「筑前守様。火急の用件にて、三好兵庫助(長虎)様が参られました!」


「兵庫助が? あ奴は日向守(長逸)と共に芥川城に退却したはずではなかったか? 叔父上、何用と思われますか?」


「ふむ。おそらくは九分九厘、悪い報せであろう。ならば芥川城が落ちたのでは……」


7月12日の申の刻(午後4時)、飯盛山城の本丸の一室の三好家当主、三好義興の元に、三好長虎の来訪の報せが届くと、三好長慶の三弟・安宅冬康が来訪の理由を予想した。そして、その悪い予想は的中する。


「筑前守様。一別以来にございまする。本日、午の刻(正午)、父・三好日向守は討死し、芥川城は落城いたしました」


「む、何と!……そうか。日向守は誠に残念であったな」


「かたじけなく存じまする。某は父から筑前守様に事の次第を伝えよ、と命じられて罷り越しました。おそらくは一両日中にも寺倉軍2万が、この飯盛山城に向けて攻め寄せて来るかと存じまする」


義興の前に現れた長虎は、少しやつれた表情を見せながらも、父・長逸の討死と芥川城の落城を報告するだけでなく、飯盛山城に迫り来る危機を伝えたのである。


「に、2万だと?!」


その凶報を耳にした義興の表情は、みるみる内に病人のような血の気が引いて青白い顔となっていく。


「此方の兵は主に四国から集めた7000余にございまする。しかも、山崎であの地獄を目の当たりにしたばかりの者たちにございますれば、3倍近い寺倉の兵を相手するのは少々厳しいかと存じまする……」


「くっ、……」


兵数の不利だけでなく、飯盛山城の将兵には寺倉軍に対する恐怖心が強烈に刷り込まれており、叔父・冬康の的を得た指摘に、義興も言葉に詰まる。


三好家の畿内における本拠である飯盛山城は、天下人・三好長慶の居城として畿内有数の防御力を誇っていたものの、相手が2万となれば堅城の飯盛山城と言えども分が悪い。


「今や孫次郎様は名実共に三好家の当主にございまする。孫次郎様が三好家の行く末をお決めなされ」


冬康は義興の決断にすべてを委ねると告げるが、飯盛山城を失うことは畿内の領地を完全に失い、四国に逃れるしか生き残る道が失くなるということであり、つまりは父・長慶が築き上げた三好家の版図を失うことを意味している。かつて幕府の実権を握っていた長慶の跡を継いだ義興となれば、尚更受け入れ難い屈辱ではあったが、天下人だった長慶の血を受け継いだ義興は、感情や矜持に左右されることのない冷徹な判断力を有していた。


「芥川城が落とされ、三好三人衆がすべて討死した今となっては、このまま飯盛山城で寺倉を迎え撃てば、三好家が滅びかねん。父上から受け継いだ畿内の領地を失うのは断腸の思いだが、今は本貫の四国に一旦退いて、捲土重来を期すしかあるまい」


脅威は寺倉と蒲生だけでない。南には依然として畠山が虎視眈々と機を伺っており、さらに西には石山本願寺もいるという、まさに四面楚歌の状況である。一方で、三好家の本貫である四国には、まだ十分に態勢を立て直せるだけの強固な地盤が残っていることを考慮した義興は、四国へ撤退する方針を固めたのである。


この決断で一番大きかった要因は、三好三人衆が全員死んだことである。これまで三好家の実権を三好三人衆に握られていた義興は、三好家の当主でありながら保身のために傀儡として消極的な姿勢を取らざるを得なかった。


しかし、三好三人衆が消えた今、家臣が従うのは当主の義興以外にいない。始めは四国撤退に異を唱えていた重臣たちも、寺倉と蒲生、さらには畠山を相手にするには、今の三好では力不足だと理解し、義興の決断に賛同することになったのである。


一方、四国では土佐の長宗我部家が勢力を拡大していた。「土佐七雄」と呼ばれる国人衆の中で最も弱小勢力だった長宗我部家だが、長宗我部国親が勢力を拡大させると、その子・元親は4年前に土佐で最も大きな力を持っていた本山家を攻めており、滅ぼすのも時間の問題とみられている。翌年には弟・親貞を吉良家の婿養子に入れて併合していた。


