甲州征伐⑦ 武田家の落日

大手門が破られてからは、まさに地獄絵図だった。


もはや戦ではなく、一方的な殺戮である。


だが、小諸城にいる城兵は一人残らず武田家に忠誠を誓った者ばかりであった。故に、武田の兵としての誇りを胸に、頑強な抵抗で最後まで身を挺して竹中軍の行く手を阻んだ。


眼下の惨状を見て、勝頼は顔面蒼白になっていた。無理もない。ここまで一方的な戦となれば、ここまで築いてきた武田家当主としての矜持もズタズタに引き裂かれよう。そして、勝頼は胸中で反芻する。


――私は何を間違えたのか、と。


稀代の謀将であり、小諸城を熟知する真田幸隆の手により堅固な守りを敷いており、戦に対する備えは現状では万全と言えるはずであった。例え勝てずとも、ここまで一方的な戦況になるとは予想だにしてはいなかった勝頼は、歯を食い縛り、涙を忍んで俯いた。


その瞬間、勝頼の頰に衝撃が走った。

勝頼は何があったのか一瞬分からず、恐る恐る視線を上げると、そこには生前の父・信玄が憤怒した阿修羅のような険しい顔で睨みつける武田信廉が立っていた。


「四郎よ! 武田の大将ならば、目の前の戦況から目を背けるではない! 兄上からもそう教わってきたはずだ。なぜ斯様な腑抜けた顔をする。斯様なお前は当主失格だ!!」


「お、叔父上!」


当主失格という烙印を押された勝頼は唇を青く染め、虚ろな目で視線を背ける。


「『逃げ弾正』よ。四郎を連れて城を出よ。この体たらくでは四郎は死ぬにも値せぬ。もはや武田は終わりよ。ならば地の果てまでも逃げ、泥水を啜ってでも生き延び、武田の血を繋ぐのだ。甲越同盟を結んだ上杉ならば命までは取らぬだろう。お主が其奴を連れて北へ落ち延びるのだ」


「はっ? 刑部少輔様は如何なされるのですか?」


高坂昌信は信廉からの突然の命令に戸惑って問い返す。


「ふん、言わずとも分かるであろう。"武田信玄"は他国に落ち延びる訳にはいかぬ。この小諸城を枕にして死ぬだけよ」


「"御屋形様"。この『攻め弾正』も冥府への供をさせていただきまするぞ」


ニヤリと口角を吊り上げる信廉に、真田幸隆が言葉を掛ける。2人がこの絶望的な状況を楽しんでいるかのようにも見えた昌信は、恐ろしさから口を噤む。


「早う行け! 兵は連れて行けるだけ連れて行くのだ!」


「は、ははっ! "御屋形様"、ご武運をお祈りいたしまする。では、四郎様!」


昌信は信廉の威圧感に気圧され、項垂れている勝頼の腕を引いて足早に出て行った。


勝頼と昌信が一部の側近と約300の兵を連れて秘密の裏口から城を脱出すると、今や僅かな数となった武田兵に向けて信廉は最後の檄を飛ばす。


「皆の者、儂はこれより冥府に参る。『甲斐の虎』たる儂と共に参るという者は、儂の後に続け! 御旗楯無の底力、とくと見るが良い!!!」


「「「おおおおぉぉぉ!!!!」」」


武田信廉は最後まで“武田信玄”を貫き、城兵を鼓舞する。気高き誇りを胸に一心不乱に槍を振るうその姿は、まさしく戦国最強とも恐れられた武田信玄の勇姿そのものであった。


しかし、多勢に無勢、一刻後には竹中軍の総攻撃により真田幸隆や望月印月斎らは奮戦虚しく討死し、武田信廉は火に包まれた本丸で"武田信玄"として切腹して果てた。


こうして、ついに"武田信玄"の死と共に「小諸城の戦い」は幕を閉じ、竹中家は佐久郡6万石を手中にしたのであった。




◇◇◇





チュン、チュン、ピッ、ピピッ、ピッ。


小鳥の囀りが耳をくすぐると、勝頼は微睡みから目を覚ました。


辺りを見渡すと、傷だらけの兵ばかりで血の気が引くような感覚に苛まれるが、それも一瞬のことであった。


次第に意識が鮮明になっていく中で、勝頼はこの山中にいる理由を思い出し、何度目か分からない自嘲を再び胸に刻み込む。


(あぁ、そうか。叔父上に叱咤された後、昌信に連れられて小諸城を脱出したのであったな)


