甲州征伐② 一条信龍の覚悟
甲斐国・要害山城。
――飯富源四郎様、討死!
4月上旬、要害山城に籠城した武田軍と甲府を占領した織田軍との戦いが始まってから早一月。「武田四天王」の一人、飯富昌景が討死したという悲報が本丸の勝頼の元に届けられた。
昌景は「焼津の戦い」で殿を務めて討死した兄・虎昌の隊を引き継き、部隊の軍装を赤一色に統一した最強部隊「赤備え」を率いて勇猛果敢に戦い、昨日まで織田軍の将兵を恐怖のどん底に落として震え上がらせていた。だが、ついに今日、織田軍の鉄砲部隊に一斉射撃を浴びて壮絶な最期を遂げたと言う。
要害山城の城内に猛将・飯富昌景の死が広まると、明らかに城兵の士気の低下が見て取れ、もはや敗戦を覚悟した勝頼は、評定の間に信玄の死を知る重臣のみを集め、おそらく最後になるであろう陣中評定を始めた。
「兵糧はまだ半年は余裕で戦えるほどございまするが、頼みの綱であった飯富源四郎殿が討死された今、城兵の士気が落ちるのは明らか故、たとえ"御屋形様"が鼓舞しようとも、もはやこの城は持ちますまい。斯くなる上は要害山から北に伸びる山道を北上し、途上で西に折れて山越えを行い、佐久郡に向かうべきかと存じまする。佐久郡では小諸城で『攻め弾正』の真田弾正忠(幸隆)が守りを固めておりまする故、難攻不落の小諸城で態勢を整え、捲土重来を期すべきかと愚考いたしまする」
「新羅三郎義光様以来、武田家先祖代々の地であるこの甲斐を捨てて、信濃に落ち延びよ、と申すのか?!」
「武田四天王」最後の一人となった高坂昌信の非情な言葉に、甲斐の地で潔く死ぬのを当然のことと覚悟していた勝頼は、大きく目を見開いて昌信に問い返す。
「誠に悔しく存じまするが、躑躅ヶ崎館だけでなく、既に東の郡内を除いて国中の城は粗方落とされ、東光寺からは太郎様までも攫われ、甲斐国はもはや織田の"大うつけ"に奪われましてございまる。……さすれば、今の武田軍では到底奪還は無理にございまするが、四郎様は亡き御屋形様の血を引く武田家当主にございまする。ここで武田家再興を諦め、この城を枕に討死などされては亡き御屋形様に叱られまするぞ」
「……左様だな。斯様なところで犬死すれば、冥土で父上に怒鳴られるであろうな」
勝頼は「ふっ」と小さく笑いを漏らして同意する。
「つきましては、この中の者に殿をお命じくだされ」
「殿、か。やはりそれしかないか」
「逃げ弾正」こと昌信の言葉に、勝頼は悔し気に呻くように呟く。
勝頼にとっても、大を生かすために小を捨てる"殿"の重要性は理解していた。しかし、今まで武田家に忠誠を誓い、仕えてくれた家臣たちに殿を命じるのは勝頼には躊躇われた。勝頼は優秀な当主であったが、それと同時に人一倍人情に篤い人間でもあったのだ。
「殿を命じることなどできない」勝頼がそう口にしようとした時、右隣に座っていた一人の男が徐に声を上げた。
「織田の雑兵どもはこの我がお相手いたそう」
自ら殿を願い出たのは、「武田二十四将」の一人で信玄の弟である一条信龍だった。
「叔父上! 何ゆえに?!」
この場は上座に勝頼が座り、信龍とは反対側の左隣には信廉が控えている。部屋には信玄の死を知る信頼のおける重臣のみしかおらず、人払いをして決して内容が外に漏れないよう細心の注意を払っていたが、予想外の信龍の発言に勝頼はひと際大きな声を上げた。
「ふん。甥と武田家の大事だ。ここまで来て某もようやく腹を据えたのよ。1000、いや500の兵を残してもらえれば良い。明日の未明に城から打って出て、四郎の退却を手助けしようぞ」
信龍は本願寺や畿内の勢力との外交を担っており、機を読むことに長け、その沈着冷静で思慮深い性格から、史実では信玄から遺言で勝頼の後見人に任命されるほど信頼された武将である。
信龍は普段はあまり感情を表に出すことのない“武田らしからぬ”人間であったが、その分、人一倍熱い思いを胸に秘めていたのである。その証拠に、信龍は手を強く握ったことで掌が赤く腫れていた。
