焼津の戦い① 海路の援軍

「正吉郎様、もうじき安濃津に着きまする」


11月中旬、信長から援軍派遣の要請を受けた俺は、すぐさま兵を率いて統麟城を出立すると、東ではなく南下して甲賀郡から東海道と伊勢街道を通り、海沿いを安濃津に向かっていた。


「うむ。頼んでおいた志摩水軍の船は用意できておるか?」


俺は光秀に訊ねる。今回の織田への援軍は、ただの援軍ではない。俺は単純に万の大軍を派遣するのではなく、志摩水軍を用いて援軍を派遣することにしたのだ。


「はい。小浜真宗に命じ、志摩水軍が持つ安宅船と、博多で入手して補修した南蛮船を手配してございまする」


その理由としては、第一に船ならば援軍を早く送ることができるためであり、第二に武田には水軍が存在しないためである。


史実では1571年に武田水軍が創設された際に将として招聘されたのが、九鬼嘉隆に志摩を追われた小浜景隆であった。だが、この世界では小浜景隆は俺の家臣だ。だから、現時点で武田は海のある駿河国を得たというのに水軍を持っていない。


したがって、長く内陸の地だけを治めて水軍を用いた戦など経験がなく、水軍を持たない武田にとって、水軍を用いた作戦は武田の最大の弱点となるという訳だ。


当然、信玄も経験はないはずだが、万が一にも水軍の接近がバレてしまえば信玄のことだ。思いも寄らないような策謀の一つや二つは思いつくかもしれない。


俺は武田軍を撹乱するためにも織田軍には武田軍と正面から戦ってもらい、信玄の目を逸らしてくれるよう、信長に作戦は伝達済みだ。


「ご苦労。申し付けたものも用意できているな?」


「委細問題ございませぬ」


「よし。では安濃津で一泊してから翌朝出航する。準備を怠るなと皆に伝えてくれ」


「はっ」


この辺りの海岸は緩やかな砂浜が南北に長く続いており、その砂浜には今年初めに俺が教えた流下式塩田が広がっていた。もう冬が近いが、日照量が落ちても流下式塩田ならば製塩は十分可能ということで、製塩も順調に進んでいるようだ。


砂浜の向こうに伊勢湾を挟んで微かに見える知多半島は、夕陽を反射する海の波と相まって抒情的な光景を映し出していた。


安濃津に到着すると、新たに伊勢国司の城館として築き上げた安濃津城が、立派な外観で威風堂々とそびえ立っていた。


史実では、今俺の小姓を務める藤堂高虎が築いた安濃津城だが、俺は史実に倣って北を流れる安濃川と南を流れる岩田川を天然の外堀として利用し、二つの川に挟まれた中央部に安濃津城を築かせた。


そして、俺は安濃津城の海寄りの東側に町人町、西側に武家町を配置し、町人町に伊勢街道を引き入れることで安濃津を繁栄させるよう目論んだ。


伊勢国を制圧して1年と数ヶ月。安濃津は「明応の大地震」の津波によって受けた大打撃を思い起こせないほどの隆盛を取り戻しつつあった。さすがは「日本三津」の一つに数えられた日本有数の湊だと感心せざるを得ないな。


僅かな期間でここまで復興を遂げたのも、嵯治郎と北畠家臣の努力の賜物だ。伊勢国はこれから遍く繁栄を享受するに違いない。


俺が安濃津城に到着すると、北畠家の家臣総出で出迎えられた。今や伊賀・大和・伊勢・志摩の4ヶ国を手中に治める寺倉家の当主となれば、出迎えは当然のことなのだろうが、正直言ってまだ少し感覚が追いついていない気はするが、こればかりは慣れるしかないな。


俺たち一行は大広間で盛大な宴で歓待を受け、嵯治郎と久しぶりの兄弟の会話に花を咲かせた。嵯治郎もようやく北畠家当主として伊勢国主が板についてきた様子で、北畠の家臣たちも若い嵯治郎を支えて盛り立ててくれている。


嵯治郎の正室である15歳の志波と側室の10歳の茅夜は姉妹のように仲が良く、嵯治郎は二人とも良い夫婦関係を築けているようだが、最近になって志波が懐妊したそうだ。嵯治郎は頻りに照れていたが、大変めでたいな。俺にとっては甥か姪になる訳だが、茅夜の息子に北畠家を継がせるため無用の諍いを避ける上でも、できれば女の子がいいな。


宴の後、翌朝の出航を案じて夜空を見上げると、天の川の煌めく満天の星空が広がっていた。町の灯りもほとんどないから本当に綺麗だな。俺はしばし星天を鑑賞した後、明日の晴天の予想に安心して早めに就寝したのであった。