2日前、勝頼は信廉や幸隆の最後の奮闘のおかげで、小諸城から辛うじて落ち延びることができ、今は逃避行の山中で野営して朝を迎えていたのであった。


(だが、ここから捲土重来を期そうなど、夢のまた夢であるな)


誇り高き最強の武田軍も往年の武威はとうに失われ、今は見る影もない。父から受け継いだ武田家を守り切れなかったことに、勝頼は閑静の中で悔恨の涙を堪える。


「四郎様、お目覚めですか」


「釣閑斎、か。ここは一体どこだ?」


勝頼はまだ暗い西の空に星が瞬くのを儚げに見据えながら、側近の長坂釣閑斎に尋ねる。雲の切れ目から明滅する星々は、さながら今の武田家を表しているようにも感じられ、勝頼は残り僅かの儚い運命を受け止めようとしていた。


「ここは小諸城の南東、信濃との国境近くの上野の温泉の傍にございまする」


そういえば、昨夜は久々に湯に浸かって、山中の逃避行の疲れを癒したのを思い出した勝頼は、"南東"という言葉を聞いて訝しんだ。


「四郎様、お早うございまする」


高坂昌信が朝の挨拶にやって来ると、勝頼は疑問を投げ掛ける。


「弾正、ここは小諸城の南東の上野国に入った山中だと聞いたが、叔父上は『上杉を頼って北に逃げよ』と申したはずだが、なぜ南東にいるのだ?」


「四郎様。上杉は織田や竹中と同盟を結んでおりまする。刑部少輔様のお言葉に従えば、我らは上杉に捕らわれ、命はないと存じまする」


「……確かにそのとおりであるな。では、何処に向かおうと言うのだ?」


「甲斐東部の郡内でございまする。小山田家が治める郡内は、未だ織田は攻め寄せておりませぬ。越前守の力を借りて態勢を整え、さらには相模の北条を頼れば挽回は叶いましょう」


昌信は信濃との国境沿いの山中を南進し、奥秩父を経て「武田二十四将」の一人、小山田信茂が治める都留郡の谷村城に身を寄せる算段であった。


「『逃げ弾正』のお主が申すのであれば間違いなかろう。叔父上の無念もまとめて晴らさねばな」


そう言う勝頼の顔は全く晴れやかではなく、無理に作り笑いを浮かべていた。敗北に次ぐ敗北だ。要害山城に続いて小諸城でも結局、勝頼は何もすることができず、完膚なきまでに叩きのめされた。それでもそんな自分に付いてきてくれる家臣に、勝頼は不甲斐ない主君で申し訳ないと更に気を落とす。


昌信はそんな負の感情の悪循環に陥っている主君に居た堪れなくなり、目を逸らした。


「甲斐までは険しい道のりが続きますが、もう一息にございます。報告によれば、この先の山越えには織田の警戒はない模様にございまする。まずは一刻も早く郡内に入って、散り散りになった武田の遺臣を結集しましょうぞ」


「うむ、そうだな」


やはり生まれ育った故郷だからか、甲斐に戻れると聞いて、勝頼も心なしか気分が前向きになったように感じた。


今、勝頼に付き従う兵は、わずか300にも満たないほどである。さらには小諸城での“武田信玄”こと、信廉の死は、唯一の拠り所であった"信玄"が存命であるという希望を今度こそ打ち砕き、武田軍の将兵の心をへし折ったのである。


しかし、それでも勝頼は諦める訳にはいかなかった。たとえ僅かでも自分についてきてくれた兵のために、最後まで戦い続ける義務がある。そして、自分を逃がすために死んでいった信龍や信廉の最後の言葉を思い出し、勝頼は決意を新たに力強く立ち上がった。御旗楯無を再び輝かせんと志して。


だが、勝頼は知らなかった。信廉が「上杉を頼れ」と言ったのは、小山田信茂の忠誠心を信用していなかったためであり、「くれぐれも小山田信茂は頼るな」と伝えなかったのは信廉の痛恨の失策だったのである。

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