表裏比興の者との邂逅

信長に信玄の死を伝えた翌日、佐渡への出航を明日に控えて、俺は「焼津の戦い」で捕虜とした武田の将の一人を指名して呼び出した。


この時代にジュネーヴ条約なんて存在しないから捕虜の待遇は過酷だ。尋問は拷問だし、逆らえば殺される。史実で松平竹千代と人質交換された信長の庶兄・信広のように人質の価値があったり、実家や主家が身代金を支払って買い戻してくれればいいが、そうでなければ奴隷として売られるか鉱山などで一生働かされるのがオチだ。


俺がそんな捕虜の一人とわざわざ会見する理由は、捕虜の名簿の中に"武藤喜兵衛"の名前を見つけたからだ。


「武藤喜兵衛と申しまする」


目の前の武藤喜兵衛は落ち着いた様子で座っていた。少し細身の体で年上の俺を値踏みするような鋭い目つきで見つめ、肝の座った度量が感じ取れる。さすがは"真田昌幸"だな。


史実では「長篠の戦い」で長兄・信綱と次兄・昌輝が討死したため、武藤家に養子に出ていた三弟の喜兵衛が真田家を継ぐことになる。武田の滅亡後は独立し、その比類なき知略を駆使して織田、上杉、北条、徳川といった大大名を相手に一歩も引かずに渡り合い、豊臣秀吉から「表裏比興の者」と称されたほどの武将で、かの有名な真田幸村の父でもある。


喜兵衛はもはや武田家に戻ることは叶わぬと割り切り、今後の身の振り方を見据えて、俺が仕えるに足る人物かどうか、見定めようという魂胆なのだろうか。


「寺倉伊賀守だ。貴殿に聞きたいことがあってな。こうして呼んだ訳だ」


もちろん寺倉家では尋問と言っても拷問は厳禁だし、喜兵衛は丸腰の状態で、俺の身の安全を期すために部屋の外には慶次郎ら護衛が警戒している。


「寺倉伊賀守様。お言葉ですが、私は武田家の内情を話すことはございませぬ故、尋問は無駄にございまする。ご不満ならばここで叩き斬られても構いませぬ」


まずは武田家への忠誠心を示し、信用してもらおうという意図だろうか。喜兵衛は俺が自分を斬るはずはないと読み切った目で、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。


「無論、貴殿を斬るつもりなど毛頭ない。喜兵衛殿は元より武田家に戻る気などなかろう? 武田家はもはや風前の灯だ。今さら甲斐に戻ったところで泥舟に乗るようなものだ。情勢の変化に機敏な貴殿ならば、沈みゆく武田家を見切る覚悟は疾うに固めているはずだ。違うかな?」


喜兵衛は表情を一切変えることはないものの、俺が言ったことが図星だったのか、息を詰まらせたように奥歯を噛み締めて口を噤んだ。


「……」


「私は無理に聞き出すつもりはない。どうしても話したくないのであれば構わぬ。まずは私が"問い"を投げ掛ける故、答えてもらいたい」


喜兵衛は何の戯れ言を言うのか、という顔をして沈黙を貫いた。まぁ、部屋の外には多くの護衛が控えている状況で、嘘偽りを言う気概を持つ者などそうそういないだろう。


俺はそれに落胆する訳でもなく、さも当然と言うように喜兵衛に“ある事実”を問い質した。


「先の『焼津の戦い』で武田信玄殿は討死し、今の武田家では弟の信廉殿が影武者として偽りの当主として振る舞い、信玄殿の死を秘匿している。違うか?」


俺の言葉に喜兵衛は初めて動揺の色を露わにした。やはり望月吉棟が報告したことは本当だったようだな。


「なぜそれを……!」


「そればかりは言えぬな。我が寺倉家の優秀な素破による賜物だ、とだけ言っておこう」


「……では、太郎様がどこにおられるかをご存知ではございませぬか?」


太郎? 武田義信のことか? なぜ今その名前が出てくるのか? それを考える前に喜兵衛の口から答えが発せられた。


「伊賀守様ならばご存知とは存じまするが、太郎様は3年前に御屋形様に廃嫡され、甲斐のどこかに幽閉されていると聞き及んでおりまする。太郎様がどこにおられるのか、ご存知ではございませぬでしょうか?」


