甲州征伐① 武田勝頼の策略

甲斐国・甲府。


正月の松の内を過ぎてからの武田家の居城・躑躅ヶ崎館は、重苦しい雰囲気に包まれていた。


それもそのはずで、焼津での大敗以来、武田信廉を信玄の影武者として表向きの当主に据えていた武田家であったが、織田信長の策略により信玄の死の噂が領内に広まるにつれ、家中が噂の真偽とその出元を巡って混乱していたからである。


徐々に家中の統制力を失いつつある中、真の当主である勝頼はいっそ信玄の死は真実だと公表してしまえば事態は収拾するのではないか、という考えも頭の片隅を過ぎるが、すぐさまそれは愚策だと自ら否定していた。


なぜならば、未だ信玄の死を信じない領民は大勢おり、信玄の死を知ればそれこそ領民たちの間に絶望感が広まってしまう。そうなれば屈強で名高い武田軍の士気が低下するのは火を見るより明らかで、それは織田軍の侵攻を目前に控えた武田家にとっては自らの首を絞めるような行為だからであった。


一方で、信玄の死を専ら疑っているのは、信玄の死が御家存亡の危機に直結しかねない身分の高い武士階級である。表向きは平静を装いながらも、陰では入手した情報を出汁にして騒ぎ立て、余計な混乱を煽っているのだから厄介なことこの上ない獅子身中の虫たちであった。


中でも、史実の「甲州征伐」で武田家から離反した穴山梅雪と小山田信茂は、信玄の死を知らされておらず、信玄の弟である信廉が信玄と瓜二つであることを良く知っていた。その信廉が高遠城から退却してから行方不明であったため、2人は「武田二十四将」に挙げられる重臣でありながら、「御屋形様は影武者を務めている信廉であり、御屋形様はやはり亡くなられたのではないか」と半ば公然と口にする始末であった。


それを知った勝頼と信廉は、事態を収拾するため止むなく信廉が援軍に駆けつけた焼津で討死したと公表し、2月初旬に信廉の葬式を挙げざるを得なくなった。信玄として喪主を務めた信廉は"自分の葬式"の喪主をする羽目になって苦笑いしたが、それでもなお討死して2ヶ月も経ってから葬式を挙げたことに対して、穴山と小山田の2人の疑念は依然として燻り続けていたのであった。


そんな3月の上旬、武田家に追討ちを掛けるように躑躅ヶ崎館に凶報が伝えられる。


――織田軍が甲斐に進軍を開始。


西駿河を平定し、統治体制を整えた織田家が予想よりも早く、田植えの準備が始まる時期にも関わらず、当然の如く甲斐へと侵攻を始めたのである。そして、さらに悲報は続く。


――竹中軍が諏訪郡に侵攻、上原城城主・内藤修理亮様が討死!


ただでさえ織田軍相手だけでも敗色濃厚な今の状況で、甲斐の西の信濃・諏訪郡の守りを託していた「武田四天王」の一人である内藤昌豊が、竹中軍の侵攻により上原城で壮絶な討死を遂げたという報せが届いた。もはや武田家に対する求心力を失いつつある信濃の地をさらに削られ、西からも甲斐に攻め入られようとしている。


半ば予想されていた事態とは言え、信玄の死の噂でお互いが疑心暗鬼に陥り、家中の統制に四苦八苦している勝頼にとっては、嘆息せずにはいられない四面楚歌の様相を呈していた。


この絶望的な状況を変えられるのは、ただ一人しかいない。そう、“武田信玄”である。


信廉の"信玄"は赤い甲冑を身にまとい、生前の信玄が普段身につけていた物を全て同じように身につけ、躑躅ヶ崎館に集まった将兵を前にして立った。


「逃げ弾正」こと高坂昌信は信玄との別れ際に、形見の品を求めていたのだ。これは影武者が信玄ではないとバレないための細心の用心であったが、これが意外な効果を示す。


「皆の者、我等は信濃を失い、駿河まで失った。これ以上、我等が土地を失う訳にはいかぬ。『甲斐の虎』たる我、そして最強の武田兵は幾万もの苦難を勝ち抜いてきた。我らに織田の弱兵など恐るるに足らぬ!」


