甲州征伐⑩ 黄昏の風林火山

合戦はすぐには始まらなかった。小山田軍は朝から険しい山道を歩き通しだったのだ。たとえ数で3倍以上であろうと兵が疲労困憊ではまともに戦えるはずはない。小山田軍は棲雲寺から1里(約4km)ほどの所に陣を布いて守りを固めると、兵の休息を取り、馬に飼い葉を与えていた。


そう、小山田軍には騎馬が100ほどいたのだ。 勝頼と昌信は物見から騎馬の存在を知らされると表情を曇らせた。


「敵が疲れている内にこちらから打って出ようと考えておりましたが、騎馬が100もいるとなると、話が違ってきますな」


最強を冠した武田騎馬隊も、その栄光はもはや潰えた。小山田軍の騎馬程度に遅れを取っている程度ではという感情に支配されるが、勝頼は言葉を飲み込んで冷静に口を開く。


「左様だな。我らは全て徒の兵で数でも大きく劣る故、敵の疲労を考慮してもいささか分が悪いであろうな」


渋い顔の昌信に勝頼が相槌を打つと、武田軍は棲雲寺に籠城して小山田軍を迎え撃つことになった。


そして、一刻半(3時間)ほど過ぎた申の刻(午後4時)。


休息を終えた小山田軍は陣を発つと、瞬く間に勝頼の籠る棲雲寺を取り囲み、信茂の号令と共に突撃を始め、武田家最後の戦が始まった。


棲雲寺は一向衆の寺のように要塞化はしていないため防御は無きに等しく、すぐに境内で乱戦が始まる。予想された光景ではあったが、四半刻も過ぎると圧倒的に兵の数で不利な戦況を見て、本陣で苦渋の色を見せる勝頼の前に、昌信が立ちはだかった。


「弾正、如何した?」


「ここは私めにお任せくだされ」


昌信は強い決意の篭った面持ちで告げた。また自分を逃がそうとするような口ぶりに、勝頼は語気を強める。


「何を申すか! この期に及んで私に逃げろ、と申すか?」


「いえ、武田家の当主が謀叛人に討たれるなど到底許されぬ屈辱にございまする。信茂の狙いは四郎様の首ただ一つ。おそらくは織田に降伏するための手土産にするつもりにございましょう。死してなお四郎様の首が謀反人に利用されるなど恥辱にございますれば、ここは私が時を稼ぎますので、四郎様は寺の奥で火を放ってから自刃なさいませ。これにて今生の別れにございまする。冥府にてお会いしましょうぞ」


昌信の瞳は憤怒の炎に燃えていた。絶対に勝頼の首を信茂に渡す訳にはいかなかったのである。


「皆の者! 武田家最後の戦だ! 謀反人、小山田信茂に正義の裁きを下すのだ!!」


昌信は奮戦する兵を鼓舞し、勝頼の返答を待たずに槍を手に駆け出していくと、自ら槍を振るい、鬼神が如き闘いぶりを見せる。勝頼に付き従った兵はわずか300人であったが、その全てが勝頼に最期まで忠節を尽くさんとする馬廻りなど精鋭揃いの強者たちであり、昌信はその中心となって数に勝る小山田軍の兵を討ち倒していった。


「怯むなぁ! 戦え!! 戦うのだ!!!」


沈みかけの紅い太陽が風林火山の旗を煌びやかに照らす黄昏の刻に、武田軍は最後の輝きを見せていた。




◇◇◇




「おぼろなる月もほのかに雲かすみ 晴れて行くへの西の山のは 」


勝頼は辞世の句を詠むと、薄暮で暗くなった寺の奥の部屋で朧げな西の稜線を視界の隅に映しながら、刀と刀がぶつかり合う金属音を耳に刻んでいた。最期の時を迎える前に、武田家最後の戦いの記憶を脳裏に焼き付けるためだ。


勝頼に妻子はいない。史実の「天目山の戦い」では妻に加えて嫡男である武田信勝も傍におり、自害の際に家督を譲っているが、それは16年後の1582年の出来事である。


故に長坂釣閑斎ら側近数人が傍に控えているだけである。建物には既に火が放たれ、四半刻もすれば焼け落ちるであろう。


(私に世継ぎはおらぬが、兄上が存命であれば御家は安泰であろう。やはり兄上は正しかったのだ。自分で考えることを諦め、盲目的に父上に従うだけであった私では、武田家を守ることなど到底無理であったのだな)


義信と勝頼は決して仲は悪くなかった。むしろ仲は良かったのだ。ただ父に愛されたか、嫌われたかの違いなのである。だが、それは途方もなく大きなことであった。勝頼は自分の存在が義信を廃嫡に追い込んでしまったのではないか、そんな自責の念に苛まれることもしばしばであった。


勝頼は廃嫡された義信に対して後ろめたさを感じると同時に、信玄に真っ向から反論できる信念を持った義信を尊敬していた。だからこそ兄として慕っていた義信が無事であり、寺倉家で居場所を得たと知った時、心から喜んだ。義信であれば武田家を守れたのではないか。そんな思いが胸に去来するが、勝頼は首を振り、今さら意味のない雑念を振り払った。


「父上、今から其方に参りまするぞ」


勝頼は意を決して腹に刀を当てると、小さく息を吐いた後、一気に腹を切り裂いた。直後に釣閑斎の介錯を受け、勝頼は絶命した。辺りは一瞬にして血塗れたものの、死んでも横に倒れない勝頼の姿には、凄まじい執念すら感じられた。


その後に側近たちも後を追うように自刃し、棲雲寺の一室は血の海と化した。その刹那、信茂に勝頼の首を持たせる訳にはいかないと、放たれていた炎によって部屋は覆い尽くされ、勝頼の遺体は跡形もなくこの世を去ったのである。


そして、勝頼の死の直後、主君の自刃を待っていたかのように、高坂昌信もまた奮戦虚しく身体に数十本の矢を受け、まるで「弁慶の仁王立ち」のように立ったまま壮絶な最期を遂げ、やがて他の将兵らも全滅したのであった。



◇◇◇



数日後、小山田信茂と穴山梅雪斎は勝頼の首を得ることはできなかったものの、武田家を滅ぼすという大きな勲功を手土産にして、織田家に降伏臣従を願い出た。


しかし、重臣の地位にありながら土壇場で主君を裏切ったことが織田信長の逆鱗に触れた。信茂と梅雪斎は謀反人として一族郎党諸共、甲府で磔刑に処せられると、甲斐の領民は武田家を滅亡に追いやった二人に憎悪と怨嗟の目を向け、石の礫を投げつけた。


武田家により戦続きの生活を強いられていた甲斐の領民であったが、それでも武田家が信濃や駿河を領国としたお陰で、以前よりも戦や税の負担が軽くなり、楽な暮らしができるようになっていたのだ。だが、武田家が滅んだという事実は甲斐国に深く影を落とした。武田家の威光、それを甲斐の民たちは誇りに思っていたのであろう。


しかしながら、多くの民が武田家の滅亡を悲しむ一方で、これからの織田家の統治に希望を持ち、顔に光を宿す者も大勢いたのだ。


そして、信長は小山田信茂と穴山梅雪斎を磔刑にして、武田家滅亡に対する憎悪を二人に向けさせることによって、今後の織田家による甲斐の統治を円滑にしようと狙った。


こうして新羅三郎義光以来の源氏の名家である甲斐武田家は滅亡し、小山田家の所領であった郡内は織田家の直轄地として接収され、甲斐国23万石は織田家によって制圧されたのであった。

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