津川の戦い

浅井長政は8月に越中・能登を平定して一旦撤退すると、11月初旬、上杉からの要請に応じて越後に援軍を派遣した。


浅井の援軍は「浅井三将」である赤尾清綱と海北綱親の二人が大将として率いていたが、その下の将兵は全てが能登の兵であった。その数は能登国の最大動員兵力の5000であり、譲渡された東越中の対価の援軍としては十分な兵数であった。


浅井軍は能登畠山軍と交戦することなく降伏させたため、能登畠山は兵力を無傷のまま残していた。そのうえ能登は東西北を海に囲まれており、南の加賀と越中に敵は存在しないため、守備を気にせず全軍を駆り出すことができたのだ。


畠山七人衆は能登の兵力が弱体化しかねない横暴に怒りに震えて切歯扼腕していたが、浅井に降伏した今、文句を付けるなど自らの首を絞めるだけであった。


だが逆に、この援軍派遣は戦功を挙げる好機でもあった。長政はこの蘆名領侵攻で最も大きな功を挙げた者を能登国代官に据えると公言しており、功を挙げれば能登一国を治めるという悲願が叶うのだ。これを逃す訳にはいかない。畠山七人衆の面々はお互いに牽制し合いながら、如何に功を挙げるかに躍起になっていたのである。


そして、11月上旬、上杉・浅井連合軍は蘆名領である越後の蒲原郡東部へと侵攻した。その数、1万5千の大軍である。





◇◇◇





蘆名家の当主・蘆名盛興は4年前に「奥州の名君」とまで評された父・蘆名盛氏から家督を譲られたが、実際は隠居した盛氏改め蘆名止々斎が依然として政治・軍事の実権を掌握し、蘆名家は全盛期を盤石のものとしていた。


盛興は父に似て武勇に長けた将であったが、如何せんまだ19歳と若年で経験が不足していた。大軍の報せに蘆名家中は騒然となり、盛興は顔面蒼白となったが、無類の酒好きの彼は大量の酒を呷って自らの動揺を鎮め、家中の動揺は蘆名止々斎によって収められた。


蘆名家は耶麻郡、河沼郡、大沼郡、会津郡の会津四郡と安積郡西部に加え、越後国の蒲原郡東部にも勢力を持ち、その石高は28万石であったが、現在、蘆名家は岩瀬郡の二階堂家との抗争中であった。


奥羽の大名家は婚姻関係が広範で複雑であり、蘆名止々斎は伊達家の前当主・伊達晴宗の妹を正室として蘆名と伊達は同盟を結んでいたものの、二階堂家当主・二階堂盛義も晴宗の娘を正室に迎えていた。


そして、伊達家は昨年、当主が晴宗の子・輝宗に代わったばかりであったが、輝宗は蘆名の勢力拡大を阻止するため、二階堂を支援して蘆名と敵対していたのである。


伊達と上杉の挟撃を避けるため、蘆名止々斎は急遽、盛興の妻に晴宗の娘をもらい、賠償金を支払って伊達・二階堂と和睦すると、蘆名軍は7000の全兵力で上杉・浅井連合軍に対抗すべく越後国蒲原郡へと出陣したのであった。





◇◇◇






11月10日、両軍は蒲原郡東部の谷合いにある津川にて対峙した。


上杉・浅井連合軍の総大将・上杉輝虎は浅井の援軍5000を別働隊として伏せさせ、上杉軍1万の兵を以って蘆名止々斎・盛興父子の率いる蘆名軍7000とついに激突した。


緒戦は苛烈を極めた。上杉輝虎は「軍神」と天下に名高き名将だが、一方の蘆名止々斎もまた名将であった。故に両軍の士気は非常に高く、一刻を過ぎると戦況は次第に消耗戦になりつつあった。


輝虎にとって戦が長引いて徒に兵が損耗するのは本意ではない。輝虎は浅井軍に蘆名軍の横合いから奇襲するように命じた。


浅井軍は能登兵で構成されているため、あまり統率が取れているとは言い難かった。そんな浅井軍を上杉軍と共に行動させれば、功を焦って抜け駆けした浅井軍によって兵数に勝る上杉軍が煽りを受け、窮地に追い込まれてしまう可能性も否定できない。


さらに、越後への援軍で最も大きな功を挙げた将に能登国の代官を任じることを輝虎は承知しており、長政が能登国を弱体化させて反乱の目を封じようと目論んでいることも容易に読み取れた。


したがって、浅井軍の将たちは必死になって戦功を競い合うことになる。輝虎はその戦意を上手く利用しようと考えたのだ。勇猛果敢に蘆名軍の横合いを突けば、蘆名軍は混乱して必ず大きな隙ができるのは間違いないと読んだからだ。


そして、輝虎のその読みは的中した。浅井軍は我先にと蘆名軍の横合いを突貫した。それを見るや否や上杉軍も総攻撃を仕掛けると、蘆名軍は瞬く間に瓦解していった。

嬉しい誤算だが、浅井軍の将で畠山七人衆の一人であった三宅綱賢が蘆名家当主・蘆名盛興を討ち取ったという。


ちなみに「畠山七人衆」とは言うが、今は7人いる訳ではない。1550年代前半まで畠山七人衆は能登畠山家の実権を握っていたが、1555年からの「弘治の内乱」で温井続宗、三宅総広が討死したため畠山七人衆に欠員が補充されることはなく、弘治の内乱で義続派に与した遊佐続光、長続連、飯川光誠に加え、内乱の途中に義続派に鞍替えした三宅綱賢を加えた4人が「畠山七人衆」と呼ばれていたのである。


そして、その4人の中で一際強い権力を保持していた遊佐続光と長続連が輝虎の予想通りに暴走し、他を寄せ付けないほど白熱した功の競り合いが展開されていた。


一方、弘治の内乱の途中で温井続宗方から寝返った三宅綱賢は、他の3人とは対照的に一歩引いた行動が目立つ最も影が薄い武将であった。そんな綱賢が一気呵成に蘆名軍へと襲い掛かる遊佐続光と長続連の隊を避けるように蘆名軍の斜め後方から攻勢を仕掛けたところ、運良く総大将の蘆名盛興を討ち取る大金星を上げたのだという。


総大将を失ったことで大きな混乱を招いた蘆名軍であったが、蘆名止々斎は息子の死に動じることなく、すぐさま軍の混乱を鎮めると、対上杉用に築かれた麒麟山の津川城に退却し、籠城を決め込んだ。


津川城は阿賀野川と常浪川が「Y」の字を右に倒した形で合流する間にそびえる急峻な岩山の麒麟山に築かれており、要所に縦堀を掘り下げて堅固な要塞に作り変えていた。


しかし、側室を持たなかった止々斎にとって唯一の息子だった盛興が討たれたという事実は、齢45で往年の輝きを失いつつあった止々斎には痛恨とも言える大きな痛手であった。


蘆名軍も津川城の地形を活かした戦闘で一ヶ月に渡って耐え続けたものの、上杉・浅井連合軍に敗北して減退した士気を回復させることは出来なかった。


12月5日、蘆名軍は「軍神」上杉輝虎の攻勢の前に敵わず、雪の積もり始めた津川城はついに落城し、蘆名止々斎は失意のうちに切腹に追い込まれたのであった。

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