本物の信玄と全く変わらぬ威厳ある声色と立ち姿に、将兵はいつの間にか魅入っていた。


そして、沈黙を打ち破るひときわ甲高い声が上がる。勝頼に命じられたサクラの透破が、"信玄"が身につけている装飾から本物の信玄以外あり得ないと声高に叫んだのである。


その言葉に将兵はにわかに騒めき立つが、それを制したのはまたもや信玄であった。


「武田の屈強な戦士たちよ! 立ち上がれ! 生まれ育ったこの甲斐の地を守るのだ! 軟弱な織田兵など、我らが手で討ち倒して見せようぞ!!」


「「「えいッ!えいッ!応ォォォ!!!」」」


沈黙から一転、躑躅ヶ崎館は轟く鬨の声に包まれたのであった。


さすがは武田の血を色濃く継ぎ、信玄のすぐ側で育った弟である。将兵に檄を飛ばして将兵の沈滞した雰囲気を一変させた"信玄"の傍で、勝頼はそう実感せずにはいられなかった。いや、目の前の"信玄"が本物の信玄だと錯覚するくらい、信玄よりも信玄らしい立ち居振る舞いに、勝頼は思わず武者震いをしていた。


そして勝頼は決意する。「必ずや織田を打ち破り、この館に凱旋してみせる」と。勝頼が予感していた暗い未来など、喚声の中に疾うに消えて無くなっていた。


「人は城、人は石垣、人は堀、 情けは味方、仇は敵なり」戦国乱世においては何よりも人心を掌握することが重要であり、熱い情を以って接すれば人は強固な城が如く国を守護する。人の力あってこその城、情あってこその人なのである。


信玄から寵愛され、そのように薫陶を受けてきた勝頼にとって、目の前の光景はまさしく信玄の言葉を体現しているかのように思えたのであった。





◇◇◇




躑躅ヶ崎館の北・要害山城。


武田家の居城である躑躅ヶ崎館は甲斐国の政治・経済・文化の中心地として繁栄を極めていたが、その名のとおり政庁機能と武田家の居館としての性格の強い城館であり、堀はあるものの防御力においては乏しい平城であった。


故に、信玄は有事の際には躑躅ヶ崎館の北の要害山に築いた要害山城に逃げ込む算段として、万一の場合の手筈を整えていたのである。これも信玄が一代で築き上げた領国全体を要害に作り変えるという戦略に基づいたものであった。


1万5千と目される織田軍に対して、焼津の大敗から兵力が回復していない武田軍は4千ほどしかない。いくら最強の武田騎馬隊を有するとは言えども野戦を挑むのは勝算は低く、勝頼は無謀だと判断せざるを得なかった。


そうであれば防御力の低い躑躅ヶ崎館で籠城するよりも、詰城である要害山城での籠城で徹底抗戦するのが当然の戦略であった。


しかし、勝頼は織田軍の侵攻をただ大人しく待ち受けるつもりはなかった。亡き信玄ならばどのような行動を取るかを念頭にして、勝頼は頭の中で策を何度も組んで考え抜いた。


甲斐は山間部が多く、他国からの侵入は些か骨が折れる。主要な街道沿いには山城も多いため、一つ一つの城を落とすのに多くの時間を要するのも難点であった。


さらに、甲斐に敷かれている主要な街道は専ら幅は狭く、舗装状態が悪い道であった。これは信玄が敵の侵攻を妨げるためにわざと施した工夫であった。


勝頼は亡き父が遺した“遺産”を使い、織田軍が甲府に辿り着く前に少しでも織田の兵を削り、弱体化させる戦術に出る。

織田軍は北条家が治める富士川以東の東駿河を手に入れてはいない。したがって、甲斐に侵攻するには富士川沿いの身延道を通るしかない。当然ながら舗装されていない狭い山道となれば、1万5千もの大軍勢が通るには隊列が細長く伸びざるを得ず、織田軍の進軍は非常に時間が掛かる緩やかなものになるはずであった。


勝頼は狭い山道である身延道の両脇に精鋭の透破たちを伏せさせ、織田軍が通過するのをひたすらに待たせた。そして、透破は織田軍の隊列の背後を音もなく襲い、一人ずつ手に掛けていったのだ。その手際は織田の兵が自分が死んだことに気づかないほど見事であり、これは「兵法三十六計」の第十二計、“手に順いて羊を牽く”「順手牽羊」の計略であった。


さらに勝頼は、織田軍の兵糧を運ぶ荷駄隊を奇襲させ、兵糧を焼かせた。これは「兵法三十六計」の第十九計、“釜底の薪を抽く”「釜底抽薪」の計略であった。


いずれも相手が大軍故に有効なゲリラ戦術である。狭い山道で隊列が細長くなれば、後方の統制は疎かになりがちで、横合いからの襲撃には弱くなってしまい、隙ができたところを突くという、織田軍から見れば用心しても完全に防ぐのはなかなか難しい戦術だ。


武田の精鋭の透破たちは織田軍が深夜の就寝している間にも、一人ずつ自然に兵を消していった。織田軍の進軍中に武田の透破が葬った兵の総数は、200人にも上ったのであった。



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