武田の猛牛と飯田城の戦い

信濃国・伊那郡。


晩秋の冷気を帯びた風が頰を撫で、山を彩る紅葉が風光明媚な絶景を映し出す11月上旬。


竹中半兵衛率いる竹中軍は、東美濃の恵那郡から急峻な神坂峠越えの旧東山道を東進し、信濃国南部の伊那平に侵入すると、伊那郡南部の飯田城へと攻め寄せた。


飯田城は鎌倉時代に南北を天竜川の支流である松川と野底川に挟まれた河岸段丘の先端に築かれた平山城であり、10年前に武田家が制圧して以降、遠江国や三河国に攻め入る際の重要拠点として拡張された天然の要害であった。


この飯田城の城主は「武田二十四将」の一人で、その勇猛さから「武田の猛牛」と称された秋山虎繁である。虎繁は4年前の「第四次川中島の戦い」の敗戦後に和睦交渉役を命じられ、見事に「甲越同盟」を締結させた功により下伊那郡代として飯田城城主を任されていた。


実は今、武田信玄は織田との決戦のために遠江に出陣して甲斐には不在であり、伊那郡に手を差し伸べられる状況ではない。ここで竹中軍を食い止めなければ、甲斐国と接する諏訪郡まで侵入を許してしまいかねず、武田家の本拠地たる甲斐国の命運を握っていると言っても過言ではないのだ。


虎繁は5倍もの大軍に相対しては籠城を選ばざるを得ず、家臣も皆籠城に賛同した。だが、虎繁もこれまで何もせずに手をこまねいていた訳ではない。7月に安曇郡が奪われると、虎繁は次に狙われるのは伊那郡であり、この飯田城だと察するや否や、甲斐防衛の要所である飯田城に改修を施し、守備力の強化に努めてきた。


さらには兵糧攻めにも耐えうるように大量の物資も確保し、5倍の竹中軍が飯田城に攻め寄せた時には、竹中軍の攻勢にも決して負けない態勢を築き上げていたのであった。


だが、1万を超える竹中軍の侵攻に対して、飯田城に詰める2000の城兵は明らかに気圧されていた。眼下の大軍に飯田城の城兵や家臣らに混乱が広まる中、慄く城兵を鼓舞したのは、唯一冷静さを保っていた秋山虎繁本人であった。


「皆の者。この飯田城は信濃一の堅城である! 竹中の当主は今孔明などと呼ばれておるが、実体は女子のような顔つきにか細い体で、後方で指揮するだけの軟弱者でしかない。斯様な奴が率いる弱兵に、我ら一騎当千の武田軍が負けるはずなど断じてないのだ! 」


「「「おおおおおおおおおおーーー!!!!!!」」」


しん、と静まり返った飯田城内に虎繁の檄が響き渡ると、次の瞬間、地鳴りのような喚声が轟いた。


「臥薪嘗胆を期して、我らは何日でも何年でも耐え続けてみせる。竹中などに決して負けはせぬ!」


虎繁が呟いた声は轟く城兵の喚声の波に飲まれた。「武田の猛牛」と称される通り武田の勇将として相応しい風格を持つ虎繁であったが、実は心中は不安に満ちていた。

虎繁は武田家の中でも異例の出世スピードを誇り、負け戦を知らない男であった。故に、これほどの劣勢に立たされることなど一度たりともなく、不安に駆られるのも無理はなかった。とは言え、虎繁の出世も一朝一夕で成ったことではない。並々ならぬ努力の結晶なのだ。


――皆の者ぉ! 掛かれぇぇ!!!! 怯むなぁぁ!!!!


虎繁は魂の叫びを城内に木霊させた。自ら前線に立って城兵を指揮する虎繁の鼓舞により、城兵の戦意は更に高まる。竹中軍など取るに足らぬ。飯田城の城兵にそう思い込ませたのは他でもない虎繁であった。


飯田城の城兵は城攻めを始めた竹中軍に対して弓矢を浴びせ続け、竹中軍を全く寄せ付けない奮戦ぶりを見せたのであった。


しかし、5倍以上の兵数を誇る竹中軍の攻勢は凄まじかった。兵を3500ずつ3つの隊に分け、交代制で昼夜兼行で文字どおり息も吐かせぬほどに飯田城を攻め続けたのである。


そうなると守備側としてはおちおち寝てもいられない。最初は兵力に劣りながらも高い士気により逆に押し返して意気軒高だった飯田城の城兵だったが、やがて満足に眠ることさえできなくなる。5日間に渡る戦闘で飯田城の城兵は睡眠不足から疲労が積み重なり、体力の限界を迎えて徐々に押され始めていった。


――赤門、破られる!


