甲州征伐③ 守護神と鬼柴田の死闘
日付が変わった丑の刻(午前2時)。一条信龍は月明りの下、無人となって静寂が広がる要害山城の本丸から、すぐそこにまで迫る眼下の織田軍の陣影を見つめていた。
「兄者、間もなくそちらへ参りまするぞ」
異母兄弟でありながら信繁と並んで信玄から最も信頼されていた信龍は、幼少の頃から兄の信玄を父のように慕い、心酔していたのである。
既に一刻前、織田軍が寝静まる間に、勝頼は城兵3000を率いて一切の物音も立てずに信濃へと退却していった。
要害山城は南から本丸に通ずる攻め口が一つしかなく、籠城する武田軍はそこに戦力を集中させることができたため、これまでの1ヶ月に及ぶ籠城戦にも耐え続けていたが、それも限界を迎えようとしていた。
信龍は未明に城より打って出て、織田軍と戦う算段である。信龍と共に城内に残った一条家の兵500は甲斐と共に生き、武田家に忠誠を誓い、武田家のためならば命をも投げ出せる覚悟を持つ者で構成されており、既に一刻後の捨て身の特攻に向けて準備万端整えていた。目に煌々と燃える忠義の炎は、信龍が信玄に対して宿すそれと同じであり、信龍は武田家のために残った家臣と盃を交わし、最後の別れを惜しんだ。
そして、東の空が薄っすらと明るくなった寅の刻(午前4時)。
「たとえ我らの命は尽きようとも、武田は決して滅びぬ! 武田のために命を捨てんという猛き者は、我の後に続けぇー!」
「「「おおおおおおおぉぉぉぉ!!!!!」」」
たとえ殿を引き受けたと言えども、信龍も無駄死にするつもりなど毛頭ない。信龍は声を張り上げて兵を鼓舞すると、要害山城の主郭から一気に駆け下り、後方に位置する信長のいる本陣に向けて捨て身の突撃を敢行する。
「皆の者! 気合いを入れよ! 狙うは信長の首である! 土足で甲斐の地を踏みにじった織田に目にもの見せてやるのだ!」
信龍は背後から喚声を上げながら追随してくる一条家の兵たちを、これまでになく頼もしく感じた。「人は城、人は石垣、人は堀、 情けは味方、仇は敵なり」 信玄の言葉を反芻し、ひたすらに織田の兵を切り刻んでいく。人心が一つに結集した信龍の兵500は、まさに一騎当千の“大軍”であった。
対する織田軍は圧倒的有利な情勢であることによる油断と、未だ陽の光も差していない未明とあって微睡んでいた兵が大勢いたために、応戦態勢を敷くのに時間を要した。中でも相当数の甲冑を脱いでいた兵たちは、抵抗する暇もなく命を散らしていった。
そして、信龍率いる一条軍500は、ついに信長のいる本陣の見える位置まで接近した。
「もう一息だぁぁ!!!!! 突っ込めぇぇ!!!」
信龍の兵は精強かつ意気軒高であったものの、ようやく態勢を整えた織田軍との圧倒的な兵数差を前に次第に劣勢に立たされつつあった。それでも信龍は一心不乱に槍を振るい、敵兵を討ち払っていった。
「身が朽ちようとも槍を振るい続けるとは、見上げた心意気よ。しかし、お前の槍は俺には届かぬ!」
本陣とはまだ30間(約50m)以上は離れていたが、信長が呟いた声は風に乗って信龍の耳に確かに届く。
「おのれぇ、信長ぁぁ!!! 舐めるなぁぁ!」
信長の言葉は決して嘲笑の意図ではなく、むしろ称賛の意を含んでいたのだが、本陣に控える信長の姿が信龍の視界に映ると、信龍たちの戦意はより一層高揚する。
しかしその時、突貫する信龍の前に一騎の影が立ちはだかり、信龍の行く手を阻んだ。
それは、織田軍随一の猛将で「鬼柴田」の異名を持つ柴田勝家、その人であった。
◇◇◇
「僅か500の兵で斯様な所まで来るとはな。武田にも気骨のある者がいたのだな。儂は柴田権六勝家。お主の名を伺おう」
勝家は一瞬の静寂と共に息も絶え絶えの信龍の目の前に立ちはだかり、心底驚いたように目を見開くと、一騎討ちの儀礼に則り名を名乗った。
しかし、信龍にとって目の前の柴田は信長を討つ邪魔でしかない。信龍の捨て身の吶喊の行動原理は、勝頼ら武田の一門衆を安全に落ち延びさせる、その一点のみであった。命懸けで守ろうとする自分が侮られている、その事実に信龍は感情を昂らせた。
「我は一条右衛門大夫信龍。お主にどうこう言われる筋合いなどない! だが、我は信長の首を取らねばならぬ。武田の威信に懸けてもな。お主は邪魔だ。そこを退け!」
信龍は気迫の籠った言葉で勝家を威圧するが、その程度の挑発で動じる勝家ではない。
「退けと言われて退くようでは、織田家の将は務まらぬのでな。いざ、尋常に勝負!」
そう言うと、勝家は背丈ほどもある長い槍を馬上で堂々と構える。辺りは尋常でない二人の武将の対峙によって異様な緊張感に包まれていた。
「うおおおおぉぉぉぉ!!!」