もし長宗我部家が土佐で一大勢力を築き上げることになれば、阿波と讃岐を支配する三好家にとって、四国の覇権まで奪われかねない事態であった。


それに、寺倉と蒲生が組んで畿内に侵攻している現在、三好がすぐに四国から兵を率いて戦いを挑んでも無駄に戦力を失うだけで、畿内の領地を奪還するのは現実的に不可能に近いのだ。ならば、畿内への再侵攻は先送りにし、まずは土佐を攻め、四国で力を溜めるべきだという戦略を義興は目論んだのである。


史実では後3年もすると、長宗我部家は本山家、安芸家と立て続けに滅ぼし、土佐中東部を平定するが、今は長宗我部家と安芸家とは一条家の仲介により休戦状態にある。


この好機を逃すべきではないと考えた義興は、長宗我部家が三好家を凌駕する力をつける前に、三好家が土佐東部に勢力を拡大して長宗我部家に対する抑止力となる方針を定め、四国への撤退を決めたのであった。




◇◇◇




摂津国は国人領主の独立性が強い土地柄だ。それ故に、畿内での権勢を失い、四国に逃れようとする三好家に追随する国人は結局は一人もおらず、むしろ三好の支配が無くなったのをこれ幸いとばかりに蠢き出していた。


史実では「摂津三守護」と呼ばれる池田勝正、伊丹親興、和田惟政の3人が、摂津国で大きな権力を持っていたが、織田家の侵攻を受けた際には池田家家臣だった荒木村重が、伊丹親興の守る伊丹城を落として、摂津国主の座に昇り詰めている。だが、村重は信長の重用を受けたにも関わらず、「三木合戦」の際に謀反を起こしてその地位を失っている。現時点で村重は前当主・池田長正の娘を娶って一門衆ではあるが、史実では3年後に三好家に寝返り、池田家を乗っ取っている。


その池田家だが、主君の勝正は蒲生家に徹底抗戦するつもりのようだったが、俺の予想どおり二つに割れた。三好家による支配の枷が外れたのを機に、一門の養子である勝正に対抗して、前当主・池田長正の長男で本来ならば池田家の家督を継ぐはずだった池田知正を、義理の兄の荒木村重が担ぎ出したのだ。まだ12歳と若く暗愚だった知正は、自分よりも優れた能力を父に認められて当主の座を奪った勝正を妬み、恨んでいた。史実より少し早いが、村重はその私怨を利用したのだ。


荒木村重は今回の御家分断に加えて、史実でも信長に謀反を起こしていることもあり、当然ながら信用することなどできるはずもない。たとえ能力があろうとも、謀反を起こす可能性の高い村重を味方である蒲生家の家臣として迎え入れる訳には行かない。


俺は蒲生忠秀に荒木村重にはくれぐれも注意するように口酸っぱく言ってある。俺に強い忠誠心を持つ忠秀のことだ。上手くやることだろう。


翌日、蒲生忠秀が荒木村重からの臣従の申し出を拒否すると、村重もまさか拒否されるとは思っていなかったのか、精気を抜かれたような顔で芥川城を後にしたそうだ。池田家に戻る訳にも行かず、敵であった松永久秀が身を寄せる畠山家に身を寄せる訳にも行かなかった村重は、結局は三好家を頼って四国に落ち延びたそうだ。


一方の池田勝正は池田城に籠って抵抗したものの、御家が分裂しては蒲生軍の攻勢に耐えられるはずもなく、わずか2日で落城に至った。


また、「山崎の戦い」で寝返ったはずの伊丹親興は、伊丹城に籠って蒲生軍の動向を静観していたものの、池田勝正の討死を聞くや否や慌てて蒲生家に降伏臣従したそうだ。忠秀は摂津国の統治を円滑にする観点から、伊丹親興を一度だけ許して家臣に迎え入れた。


こうして、蒲生家は淀川以北の北摂津26万石を制圧した。


今回の「山崎の戦い」での蒲生家への援軍派遣の対価として、寺倉家は淀川以南の南摂津9万石と北河内6万石を譲り受ける約束になっているが、南摂津には石山本願寺の寺領があるため、摂津国の平定はしばらく先の話になりそうだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る