甲州征伐⑤ 今孔明の計略
信濃国・望月城。
4月中旬、諏訪郡から東山道を北東に進軍し、佐久郡に侵攻した竹中軍8000は、小諸城の南10kmほどにある望月城に入城していた。
望月城は望月印月斎が城主を務める東山道沿いの山城であったが、竹中軍の侵攻を知った印月斎が城を放棄し、小諸城の武田軍に合流したために空き城となっていたのだ。
竹中半兵衛は望月城の城主の居室でしばしの休息を取って行軍の疲れを癒しながら、堅固な小諸城に籠る武田軍を打ち破る策を練っていた。
「兄上、小諸城は如何して攻め落とすおつもりですか?」
半兵衛の弟である竹中重矩の声は、思案に耽る半兵衛を現実に引き戻した。
「久作よ、お前ならばどう考える?」
もちろん圧倒的な兵力差により、力攻めでも落とすのは十分可能であったが、今後の関東での戦のことを考えれば、できるだけ兵の無駄な損耗は避けたいところである。
如何に少ない損耗で効果的に城攻めを行うかで頭を悩ませていた半兵衛は、半ば気分転換をする体で重矩に問い掛けた。
「小諸城は千曲川の断崖絶壁の河岸に築かれた難攻不落の堅城です。まともに攻め落とそうとしてもかなりの時間と損害が必要になりましょう。ですが、恥ずかしながら私には小諸城をどうすれば攻め落とせるかの考えは思い浮かびませぬ」
既に滅亡寸前に追い込まれているとは言え、相手はあの武田信玄の嫡男・武田勝頼だ。史実では信玄の「死後3年は内政に努めよ」という遺言に背いて他国に積極的に侵攻し、武田家の最大版図を築いて『強すぎたる者』と称されたほど、武田家当主としての力量は信玄にも決して見劣りしない武将である。
信玄の期待と重圧から解放された勝頼は、甲斐に進軍する織田軍に対して奇襲を仕掛けるなど、人が変わったように自ら積極的に動いており、半兵衛にとっても決して油断できない相手であった。
さらに小諸城の城主は"あの"真田幸隆である。幸隆は、武田信玄が「戸石崩れ」で敗れた村上義清の居城・戸石城を翌年、謀略によって寡兵で落城させた稀代の知将であり、半兵衛にとっては心中で密かに"師"と仰ぐ将であったのだ。生半可な策では兵数に勝る我が軍が大きな痛手を受けて大敗しかねず、半兵衛は小諸城の攻略は幸隆との知恵比べであると考えていたのだ。
「武田軍は武田勝頼だけでなく、真田幸隆の知略は侮れぬ。このまま無策で籠城しようなどとは思ってはおらぬはずだ。ならば、我らは武田の策を超える策を弄しなければならぬ」
「左様でございますな。ですが、兄上。15間(約27m)ほども高さのある千曲川の断崖をよじ登って攻め入るなど無理かと存じます。やはり北側の正面から攻める策を練るしかないのではありませぬか?」
その時、半兵衛の頭にピンと響くものがあった。「千曲川の断崖からの攻城は不可能」という重矩のごく当たり前の言葉が、半兵衛の脳裏に引っ掛かったのである。
(重矩は何も間違ったことは言っておらぬ。武田の将兵も同様に考えているだろう。だが、はたしてそれは本当に"真実"なのか? 常識に捉われた思い込みに過ぎないのではないか? 大抵の物事には不可能などないのだ。策略とは敵の油断を突くのが上策である。小諸城の場合、常識的に不可能だと思い込んでいる千曲川の断崖から攻める策は、武田軍の盲点であり、油断を突くことになるはずだ。その常識を打ち破るにはどうすれば……)
重矩は急に黙り込んだ半兵衛を見て、何やら閃いたのだと察して、半兵衛が口を開くのをしばしの間黙って待っていた。
やがて、ようやく半兵衛は一つの妙案を思いつき、ニヤリと笑みを浮かべて重矩の目をジッと見据えた。
「久作は『赤壁の戦い』は知っているか?」
「はい、存じております。三国志で孫権と劉備の連合軍が曹操軍を打ち破る有名な戦ですな」
「ああ、そうだ。長江で連環の計と火計によって曹操軍の水軍の船団を炎上させて破った戦だが、私が思いついたのはそれの応用だ」
「応用、でございますか?」
「うむ。火計は古今東西、城攻めで最も有効な策の一つだ。一度火を放てば、そこは火の海と化す」
「つまりは火を放って小諸城を攻めるということですな? ですが、昨今の城は火攻めに対する備えがされて、燃えにくくできておりますぞ」
元来、日本の城は木造であるが、史実の戦国時代で火攻めにより落城した城がそれほど多くないことからも分かるように、漆喰や泥を塗り固めた漆喰壁や土塀といった対策によって、思ったほどは燃えにくい城が多かったのである。
そして、小諸城もまた当然のごとく、城主の真田幸隆によって火攻めの対策は念入りに施されていたのであった。
「久作の申すことは尤もだが、それならば燃えやすい物を間に介すればいい。油や松脂に浸した大量の麻縄を用意し、それを素破に命じて夜の間に城の壁から千曲川の断崖の下まで満遍なく網目のように垂れさせるのだ。そして、朝の霧が濃い時間に千曲川を船で下り、その麻縄に火を放って一気に炎上させる。さすれば、火は自ずと下から上に上っていき、小諸城は瞬く間に火の海と化すだろう」
「……兄上は誠に恐ろしいことを考えなさいますな」
重矩は鳩が豆鉄砲を食らったような表情を見せつつも、竹中家を美濃・飛騨の二国と信濃の大部分を収める大大名にまで成長させた兄・半兵衛に対して、心から尊敬と畏怖の念を覚えていた。
「それは誉め言葉だと受け取っておこう。だが無論、断崖をよじ登って小諸城に攻め入るのは不可能だ。故に部隊を2つに分ける。言いたいことは分かるな、久作?」
半兵衛は重矩の言葉に動じることなく、淡々と告げる。
「小諸城に火の手が上った時に我らの本隊が正面から攻め入るということですな。火事による混乱で敵の注意が千曲川側に向いた隙を突く策かと存じます」
「うむ、久作、そのとおりだ。燃え上がる火の手に混乱する小諸城に一気に攻勢を掛ければ、火を消すか、敵を食い止めるか、城兵は両方に気を取られて、まともに城を守ることなどできようはずもない」
「なるほど。斯様な策はいくら知将の真田幸隆と言えども予想できないでしょうな。兄上にはいつも驚かされてばかりですな」
重矩は感心したように腕を組み、うんうんと頷いている。
「だが、断崖に細工を仕掛ける策が敵に漏れてしまえば、全てが水の泡だ。これは"然るべき者"にのみ教え、他の兵には唯の攻城戦だとして周知させよ」
「はっ、承知しました」
どこに武田の透破が潜んでいるか分からない。安易に策を広めてしまえば、逆に利用されてしまう可能性もある。
然るべき者、とは即ち竹中家直属の精鋭部隊である。半兵衛の信頼を受けた者のみで構成された部隊であり、武田に漏れ出る心配は全くない。
半兵衛は重臣と精鋭部隊、そして素破に計画を伝えさせ、望月城の東を流れる千曲川の上流から小諸城に攻勢を仕掛けるよう命じたのであった。
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