先に動いたのは信龍であった。槍による勇猛果敢な一振りは、勝家の卓越した手綱さばきと俊敏な身のこなしによって虚しく躱され、その直後に勝家の豪壮な槍が突き出される。
「はっはっは! なかなかやるではないか!」
自信の一撃を弾かれた勝家は楽しそうに高笑いをしている。
ーー冗談じゃない。
全力で槍を振るう信龍には笑顔を浮かべる暇などなく、勝家の余裕を信龍に悟らせる。
そして、それは焦りとなって表れ、信龍の顔を曇らせた。徐々に信龍の槍の振りは鈍くなっていき、勝家の攻勢に押され始める。
「どうした、どうした! お主はこの程度か? 期待外れだな!」
信龍の槍を弾いた槍の穂先から火花を飛ばしながら、勝家からそんな失望を口にされれば、信龍の武芸への自信は少しずつ失われていく。しかし、「武田二十四将」としての誇りは一切色褪せることなく、神々しく光り輝いて信龍の心を熱く燃やし続けていた。
「くくっ、く。お主が強いのはこうして槍を交えれば歴然だが、我にも負けられない意地がある。我には御屋形様の御加護が付いておる。お主に負けるなど、笑止千万!」
両者は再度激突すると、互角の競り合いを演じた。もはや勝家にも余裕など微塵も残っていない。むしろ劣勢を感じ取るほどであった。
激しく交戦していた両軍の兵は、いつの間にか手を止めて両者の戦いを固唾を飲んで見守っていた。この一騎討ちに勝利した方が勝ちを手にする。そんな空気さえ漂っていた。
そして、男と男の、力と力のぶつかり合いは、半刻にも感じられるほど長く続いたが、それも遂に終わりを迎える。
「うおおおおおぉぉぉ!!!!」
信龍は残り少ない力を振り絞り、鬨の声を上げながら最後の吶喊に全てを懸ける。その裂帛の気合いは豪胆な勝家が普段の余裕を全く保てないほどであった。初陣以来久々の武者震いに襲われた勝家は、信龍の渾身の一撃を受け止めんと槍を構えて駆け出す。
――ドスッ。
…………
……
しばしの静寂の後、信龍の身体が崩れる。勝家の槍が信龍の胴を深々と貫いたのである。
信龍は本陣手前のこの場所に来るまでの突撃によって既に疲労困憊であり、全身の痛々しい切り傷からは流血が甚だしく、勝家と一騎討ちする前から既に体力的に信龍が圧倒的に不利だったのだ。そんな状態で意識を保って「鬼柴田」相手に槍を交えていたこと自体が奇跡的だというのに、四半刻近くも持久戦に持ち込まれれば、勝家に分があるのは自明の理であった。
一方、そんな有利な立場で戦いながらも、勝家は震える手を止めることができなかった。相討ち覚悟だった信龍の槍も勝家の心の臓のすぐ上の左肩を貫いていたのだ。
命の炎が消えつつある信龍もそれに気づくと、儚げに口角を上げて告げる。
「我が人生で最高の一撃であった。お主のような強き
そう言い残すと、信龍は絶命した。力を失った信龍の身体を支えながら、勝家は静かに哀悼の黙祷を捧げると、信龍への尊敬の念を込めた勝鬨を腹の底から張り上げた。
「敵将、一条右衛門大夫、この柴田権六が討ち取ったりぃー!!!!!」
織田兵の喚声が轟然と鳴り響くと、本陣を目前にしながら満身創痍で必死の奮戦を続けていた一条兵の生き残りも敗北を悟り、信龍の後を追うように次々と自刃し、全滅したのであった。
そして、一騎討ちの決着が付くのを待っていたかのように東の稜線から陽光が戦場に刺し込み、左肩の傷が痛々しい勝家に信長が歩み寄る。
「権六よ、馬に助けられたな」
「はっ、上総介様。さすがは信玄の弟。真に恐るべき鬼神とも言うべき執念でした。危うく相討ちするところでしたが、馬のお陰で命拾いしてございまする」
実は二人の槍がお互いの胸を貫こうとする寸前、主の危機を察知したのか、勝家の馬が馬体を少し屈めたのだ。そのために勝家の槍は信龍の胴を貫き、信龍の槍は勝家の左肩に逸れて、相討ちを免れたのだった。
「であるか。『鬼柴田』をあわや、というところまで追い詰めたのは敵ながら天晴れだ。後々、祟られてもつまらん故、奴には『武田の守護神』の名を贈り、殉じた兵と共にこの地に弔い、祀るとしよう」
一条信龍の獅子奮迅の戦いぶりは信長から「武田の守護神」と称えられて、この地に建立された「武田神社」に祀られ、後世には一条信龍の名は武田信玄よりも広く知られることになるのであった。
一方、この戦いの後、もぬけの殻になった要害山城に入城した織田軍は、勝頼の逃走を知って追撃の兵を送ろうと試みる。しかし、信龍の捨て身の突撃が及ぼした被害は予想以上に大きく、織田軍は実に8日もの間、要害山城で足止めを食らうことになり、勝頼の佐久郡への逃走をまんまと許すことになるのであった。
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