寺倉・蒲生連合軍の奮戦
佐渡島は日本海の越後の北30kmほど沖合いに浮かぶ島であり、北に大佐渡山地、南に小佐渡山地が平行して走り、この2つの間に穀倉地帯である国仲平野が広がっている。
石高は雑太郡、加茂郡、羽茂郡の3郡合わせて2万石弱でしかなく、ただ20年前に鶴子銀山が発見され、露頭からの銀の採掘が開始されている。だが、日本屈指の金山である佐渡金山が発見されるのは史実では17世紀初頭であり、今は未だ発見されてはいない。
佐渡は越後の上杉家が支配していると思われがちだが、鎌倉時代に守護代として本間氏が派遣されて以来、300年以上に渡って本間一族が治めてきた国である。
その本間家は多くの分家に分かれ、惣領家の雑太本間家の他に河原田本間家、羽茂本間家、久知本間家、新穂本間家などが島内各地に領地を有しており、惣領家である雑太本間家が衰退してからは、北佐渡の河原田本間家と南佐渡の羽茂本間家が台頭し、両家を中核として佐渡島全域を巻き込んだ内乱が続いていた。
そんな戦国乱世の縮図とも言える佐渡島であったが、11月中旬に寺倉・蒲生連合軍が佐渡に侵攻すると状況が一変することになる。総大将を務める前田利蹊が全ての本間一族に降伏勧告を送ったところ、その内の沢根本間家が真っ先に臣従を表明したのだ。
沢根本間家は本間家の分家ではなく、在地の土豪が本間姓を名乗った家であったが、河原田本間家に任じられて鶴子銀山の採掘管理を任されていた。そして、国仲平野の南の真野湾に面する沢根湊は、銀の積出と銀山への物資搬入を行うための重要な湊として急速な発展を遂げた。しかし、やがて河原田本間家と沢根湊の利権を巡って対立するようになると、力で劣る沢根本間家は徐々に劣勢に立たされていた。
そんな時の寺倉家からの降伏要求だ。畿内にも進出して100万石を優に超える大大名の寺倉家の名前は、越後の上杉家が同盟を結んだ家として佐渡島まで届いており、僅か2万石しかない佐渡の国人領主が束になっても到底及ばないのは明白である。
沢根本間家にとっては劣勢の内乱に身を置き続けるよりも、大大名の庇護を受けて敵対する河原田本間家を打倒する方が遥かに御家安泰のためになる。苦境にあった沢根本間家にとって降伏勧告はまさに渡りに船であり、寺倉家は天の助けであったのである。
「沢根本間家の当主、本間高秀でございまする。我らは寺倉家に降伏し、臣従いたしまする。寺倉家の佐渡平定の御役に立つため、本間一族の御家事情をお伝えし、道案内を務めさせていただく所存でございます故、何卒領地を安堵いただきたくお願い申し上げまする」
「うむ。私は大将の前田利蹊と申す。降伏勧告の文にも書いたとおり、我らに臣従し、佐渡平定に協力するのであれば、領地の安堵は約束しよう。では、まずは河原田本間家についての説明と河原田城への案内を頼むとしよう」
「ははっ、ありがたき幸せにございまする」
総大将の前田利蹊が沢根本間家の当主・本間高秀の降伏臣従を受け入れると、寺倉・蒲生連合軍は沢根湊から上陸を果たし、すぐさま北佐渡を治める河原田本間家の居城・河原田城へと2500の兵を以って進軍したのである。
河原田本間家の当主・本間高統は「余所者に佐渡を渡すな」と兵を鼓舞し、河原田城の城兵は高い士気を以って戦いを繰り広げた。頑強な抵抗によって寺倉・蒲生連合軍は予想外に苦戦したものの、10倍の兵を誇る寺倉・蒲生連合軍の前には為す術もなく、10日間の攻城戦の末に河原田城は落城に至り、本間高統は討死した。
そして、佐渡で最大勢力の河原田本間家が打ち破られたのを見るや否や、本間一族の惣領家としての権勢を失っていた雑太本間家を始め、久知本間家や新穂本間家、潟上本間家はもはや勝ち目はないのを悟り、慌てて降伏臣従した。これにより佐渡で抵抗を続けるのは、南佐渡の羽茂本間家だけになったのである。
◇◇◇
羽茂本間家の本拠は佐渡島の南端に位置する羽茂平野であり、羽茂平野は『羽茂太郎』と称されるほど肥沃な土地であった。それに加えて、砂金が産出される西三川と南佐渡最大の河湊・宿根木浦を抱えていたことにより、羽茂本間家は河原田本間家と並んで佐渡国最大の勢力となっていた。
さらに羽茂本間家の居城・羽茂城は佐渡国最大の山城であった。寺倉・蒲生連合軍は降伏した本間一族の兵を使って周囲の支城を落としながら、羽茂本間家の当主・本間高信の守る羽茂城に攻め寄せた。
羽茂本間家は1509年に上杉輝虎の実父で「天下無二の奸雄」と呼ばれた長尾為景が越後を追われ、佐渡に一時亡命した際に為景の復権を助けた経緯から、その後に本間高信は為景の姪を妻としており、上杉家とは友好的な関係を維持していた。
しかし、上杉家と同盟を組む寺倉・蒲生連合軍が佐渡に侵攻してきたと聞くや否や、本間高信は「話が違う」と怒り狂った挙句、徹底抗戦する方針を固めた。
高信は寺倉・蒲生連合軍が攻め入る前に、砂金で得た富を用いて宿根木浦から兵糧を買い集め、長期の籠城戦にも耐え得る豊富な物資を備え、即席ではあったが、門の補強など堅い守りを敷いたのであった。
寺倉・蒲生連合軍は羽茂城を力攻めで攻め立てた。長期戦になれば自軍が不利だと分かっていたからである。寺倉・蒲生連合軍と言っても多くを占めるのは蒲生家の兵であり、佐渡の冬には慣れていない。佐渡は越後ほどの豪雪ではないが、小氷期の戦国時代であれば南近江の積雪とは比べるまでもない。佐渡で冬を越すのは不可能だと兵の誰もが意識にあったのだ。
一方、羽茂本間家は圧倒的な兵数差にも決して引けを取らず、何とかして積雪が多くなる時期まで粘り切ろうと、戦意では寧ろ上回っていたと言っても良かった。
積雪はまだ僅かなものの、寺倉・蒲生連合軍の総大将・前田利蹊と副将・蒲生忠秀は羽茂本間家の頑強な抵抗に焦っていた。しかし、年越しまで後20日を切ったところで救いの神とも呼べる存在が舞い降りた。
寺倉家当主である寺倉正吉郎率いる、南蛮船を中心とした志摩水軍の船団が宿根木浦に姿を現したのである。援軍到着の報に寺倉・蒲生連合軍は、喜色満面の笑みを浮かべる者や深い安堵の息を漏らす者たちの歓声で溢れていた。
一方、羽茂城では宿根木浦に敵の援軍が到着したと知った城兵の顔色は、寺倉と蒲生の兵とは対照的に絶望と悲嘆で青く染まっていた。
10年足らずで小さな国人領主から150万石の大大名にまで伸し上がった寺倉正吉郎蹊政という男の武功は、佐渡の一兵卒の耳にも轟いていた。もちろん中には「その武功は大きく誇張されたもので、実際は大したことなどないのだ」と声高に語る者もいたが、しばらく後にはその武功が真実であることを、羽茂城の城兵は思い知ることになるのであった。
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