なるほど。喜兵衛は信玄には面従腹背と言えるが、次期当主だった義信には忠誠を誓っていたということか。言葉の節々から義信を案じている思慕が感じ取れる。


「貴殿は確か信玄殿の『奥近習六人衆』の一人だったはず。その貴殿が廃嫡された太郎殿の救出を乞うのには、いささか驚いたな」


「……」


忠誠を誓う義信が廃嫡され、幽閉されたとなれば、主君である信玄に不信感を持つのも当然かもしれないな。さて、どう答えるべきか。


「知っておるぞ。だが、それを知ったところで捕虜の身の貴殿が一体どうするつもりだ?」


「なんと……! ご存知でございましたか。伊賀守様、捕虜の身で誠に図々しいこととは存じまするが、どうか太郎様をお救けいただけないでしょうか? 生憎、対価になるものは今はございませぬが、必ずやお返しいたしまする!」


喜兵衛はそう言うと、俺に平伏して頼み込んだ。


「いや、一つだけあるぞ。貴殿自身だ。喜兵衛殿、当家に仕えてはみぬか?」


「……左様ですか。では、我が身を差し出し、寺倉家に誠心誠意お仕えする所存にございますれば、どうか太郎様の救出に兵をお貸しいただけないでしょうか?」


よくよく考えてみれば喜兵衛ほどの武将がこうも簡単に捕らえられたのも変だ。無論、御家存続のためでもあるのだろうが、もしかすると義信救出を頼むためにわざと捕らえられたのかもしれないな。もしそうだとすると、喜兵衛の義信への忠誠心と一か八かに賭ける勝負度胸には驚かされるな。


「そうか、仕えてくれるか。貴殿の決意のほどは良く分かった。では、我らは明日、海路で出立する予定だが、太郎殿の救出のための隊を残すことにしよう。来春の織田殿の甲斐攻めの際に、貴殿が甲斐までの道案内をして太郎殿を救出すると良かろう」


場所が甲斐となると、土地勘のある藤堂虎高と、武田に一矢報いんと願う小笠原長時の2人の隊を残して救出作戦を任せることにしよう。


「誠にかたじけなく存じまする。では、太郎様は一体どこに幽閉されておられるのでしょうか?」


喜兵衛は真剣な眼差しで俺を射抜いた。義信への忠誠はもはや疑う余地はない。俺は静かに首肯すると、喜兵衛に告げた。


「ふむ、太郎殿は甲府の東光寺に幽閉されていると耳にしておるぞ」


東光寺は甲府五山の一つで信玄の庇護を受けて再興された寺である。史実では義信はこの寺に幽閉された後に自害させられ、墓所が残っている。おそらく史実と同じ場所に幽閉されているのは間違いないだろう。


「なんと、お膝元の東光寺でございましたか! 確か、四郎様の祖父である諏訪刑部大輔殿も、東光寺に幽閉された後に自害されたと聞き及んでおりまする。まさか御屋形様は太郎様も同じ定めにされるおつもりであったのか!」


「無事に太郎殿の救出が叶った暁には、ここ駿府に志摩水軍の船を残しておく故、残した隊と共に近江の統麟城まで来るがよい。もし救出した太郎殿も寺倉家に仕官を望むならば、喜んで召し抱えるとしよう。よいな」


あの真田昌幸が家臣となるのならば、どんな対価よりも大きい無二の財産となる。さらに義信も救出できれば家臣に迎え入れることが出来るかもしれない。


「誠にありがたきお言葉にございまする。この御恩はこれからの滅私奉公にて必ずや報いらせていただく所存にございまする」


喜兵衛は感無量の様子で、僅かだが目尻に涙を浮かべていた。


こうして、史実の真田昌幸こと、武藤喜兵衛が寺倉家に臣従し、来春に義信救出のため甲斐に向かうこととなったのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る