義信救出② 武田家との決別

「!! ……喜兵衛か。なぜ斯様な場所に来た?」


「太郎様、武田家は今、御家存亡の危機に瀕しておりまする」


「今さら武田に戻って戦えと? 3年半も幽閉された身で父上と四郎の尻拭いする気など毛頭ないわ!」


義信は吐き捨てた。今は写経と座禅で精神の平静を保てているが、東光寺に幽閉された始めの頃は自暴自棄になり、自害を考えたこともあったのだ。


だが、それも仕方のないことだ。義信は自らの正義を貫くために当主である父親に反抗し、廃嫡という憂き目を見た。決して間違ったことはしていないはずなのに、戦国の世の習いだと都合の良い言葉で言い包められてしまった。義信の感じた悔しさや無力感は想像を絶するものであったに違いない。


「太郎様、何も武田に戻れ、などと申してはおりませぬ」


「ほぅ、では何が言いたいのだ?」


義信は貧乏ゆすりで苛立ちを露わにしながら、喜兵衛に問い質した。


「御屋形様でも成し遂げることのできなかった天下を、寺倉家に身を寄せ、この手で掴み取るのです。寺倉家には太郎様の御祖父、無人斎道有様も仕えておられまする。また、今川家の当主、彦五郎殿もおられまする。亡き御屋形様の無礼を謝罪することも叶いましょう」


「喜兵衛、今何と言った? 父上がお亡くなりになっただと? それは真か!?」


義信は喜兵衛の胸ぐらを掴んで問い詰める。


「……ご無念にございまする。御屋形様は焼津での寺倉家との戦に敗れ、討死なさいましてございまする」


「父上の時代は終わったのか。……喜兵衛よ、お主は俺に寺倉家の傘下に入り、寺倉伊賀守殿の下で天下を目指せ、そう申すのだな?」


「左様にございまする。寺倉家は余所者を疎んじる武田家とは違い、才に優れ、功績を挙げた者を高く評価する家柄とのこと。太郎様ならば無人斎道有様のように、すぐに寺倉家で確固たる地位を築けるかと存じまする」


「御祖父様か。御祖父様には幼き頃によく可愛がってもらったな。今思えば、それが父上の不興を被ったのやもしれぬな」


「……」


「くっくく、父上も御祖父様より早く討死されるとは、誠に無様な最期を遂げたものよな。今川との同盟を破棄し、周辺国から孤立する策ばかり採り続けたのが仇となったな。やはり俺の考えは間違ってはいなかった。父上は自分で自分の首を絞めたのだ」


そう恨み言を口にする義信の言葉は、途切れ途切れだ。血の繋がりとは恐ろしいものである。いくら絶縁したとは言えども、憎いはずの父親の死に溢れ出す涙を止めることができず、星空を見上げて語る義信に、喜兵衛も目を瞑って黙って聞いていた。


暫く経ち、義信が落ち着きを取り戻すと、喜兵衛は見計らったように声を掛ける。


「太郎様、ここは敵地のど真ん中でございまする。ここから早く脱出しなければ敵に気づかれる恐れがございまする」


焦ったところで何も良いことはない。喜兵衛ははやる気持ちに歯止めをかけながら、義信を促した。


「そう言えば聞いておらなんだが、この寺の守りの兵もいた中で喜兵衛は如何ようにしてここまでやって来たのだ?」


義信はそんな疑問を口にする。


「それは私が寺倉家に仕官するのと引き換えに、太郎様を救出するための兵を寺倉伊賀守様からお借りした由にございまする。そして、この寺まで手を貸してくださったのは、寺倉家の重臣、藤堂源右衛門殿にございまする」


寺倉伊賀守という名前を聞き、義信は「さもあらん」と納得した。武田家の嫡男であった時から幽閉の身の今に至るまで、国人領主から瞬く間に武田を凌ぐ大大名に急成長した寺倉家の名前は幾度となく耳にした。「さすがは寺倉だ」とどこか晴れ晴れとした表情を浮かべ、義信は「ほぅ」と納得の長く息を吐いた。


「そうか……。俺のために苦労を掛けたな。それと藤堂源右衛門という名は、どこかで聞いた覚えがあると思えば、昔、御祖父様が寵愛していた家臣であったな。そうか、御祖父様の孫である俺を憐れんで力を貸してくれた訳か」


「それは違いまする。源右衛門殿は理不尽によって太郎様を廃嫡された御屋形様を許せず、此度の役目に真っ先に名乗りを上げてまで力をお貸しくださったのございまするぞ。その好意を無碍にする訳には参りませぬ故、ささっ、早う!」


喜兵衛は義信を促し、すぐに身の回りの物をまとめて東光寺の門を出ると、寺の外で待ち構えていた藤堂虎高の隊と合流した。

喜兵衛は当初の計画通り小笠原長時率いる騎馬隊に殿を任せると、織田軍と武田軍が明日にでも開戦しようとする甲府盆地の中央部を避けるように東に迂回し、笛吹川まで迅速に移動する。


敵国とは言え、真夜中である。何も妨げる者もなく、一行は笛吹川の河川敷に出ると、川並衆に用意させていた川舟に飛び乗り、笛吹川から一路南下を始めたのであった。




◇◇◇




藤堂虎高の隊が喜兵衛と義信を連れて出立したのを見届けてから四半刻が過ぎた頃、東光寺の門前で警戒していた小笠原長時は暗闇に向かって声を掛けた。


「半蔵殿、源右衛門殿と喜兵衛殿は如何しておられるかな?」


服部半蔵が音もなく、暗闇の中から長時の前に姿を現す。


「先ほど笛吹川に着き申した故、今は舟で南下しておる頃かと存じまする」


「左様でござるか。では、我らもそろそろ退却を始めなくてはならぬな」


長時の騎馬隊は藤堂虎高の隊の後を追うようにして笛吹川沿いを南下する針路を取った。ただし、決して虎高の隊に追いつくことのないよう、ゆっくりとである。


やがて東の空が明るくなり始めた払暁の頃、長時の騎馬隊50は後方から追走してきた武田の騎馬隊70と会敵する。武田の騎馬隊はもぬけの殻となった東光寺を見て、義信が連れ去られたことを察して、慌てて追って来たのだ。


しかし、長時は決して虎高の隊に追いつかせはせぬと、自ら鍛え抜いた精鋭の騎馬隊を以って立ち塞がる。


「我らの役目は時間を稼ぐことである! 決して武田の兵を先に進めさせるな! 我に続け!」


長時は早朝の静寂を切り裂くような裂帛の檄を轟かせると、自ら馬を走らせて先陣に立った。


「「「おおぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!」」」


将の檄に呼応するように、寺倉騎馬隊の精鋭たちも鬨の声を上げて辺りに響かせた。


長時率いる騎馬兵は、長時直伝の小笠原流弓馬術礼法を以って、周囲を囲むようにして一斉に騎射し、武田の騎馬隊を足止めするために全身全霊をかけて立ち向かったのであった。

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