飯田城の一角で、その美麗な紅の色から「赤門」と呼ばれていた桜丸御門が長きに渡る抵抗も虚しく、ついに打ち破られた。この報せは瞬く間に城内の兵を駆け巡り、あちこちから悲痛な声が上がる。


しかし、悲嘆に満ちた城内の空気を切り裂いたのは、またしても秋山虎繁の檄であった。


「諦めるな!! 竹中などに負けるな!! 我らは誇り高き武田の兵ぞ!! 赤門を破られたのならば、刃を以って竹中を打ち倒せ!!」


――オオォォォォォ!!!!!


天竜川の激流が如く怒涛の勢いで襲い掛かる竹中軍を、虎繁の叫びが食い止めた。逆に竹中軍を押し返すほどの裂帛の気合いを身体に込めて、虎繁は枯れつつある声で叫んだ。


「門が一つ破られたのならば他の兵で補うのだ! 皆の者! 我について来い!」


虎繁は自ら槍を取ると、二の丸の手勢を率いて桜丸へ救援に向かった。


しかし、これが虎繁の誤算であった。半兵衛は虎繁が桜丸へ救援に向かうことを予見していたかのように、逆に手薄になった二の丸に激しい攻勢を仕掛けたのであった。


二の丸の城兵は虎繁が自ら率いていたことから高い士気を維持しており、まさに死兵とも呼べるほどの抵抗を見せた。だが、虎繁を欠いた状況での竹中軍の攻勢が二の丸の城兵を徐々に追い詰めていき、ついに二の丸の門も破られ、侵入を許してしまう。


虎繁の加勢により何とか押し返していた桜丸の城兵も、二の丸を破られたことを知るとさすがに動揺を隠せなかった。虎繁は桜丸で自ら槍を振るって奮戦したものの、絶望の淵まで士気が落ちた城兵を元の状態に復帰させるのは困難を極めた。虎繁は再び鼓舞しようと声を振り絞るものの、5日間に渡って叫び続けてきた喉は枯れ果て、虎繁の掠れた声は無情にも城兵の耳に届くことは叶わなかった。


その結果、押し返しつつあった桜丸は逆に一気に押されて防戦一方となり、虎繁は本丸へ退却せざるを得なくなった。


虎繁はその後も3日に渡って本丸で頑強な抵抗を続けたものの、もはや形勢を逆転させることはできず、ついに本丸にも竹中軍の侵入を許してしまう。


虎繁は満身創痍になりながらも最後まで槍を振るって抵抗するものの、既に大勢は決していた。虎繁は馬廻りに命じて僅かな時を作ると、自ら腹を切った。


こうして、飯田城は8日間に渡る攻城戦の末についに落城した。竹中軍も少なくない被害を受けたものの、終わってみれば竹中軍の圧勝であった。


飯田城を落とした竹中軍は2日間休息を取って激戦の疲れを癒すと、伊那郡北部に位置する高遠城を攻略すべく、伊那平を一路北進したのであった。





◇◇◇





信濃国・高遠城。


現代では桜の名所であるが、元は諏訪氏一門の高遠氏の居城であり、20年前に武田家の城となると、上伊那の重要拠点として大規模な改築が行われ、今は武田信玄の実弟・信廉が城主を務めていた。


11月中旬、「武田二十四将」の一人である城主の信廉は、竹中軍の侵攻に頭を悩ませていた。竹中軍の攻勢により飯田城が落城して城主・秋山虎繁が切腹し、竹中軍は間もなく北上してこの高遠城に進軍してくるとの報せが先ほど届いたのである。


信廉は側近ですら見分けがつかなかったほど兄・武田信玄と瓜二つの容姿を活かして、史実では西上作戦中の信玄の死を隠して撤退する軍を率いたり、信玄の生存を疑った北条氏政が派遣した板部岡江雪斎を欺くなど、信玄の影武者を務めていた。


濃い髭を生やした威圧感のある顔つきと広い肩幅が特徴的な大柄な体格を有し、そのうえ性格も信玄に似て苛烈で家臣に畏怖を与える、まさに"武田一門"を体現する武将であった。


信廉は4年前の「第四次川中島の戦い」で兄・信繁を失ったことにより、親族衆筆頭として重きをなしており、さらには義信事件によって武田家の両翼を担う後継的立場に置かれ、次期当主の武田勝頼の後見役として重用されることとなった。


武田家からすれば無二の重鎮であるが、その重い役割故に降伏することは受け入れ難いことであり、そして信廉も自身の立場をよく理解していた。兄・信玄にもしものことがあれば若年の勝頼を支えるのは信廉だ。その上、信廉は信玄の影武者でもある。信玄の死を知られれば、織田が攻め寄せる好機になるのは火を見るよりも明らかだ。故に信廉は死ぬことは絶対に許されないのだ。


史実でも織田家の甲州征伐の際に、信廉は抵抗することなく居城の大島城を放棄し、甲斐へと退却している。信廉は高遠城に迫る竹中軍に対抗すれば死は確実だと判断し、やむなく高遠城を放棄し、甲斐への退却を決断したのである。


こうして、竹中軍は空城となった高遠城を接収して伊那郡10万石を制圧し、竹中家は63万石の領地となったのであった。

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