実は、信玄の死に最も責任を感じていたのは、この信龍であった。「焼津の戦い」の際に信玄が中陣に出ることを強く勧めたのは、他でもないこの信龍だったのだ。信玄が前線近くで檄を飛ばせば先鋒の士気も上がるはずだと考えての進言であったが、まさか遥か沖合いの船からの遠距離攻撃で信玄が討死するなどとは思いも寄らず、信龍は自分の過ちを長く引き摺っていたのである。
そんな悔恨の思いを秘めた信龍は、亡き兄・信玄へのお詫びに自身の命を賭した捨て身の突撃により時間を稼ぎ、せめて信玄の忘れ形見である勝頼の命だけは救わなければ、という一心から、こうして自ら“殿”に申し出たのであった。
「叔父上が殿を務めれば、ただでさえ崩れかけた武田家が一門衆を減らし、それこそ武田家の力が更に弱まるだけにございまする!」
勝頼は口から唾を飛ばして強く反論した。「武田四天王」の飯富昌景を失ったばかりだ。さらに今、信頼の置ける一門衆の信龍を見殺しにするなど、勝頼にはできなかった。
「待て、四郎。右衛門大夫。貴様、死ぬつもりであろう? 何ゆえだ?」
これまで黙っていた信廉が勝頼を遮り、まるで信玄のような威圧感で信龍に訊ねる。
「さすがは兄上、すべてお見通しでござるな。……実は焼津で御屋形様に中陣に出るよう勧めたのは某でしてな。某の進言のせいで御屋形様を、兄者を死なせてしもうたのだ! 故に某は早く冥土に行き、兄者にお詫びをせねばならぬのだ! 何卒お分かりくだされ……う、ううっ」
信龍は最後は俯いて、涙声でこれまで秘めていた思いを打ち明けた。
「父上が中陣に出たのは叔父上のせいではございませぬ。然らば叔父上が責めを負う必要はございませぬ!」
「四郎よ。されど、殿を残さずに退却すれば、皆犬死よ。某一人の命で四郎らが落ち延び、武田家の再興が叶うのならば軽いものよ」
「そのようなことを申しているのではございませぬ!」
「熱くなるでない、四郎よ。御屋形様の薫陶を受けてきたお主なら分かるはずだ。もはや勝ち戦の織田にとって、ここで狙うは武田の血を継ぐ者たちの首だ。四郎だけでなく、一門衆は一人残らず織田の兵の恰好の餌食となるであろう。適当な者を代わりに殿に据えたところで、織田の突破を容易く許してしまえば、四郎らの退却はすぐに織田に露見し、追撃されることになりかねん。そうなれば某どころか、四郎、お主まで小諸城に辿り着く前に犬死する羽目になるのだぞ?」
「ぐっ」
勝頼は言い返すことができなかった。信龍の言葉が的を射ていたのと、覚悟を決めた信龍の澄んだ目に宛てられ、勝頼は遣る瀬無くなって顔を俯かせてしまう。
「達者でな、四郎よ。これまで戦場で功を挙げる機会は少なかったが、某も武田家一門の一人よ。我が手で一人でも多くの織田兵を討ち取り、四郎らが落ち延びる時を稼いでみせようぞ」
そう言い残すと、信龍は他の重臣に目を向けることもなく、勝頼の返す言葉を待つことなく評定の間から立ち去っていった。
「ここは右衛門大夫に任せる他ないであろう。ああなった右衛門大夫は梃子でも動かぬ。冷徹で頑固というところは御屋形様にそっくりじゃ。四郎も良く知っておるであろう?」
信廉が諦めの表情で勝頼に告げる。
「……左様だな。叔父上の捨て身の覚悟を無碍にする訳にも行かぬ。こうなれば叔父上のためにも泥水を啜ってでも生き延びねばならぬな」
勝頼は暫く天を仰いで気持ちを整えた後、意を決して立ち上がると、これまで黙って見守っていた高坂昌信が告げた。
「左様。では、すぐに出立の支度を整えましょうぞ。いくら堅牢な要害山城と言えども、四郎様が退却した後は織田の大軍の前では長くは持ちますまい」
勝頼は要害山城に残っていた3500の兵から500の兵を信龍に預けると、深夜に残りの兵3000を率いて秘密の抜け道から要害山城を脱出し、佐久郡に向けて一路北進を始めたのであった。
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