◇◇◇





駿河国・焼津沖。


安濃津の湊を発って翌日の未明、南蛮船の初めての航海での船酔いに必死に堪えていると、ようやく目的地に着いたようだ。やはり黒潮に乗ると海路は断然早いな。


「陸地の様子はどうだ」


「まだ薄暗いですので、此方には一切気づいて居らぬ様子にございまする。今の内に接近して小船で上陸いたしましょう」


俺は「二つ剣銀杏紋」が大きく描かれた帆がはためく南蛮船の甲板に立つと、遠眼鏡で焼津湊の様子を伺っている小浜景隆から報告を受けた。武田軍に察知されるのはギリギリまで避けたい。


志摩水軍の船団は陸地の様子を伺いつつ慎重に接近すると、高天神城から打って出た織田軍が武田軍と交戦中の大井川西岸から10km北にある焼津湊の沖に停泊した。


「速やかに上陸して、瀬戸川の北岸に防御陣地の設営に取り掛かれ。じきに武田も此方の存在を察知するはずだ。一刻も早く防御陣地を造り上げ、万全の態勢で迎え撃つのだ」


「ははっ」


俺がこの焼津の北の地を選んだ理由は、北側が旧東海道で最大の難所である日本坂であり、駿府館の留守部隊が背後から攻めてくる心配はなく、南の瀬戸川が水堀となり、武田の騎馬隊を防ぐ役目を果たすという最高の立地条件だからだ。


武田軍は今は大井川西岸で織田軍と戦っているが、駿府館から目と鼻の先に位置する焼津に敵軍が陣を構えたとなれば、絶対に慌てて引き返してくるはずだ。


だが、その際にただ迎え撃つのでは単なる挟撃でしかなく、戦国最強の武田騎馬隊と正面から衝突するのはあまりにも分が悪い。


そこで、俺は騎馬隊の接近を拒む"青銅製"の有刺鉄線の鉄条網による馬防柵を幾重にも張り巡らせて、瀬戸川の北岸に凶悪な防御陣地を構築した。史実の「長篠の戦い」をイメージして、“遠距離攻撃”を主体とした迎撃を行うための強固な防御陣地を造り上げることにしたという訳だ。


そのうえで、防御陣地から鉄砲の三段撃ちだけでなく、南蛮船に搭載していた大砲を小型軽量化し、陸地での戦闘向けに改良した"大鉄砲"を設置して砲撃する。さらには焼津湊の沖に停泊した南蛮船からも艦砲射撃を行うのだ。さすがの信玄も“遠距離攻撃”のオンパレードには面食らうはずで、この戦術でも通用しないならば俺は南蛮船で逃げ帰るしかない。


「半蔵」


「ここに」


「大井川の西で戦っている武田軍の様子を注視せよ。動きがあり次第、報告を頼む」


「はっ」





◇◇◇




遠江国・大井川西岸。


「なに! 寺倉軍が焼津に現れただと? まさか、そのような戯れ言を信じろと申すか? よもや天から降って湧いた訳でもあるまいに」


正吉郎たちが焼津に上陸してから二刻後、武田軍の本陣にて武田信玄は「“いるはずのない”寺倉軍が焼津に現れた」という報せに耳を疑った。信玄は小指で耳をかっぽじって眉をしかめると、「武田四天王」の一人の飯富昌景を睨みつけた。


「それが、焼津の村人をひっ捕らえて問い詰めましたところ、今朝の明け方に海に浮かぶ無数の船を目にしたと申しておりました」


そんな信玄の威圧には疾うの昔から慣れている昌景は、怯むことなく淡々と告げる。


「海から攻め込んできたと、そう申すのか」


「寺倉は志摩を治めております故、水軍を使うたかと存じまする」


海からの侵攻の可能性については、信玄も全く考えなかった訳ではない。信玄は寺倉軍に駿府を攻められる恐れや織田軍と挟撃される可能性を冷静に勘案すると、まずは寺倉軍の撃破を優先し、反転して焼津への進軍を命じる。


「左様か。是非に及ばず。寺倉軍を打ち倒すべく、我らはこれより焼津へ向かうぞ」


水軍を持たない武田家にとって、海での戦はあまりにも不利だ。戦国最強の武田騎馬隊にとっては陸上での戦が最も勝機のある戦い方なのだ。


(水軍は陸では戦えぬ。寺倉が上陸したのならば、我らが最強の武田騎馬隊が木っ端微塵に打ち砕いてみせようぞ)


信玄は歯軋りの甲高い音を周囲に響かせながら、闘志を漲らせた目で北の方角を睨みつけたのであった。

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