甲州征伐⑥ 小諸城の戦い

信濃国・小諸城。


4月の春のうららかな陽気とは裏腹に、小諸城はピリピリとした緊張感に包まれていた。諏訪郡から北進してきた竹中軍が、ついにその姿を城兵の視界に現したためだ。


だが、竹中軍は小諸城から東に半里(約2km)ほどの距離に陣を敷くと、3日間沈黙を貫いていた。全く攻め寄せる気配のない竹中軍の様子を本丸の最上階から覗いた武田勝頼は、眉を顰めて訝しんでいた。


「見張りに逐一報告させておりまするが、竹中に一切の動きはないとのこと」


「竹中は我らを誘い出しておるのか?」


高坂昌信が抑揚なく報告すると、腑に落ちない勝頼は真田幸隆に問いを投げ掛ける。


「我らの兵は2000余り。8000の竹中からすれば寡兵の我らが打って出るなどとは思うておりますまい。ならば、おそらくは兵糧攻めに持ち込むつもりかと存じまする」


軍師役の幸隆が予想される竹中軍の戦術を勝頼に説明する。


「されど、竹中は物見すら送っては来ず、何とも不気味ですな」


"信玄"役を務める信廉も竹中軍の動きを訝しむ。


「左様。この程度の距離ではいつでもすぐに攻めて来られます故、城兵たちは夜も気を抜く訳にも行かず、城兵に疲れが溜まったところを一気に攻め寄せて来ることも考えられまする。竹中半兵衛という男、噂には『今孔明』と聞いており申したが、なかなか一筋縄では行かぬ難敵かと存じまする」


さすがは幸隆である。半兵衛のもう一つの策を看破してみせると、勝頼や信廉、昌信としても半兵衛の知略は計り知れぬと悟り、一手先どころか、二手先を読みながら竹中軍の動きを休まず警戒せざるを得なくなった。幸隆自身も若い半兵衛に知謀で負ける訳には行かぬと並々ならぬ闘志を密かに燃やしていた。


すると、現状の武田軍のトップ4人の将の緊張感は城兵にも伝わり、小諸城はその後もいつでも竹中軍の城攻めに応戦できるように甲冑は身につけたまま、武器も手に添えたままで気の休まらない時間が延々と続くことになる。甲斐に進軍途中で織田軍が勝頼の策略によって決して少なくない被害を被ったのも、織田軍に油断と隙があったからである。それを念頭に置き、城兵は隙を作らず緊張状態の維持に努めたのであった。





◇◇◇






その後も竹中軍の不気味な沈黙は続き、戦況が動いたのはそれから5日後の早朝であった。


碓氷峠の南の山々の間から朝日がわずかに顔を出した卯の刻(午前6時)、4月中旬とは言え、山間部の信濃ではまだ肌寒い時期とあって、日本で最も長い川である千曲川の河岸に立地する小諸城は、千曲川から立ち昇る濃い朝霧に覆われていた。


5mほど先までしか見えない濃い霧に包まれたとあっては戦どころではない。竹中半兵衛も視界がはっきりしない中で戦うような、同士討ちになりかねない愚策を講じるとは思えない。そう考えた真田幸隆の思考にほんの僅かの隙が生まれた。隙といっても平時なら全く問題にならない程度の隙である。


そんな時である。濃霧に包まれた城内のどこかで叫ぶ城兵の声が響き渡った。


「か、火事だぁぁ!!!!」


誰が言ったかは分からない。初めは竹中軍の素破を使った攪乱戦術かとも考えた幸隆だったが、しばらくすると本丸にも霧とは明らかに色が異なる灰色の煙と焦げた臭いが流れてくるに至って、火事が起きたのは間違いないと理解する。


やがて、千曲川の断崖に接する城の西側で火の手が上がっていることが勝頼や幸隆の元に報告が入ると、一体どうやって火がついたのか、そんな思案に耽る暇もなく、武田軍の城兵は混乱の渦に飲み込まれようとしていた。


次の瞬間、今度は反対側の東の大手門から大きな轟音が鳴り響いた。半里先で布陣していたはずの竹中軍が、いつの間にか小諸城に攻め寄せて来たのだ。


そう、竹中軍は濃い霧の中、物音を立てずに小諸城との距離を少しずつ詰めていたのである。濃い霧で視界が悪い中では物音さえ立てなければ、敵に露見することなく軍勢が接近することは十分可能だったのだ。


小諸城の一兵卒に過ぎない城兵たちは火を消すのが先か、竹中軍の襲撃に応戦するべきか、判断しかねて慌ただしく城内を右往左往していた。さらには、幸隆が懸念していたとおり、半兵衛が放った素破によって偽情報まで流されて城内は大混乱に陥っていた。


というのも、濃霧に覆われている中を大軍が物音も立てずに半里先から移動して、統制を保って攻め立てられる訳がなく、実際には今、小諸城を攻め立てている竹中軍の兵の数は1000ほどで大して多くはないのだが、「火を放ったのは城内にいる内通者だ」などと素破による根も葉もない偽情報が次々と流され、城兵を惑わせていたのである。


そうこうしている内に徒に時間は過ぎていくばかりで、朝霧が少しずつ晴れていくに連れて、灰色の煙がモクモクと上がっているのは誰の目にも明らかとなり、城の西側の建物で紅い炎が這っているのが確かに目に映った。


しかし、半兵衛の指示による導火線の仕掛けは、素破によって城内の至る所に繋がっており、瞬く間に広がっていく火の勢いは弱まることなく、ついには火の手は消火が不可能なほどに燃え広がっていった。


火はただ燃えるだけではない。火事で最も恐ろしいのは「煙」である。最初は空高くに上って消えていた煙だったが、急に風向きが変わり、煙は小諸城内に蔓延していった。


さらに、この時代の城には専ら松の木が植えられており、それは小諸城も例外ではなかった。松の木が植えられているのは、松の実が籠城時の非常食になり得ること、松脂が傷薬の材料になること、松の枝が薪に使えること、という理由からであるが、その松の木は樹脂を多く含んでいるために一旦燃えると煙が出やすく、それがさらに小諸城の城兵たちを苦しめていく。


城内にいた城兵は煙によって目と鼻と喉をやられ、止めどなく流れ出す涙と咳き込む喉に苦しめられ、ついにはまともに息をすることもできなくなった。これではもはや戦どころではない。小諸城の城兵は刃で物理的に息の根を止められるのではなく、煙による一酸化炭素中毒により苦しみもがくことなく、次々と倒れていった。


さらには、大手門には後続の竹中軍が攻め寄せると、圧倒的な兵数差を前に武田軍は全くの無力となり、火事による混乱も相まって大手門は瞬く間に打ち破られたのであった。

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